ホーム/目次

「パウロによる福音」

The Gospel According to Paul

第8章 テモテへの手紙

Chapter 8 - In His Letters to Timothy

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



「……祝福された神の栄光の福音、これを私は委ねられたのです」(一テモテ一・十一)

「ですから、私たちの主の証しや、主の囚人である私のことを、恥ずかしく思ってはなりません。むしろ、神の力にしたがって、福音と共に苦難を受けて下さい」(二テモテ一・八)

「……私たちの救い主イエス・キリストは(中略)死を滅ぼし、福音を通して命と不朽とを明らかに示して下さいました。そのために私は立てられて大使、使徒、教師になりました」(二テモテ一・十、改訂訳欄外)

「死者の中から復活した、ダビデの子孫であるイエス・キリストを思いなさい。これが私の福音です……」(二テモテ二・八)

今、パウロが「私が宣べ伝えている福音」と称していたものに関する、締めくくりの考察を始めることにします。「祝福された神の栄光の福音」。まず初めに、この御言葉の正確な訳に注意する必要があります。なぜなら、色々な訳され方をしているからです。欽定訳では、「祝福された神の輝かしい福音(the glorious gospel of the blessed God)」となっています。先ほど引用した改訂訳(the gospel of the glory of the blessed God)といかに異なっているかがわかるでしょう。後者――改訂訳――が原文の正確な訳です。正しく訳す必要があるのは、次の理由によります。すなわち、福音は何に関するものなのか――福音の内容――についてパウロは述べているわけではなく、神の栄光の現れに関する福音について述べているからです。これはやや細かい話に聞こえるかもしれませんが、とても重要です。繰り返しますが、ここでパウロの念頭にあったのは、神の栄光の顕現に関する福音、良いおとずれでした。神の栄光の顕現――これが福音です。

もう一つの点に注意して下さい。それは「祝福された神の栄光の福音」です。この「祝福された(blessed)」という言葉を変えて、その代わりに「幸いな(happy)」という言葉を用いている訳もあります。つまり、「幸いな神の栄光の福音」とも訳されているのです。しかし、この訳は私たちの耳にはぎこちなく聞こえるのではないでしょうか?しかしそれでも、その真の意味を理解するなら、この言葉はあながちまったく不適切とは言えません。

新約聖書で「祝福された」と訳されている、二つのギリシャ語があります。一つはよく使われている言葉で、文字通りには「誉められている」を意味します。これは文字通りの意味ですが、新約聖書ではもっぱら「祝福された」という意味で用いられており、そのように訳されています。しかしながら、ここで使われているのはその言葉ではありません。ここで使われている言葉――前に述べた二つの言葉の二番目――は、滅多に現れない言葉です。その言葉は、適切な言い方をすると、ただ神のみにあてはまるものを表現する言葉です。すなわち、神の存在の独自性を表現する言葉なのです。人は神について様々なことを考えたり話したりしますが、神はそうしたものからかけ離れた御方です。人は自分の好きなように考え、好きなように話すかもしれませんが、神は比類ない御方です。これがここで「祝福された」と訳されている言葉です。この言葉が実際に意味しているのは、神の御心を満たしている、厳粛で、静穏な、安息に満ちた、永遠の喜びです。この定義を感得できたなら、ここで「祝福された」と訳されている言葉の意味をいくらか理解したことになります。それは神の御心の、静穏で、安息に満ちた、確固たる喜びの栄光の福音なのです。

神の栄光の良い知らせ

この福音、この良い知らせとなる、この神の栄光とは何でしょう?それは御子イエス・キリストにあってご自身を啓示される神の栄光です。ご自身の啓示です。旧約聖書では、ご存じのように、神の栄光は象徴的形を取りました。例えば、幕屋の至聖所では、恵みの座の上の二つのケルビムの間に栄光が見られました。この栄光が恵みの座を覆っていました。それは恵みの座、契約の箱を上から照らす一条の光でした。その光はそこから下を照らし、そこに焦点づけられていました。それは天的輝きでした。それは象徴にすぎませんでした。それが象徴していたのは次のことです――神の光は御子イエス・キリストを上から照らし、照り渡るものなのです。それが神の栄光です。パウロはコリント人たちに書き送って、これを「イエス・キリスト御顔にある神の栄光の知識の光」(二コリント四・六)という風に述べています。それは主イエスの中にあるものであり、神の全く安息に満ちた、静穏で、安らかな、永続する満足から成っています。

