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「黙示録研究」
八 封印せられたる巻物とその解封者
藤井武
Takeshi Fujii
開けたる天門の幻影はつづく。
聖座に坐したもう者の右の手に一つの巻物が握られている。それはある特殊の巻物である。裏にも表にも文字がある。また七つの封印をもって厳重に封ぜられている。それは何を意味するか。
昔ユダヤにおいて土地を売買する時に、特殊の証券が作成せられて、買主の手に保有せられた。それには代金その他の事項が記載せられ、買主の印をもって封ぜられた。しかして裏面には証人が署名した(ウィームス「モーセの裁判法」サイスの引用による、エレミヤ三二の六〜一二参照)。
何のためにかかる証券は作成せられたか。売主をしていつか再びその失いたる土地を買戻すことを得させんがためである。けだしユダヤにおいては、土地は神のものであるとの思想が確く行われた。人は神の借地人たるに過ぎない。従って一旦正当に土地の分配に与かりし者は、おのが勝手にこれを処分することを許されない。「地を売るには限りなく売るべからず、地は我の有なればなり。汝らは旅客また寄寓者にして我とともにあるなり」(レビ二五の二三)。しかしてこの精神を貫徹せんがために「贖い」の制度が定められた。「贖い」とは土地を失いたる者の親戚がその者のために代金を払うて何時にても再び本人の手に土地を回復せしめ得る特権である(後日本人自身にその資力が出来たらばもちろん本人でもよい)。この場合に買主は売戻を拒むことを得ない。適当なる贖い人は来たりて必ずその売買証券を受け、みずから封印を解くことを許されるのである(レビ二五章)。
すなわち知る、証券は失われたる所有の表示であって、しかも後にいつか適当なる贖い人によって受領せられ解封せられんことを待つところのものであることを。
ヨハネが見たる巻物もまた裏表に文字あり、かつ多くの印もて封ぜられたるものであった。それもまた人類の失われたる所有の表示にして贖い人を待つところのものであった。
聖座に坐したもう者の右の手にかくのごとき巻物がある。人類の嗣業は失われている。神は始め我らを「少しく神よりも卑く造りて栄光と尊貴とを被らせ、またこれに聖手の業を治めしめ万物をその足下に置きたもうた」に拘わらず(詩八の五、六)、この栄光と尊貴と権力とは我らから失われている。今や人類に罪の痛みがあり死の悲しみがあり諸々の涙がある。万物は人類に服せず、地は呪われ、造られしものは皆歎いている。見よ、巻物は神の手にある。実に偉大なる深刻なる事実である。
ヨハネがこれを見てある間に、ひとりの強き天使が現われ、大声に呼ばわっていうた、「巻物を開きてその封印を解くに相応しき者は誰ぞ」と。巻物は贖い人を待つ。嗣業を失いたる人類は、何人かが来たりてこれを回復しくれん事を要求する。哀しむ者は慰められん事を願う。強き天使の叫びは同時に弱き全人類の叫びである。すべての文学はこの声ではないか。六千年の世界歴史はこの探求の努力の記録ではないか。巻物を開くに相応しき贖い人を見出さんがために、人類は今に至るまで苦しみつつある。
しかるにその人は何処にも見出されない、我らの眼の涙をことごとく拭うてくれるものは、天にも地にも地の下にも見出されない。我らは相変わらず悲歎と苦痛と号叫とを繰り返さねばならぬ、実になやみ多き世である。ああかくて幾その時を経ねばならぬのか。我らの求むる贖い人は遂に得られないのであるか。巻物は永久に聖座に坐したもう者の手に握られるのであるか。
ヨハネはこれを思うて「いたく泣いた」。彼は全人類を代表して泣いたのである。もし我らのために巻物を受け取るべき贖い主が遂に存在しないならば、我らの世界は絶望である。誰かこれに堪えよう。我らはしばしば望みを失わんとしてヨハネと共に泣く。