ひとりの人にあって現された神の栄光

さて、ここで特に顕著な点があります。神の栄光について考えてみて下さい。神の栄光について多くのことが述べられており、「神の栄光は聖書の中に見られる」と言われています。聖書を開くなら、神の栄光についてたくさん記されている、というのです。聖書を取り上げて神の栄光を探すと、何が見つかるでしょう?ひとりの人です!自分がひとりの人と向き合っていることがわかります。この人から逃れることはできません。旧約聖書は無数の方式、手段、方法で常にひとりの人を示します。新約聖書は最初から最後までひとりの人を見せています。常にひとりの人を見せています。ですから、こう言わざるをえません、「これこそ私が探し求めていた答えです。私は神の栄光を知る知識を求めていましたが、この探求に対する神の答えはひとりの人だったのです」と。しかし、これは「祝福された神の栄光の福音」というこのささやかな句の注釈にすぎません。「祝福された神の栄光の福音」とは御子イエス・キリストによる神の啓示なのです。

この御言葉の描写によると、神は完全な静けさ、安息、静穏、永続的な安心と満足と喜びの状態にあります。すべては「祝福されたさま(blessedness)」というこの言葉にまとめられます。この描写・記述によると、神はこの状態にあります。神のこの状態の根拠は何でしょう?神が御自分を完全完璧に表現するひとりの人を見いだされたことに他なりません。そうです、私たちはこの人がどなたか知っています。私はこの方の神性やこの方自身の神格を軽視したり、脇にやっているわけではありません。今考えているのはそのようなことではありません。神が人を創造されたことには、とてもとても高い数々の御旨があったことがわかります。実に、人が造られたのは、神の御心に応答して、神の御心を満足させるためでした。こう述べるのは途方もないことです。の御心を満足させる!自分を満足させようとして多くのことを行う人々もいます。しかし、彼らは決して満足することがないようです。彼らの標準や理想に届くものはなにもありません。あなたは長い道のりを行き、出来る限り遠くまで進んで、人の考えつくいかなる満足の境地にも達することができます。しかしそれでも、神の考えには遥かに遠く及びません。無限に及ばないのです。神は遥かに偉大であり、遥かに素晴らしいのです。

この堕落した被造物の中には、神の素晴らしさや偉大さのかすかな残照しかありません。しかしそれでも、この被造物のありのままの姿を見ただけで、そのあらゆる欠点や弱さや移ろいやすさ等にもかかわらず、畏怖と崇敬の念で立ち尽くさずにはいられません。神の偉大さや、神を満足させるにはどれだけのものが必要なのか、私たちにはかすかにしか見えません。しかし、この御言葉によると、神は絶対的満足、静穏、静けさ、安息、幸いな状態にあります。なぜなら、神のこれらの御思い、願い、意図、最初の企ては、今やすべて実現・完成されたからです――被造物全般によってではなく、ひとりの人によってです。この人は神に答えて、神の無限の御心の要求に最後まで応えて下さいます。キリストは何と偉大でしょう!それゆえ、神はこのことのうちに幸福、祝福、満足、静けさを見いだされるのです。

代表者であるひとりの人

おそらくあなたは、「これは言葉としては美しく、思想としてはとても素晴らしいです。しかし、その実際的価値はどこにあるのでしょう?」と思っておられるかもしれません。ああ、それこそ福音であることがわかります。「神の御子である主イエスがやって来て、人の立場を取り、完成されて、神を完全かつ決定的に満足させられたのは、神がひとりの人によって満足を得るためだけだった」とあなたは思っておられるのでしょうか?いいえ、福音とは次のことです。すなわち、主イエスは神が獲得しようとしておられるすべての人の代表者なのです。彼は代表であり、すべてを含んでいます。この昔ながらの美しい福音のはじめに、あなたも私も長きにわたって親しんできましたが、私たち自身を静めてもらうために、これをもっとよく把握する必要があります。その福音とはこれです。神の御子であるイエス・キリストは一つの領域であって、私たちはこの領域の中に召され、招かれ、信仰によって入るよう招待されているのです。それは、私たちが彼の中に隠れて自分自身から逃れるためです。神がご覧になるのはただ彼だけであって、私たちではありません。素晴らしいことです!あなたは自分の理屈や疑問をすべて捨てて、神の事実を受け入れなければなりません。「キリストにあって」というこの句は新約聖書の中に二百回以上出て来ますが、これにはきっと何らかの意義があるに違いありません。

神は私たちをキリストの中にご覧になる

これが意味する第一の点、そしておそらくすべてを包括する点は、もしあなたがキリストの中にあるなら、神はあなたを見る代わりにキリストをご覧になるということです。ここに小さな紙が一枚あります。この紙はあなた自身や私自身、ありのままの私たちだとしましょう。この紙を一冊の本にはさみます。この本はキリストだとします。すると、この紙はもはや見えなくなり、本しか見えません。これが「キリストにある」私たちの立場です。これがキリストの意義です。キリストは神を満足させておられますが、それがすべて私たちの口座に繰り入れられています。これが福音です。あなたや私がキリストにある時、神は私たちに満足されます――静かで、幸いであり、祝福されています。ああ、素晴らしい福音!これは理解することも説明することもできません。しかし、これは事実を述べたものです。これが満足を得た神の栄光の福音です。