しかしながらその時長老の一人がヨハネに向うて言うた、
泣くな、見よ、ユダの族の獅子、ダビデのひこばえ、すでに勝を得て、巻物とその七つの封印とを開き得るなり。
喜ばしき音信!唯一人がある、「汝の手は汝の敵の頚を抑えん」と預言せられて獅子に擬えられしユダの族の理想たるもの、古きダビデの根より出づる「芽のごとく、燥きたる土より出づる樹株のごとく」に艶色なき悲哀の人、すなわち力強くしてしかもいと柔和なるもの、その人がひとりすでに世に勝ったのである、しかしてその勝利のゆえに人類の失われたる嗣業を回復するに相応しき者となったのである。彼こそは我らの贖い人である。彼は来たりて巻物とその七つの封印とを解き得る。
長老のこの言葉は数千年来預言者使徒らによって伝えられたる福音そのものである。この贖い人の音信を聴いてのみ我らは泣きやみ得る。キリストの福音を除いて人類の慰籍と希望とは何処にあるか。
慰められてヨハネは再び眼を挙げた、しかして見よ、聖座および四つの活物と長老たちとの間に、屠られたるがごとき羔の立つを。
屠られたる羔、「我らの愆のために傷つけられ、我らの不義のために砕かれ」たるキリストこそ我らの「贖い人」として完全なる者である。何となれば我らの嗣業は我らの愆、我らの不義のために失われたものであるからである。キリストが羔として屠られた時に彼はすでに我らのために価を払うた。されば今や何時にても来たりて我らのために巻物を受け取り得べき者がある。今や我らの失いたるすべてのものを我らのために回復し得べき者がある。我らの眼の涙をことごとく拭い得べき者がある。これを知って我らもまた古のヨブと共に言う、「我れ知る、我を贖う者は活く、後の日に彼は必ず地の上に立たん」と。
ヨハネなおも見てあれば、羔は来たりて聖座に坐したもう者の右の手より巻物を受け取った。ああ巻物は遂に受け取られた!いかに大いなる事実ぞ。久しき間失われてありし人類の嗣業は今こそ羔にありて回復するのである。人生の一切の欠陥は残りなく充たされるのである。すべての歎きが永遠に癒されるのである。我が贖い主の地の上に立つべき日、神の国の来たり臨むべき日、「仰ぎて首を挙げよ、汝らの贖い近づけるなり」と預言せられしその日(ルカ二一の二八)。
この日にまさる大いなる日は歴史上にあり得ない。造られしものの祈祷も讃美もみなこの日のためであったのである。ゆえに羔が巻物を受けた時に、四つの生物および二十四人の長老おのおの竪琴と香の満ちたる金の鉢とを持って羔の前にひれふすをヨハネは見た。この香は今日までに挙げられしすべての聖徒の祈祷である。聴かれずして終わりしと見えし祈祷もこの日ことごとく金の鉢に満たされて羔の前に持ち出され、しかして彼によりて確実に応えられる。何となれば、巻物はすでに受け取られたからである。(聴かれざる祈祷に泣く者よ、この日まで待て)。竪琴は讃美である。いまだかつて聞かれざりし新しき歌の讃美である。すなわち完うせられし贖いの歌である。
生物と長老との讃美に続いて、彼らの周囲にいる千万の天使らまた大声に歌う。最後に天と地と地の下と海とにある一切の造られし物、またすべてその中にある物、およそ物という物ことごとく声を合わせて讃美と尊崇と栄光と権力とを神および羔に帰し奉る。まことにこの日こそ石も遂に叫ばずにはいられない。しかして彼らを代表する四つの生物はアーメンをもってこれに応え、長老たちはひれ伏して拝する。パウロが預言して「このゆえに神は彼(キリスト)を高く挙げて、これに諸の名にまさる名を賜いたり。これ天に在るもの地に在るもの地の下に在るものことごとくイエスの名によりて膝を屈め、かつ諸の舌の『イエス・キリストは主なり』と言いあらわして栄光を父なる神に帰せんためなり」というたその福いなる日が遂にここに実現したのである。