前の章でこれとは別の文脈の中で適用した検査を再び述べるとこうなります。あなたや私が真にキリストのもとに来て、キリストの中に自分の場所を見いだす時、私たちの意識に上る最初のことは、「圧迫はすべてなくなった」ということです。私たちは安息に達しました。天然のものではない驚くべき静けさが私たちの内に到来します。私たちと神との間の戦いはすべて終わったと感じます。これは素晴らしいです。祝福された幸いな状態です。さて、これが私たちの経験です。しかし、その意義は何でしょう?その意義は、幸いな神の御霊が私たちの心の中で神の幸いを証ししておられる、ということです。「祝福された神の栄光の福音」。その第一段階は地位です。私たちはキリストにあります。

私たちの内におられるキリスト

この第二段階もしくは第二の面は、キリストは私たちの内におられるということです。しかし、この点を追いかけて前と同じ結論に至ってはなりません。これが意味するのは、キリストが隠れて私たちが見えるようになるということではありません。違います、キリストは私たちの内におられ、私たちはキリストの内にいます。おそらく次のように述べない限り、これを説明するのは不可能です。キャンベル・モルガン博士はある時、「バプテスマは浸礼でしたか、滴礼でしたか?」と尋ねられました。彼は言いました、「親愛なる友よ、私と一緒にナイアガラの滝に来て、その下に立ってみて下さい。あなたは水滴を受けるでしょうか、それとも水に浸かるでしょうか?」。さて、答えはあなたにお任せします。しかし、これはそういうことなのです。キリストは私たちの内におられます。どうして彼は私たちの内におられるのでしょう?キリストが私たちの内におられるのは、神の御心をまさに満足させる御方としてであり、神の御霊が私たちの内で働いて私たちをキリストに同形化するためなのです。

そして、これによりクリスチャン生活の別の面が開かれます。あなたや私が内なるキリストというこの基礎に基づいて絶えず進み続けるなら、私たちの喜びは増し加わって行きます。これは試してみることができます。主と共に進むのをやめて、自分の喜びに何が起きるか見てごらんなさい。主から離れて、自分の幸いに何が起きるか見てごらんなさい。そうするなら、私たちは嘆き始めるでしょう――

「主を初めて見た時の、
 あの幸いはどこに行ったのか?
 イエスとその御言葉を見て、魂を新鮮にされたのに、
 それはどこに行ってしまったのか?」

ああ、しかし、私たちの誰かがこの詩歌を歌う羽目になることを、神は断じてお許しになりません。それは必要ないことです。神は主イエスに満足しておられます。この基礎に基づいて主イエスと共に進み続けなさい。そうするなら、この幸いは増し加わります。神の幸いが私たちの心の中に広がって行きます。キリストが私たちの内側に据えられて、模範、標準、神の働きの基礎となって下さったのです。

さて、これは基本的事柄です。ああ、これを学ぶのにいかに長くかかることか!これが単純であることはわかっています。しかし、これは基本であり、これに基づいて私たちは常に旅をしています。もし私たちが自分自身に基づいて進み続けようとするなら、神は止まってしまいます。私たちの自己は惨めで破綻しています。神から見てそれは死体であって、死臭を放っています――このように言うのをお許し下さい――なぜなら、それは死んで二千年たっているからです(冗談に聞こえるかもしれませんが、大まじめです)。もし私たちが自分自身という立場に依り頼み、自分自身に基づいてやっていこうとするなら、もしあなたが「あなたたちの内におられるキリスト」という立場から離れて自分自身という立場の上に立つなら、神は「私はこれ以上進みません」と仰せになります。神の働きはすべてやんでしまいます。立ち返らない限り、進み続けることはできません。私たちの出発点は信仰でした。イエス・キリストは私たちの身代わりであり、神に対して私たちの立場を取って、私たちのために神に答えて下さいました。これを信じるところから始まったのです。私たちはこれを信じ、この信仰によって私たちはキリストの中に移されました。自分自身を信じるのではなく、主イエスを信じるこの同じ信仰をもって、私たちは最後まで進み続けなければなりません。もし私たちが神の土台に基づいて進み続けるなら、神も先に進まれるでしょう。もし私たちが神の土台の上に居続けさえするなら、神は先に進んで祝福を常に増し加えようとしておられます。これは良い知らせです。神の栄光は御子の中にあります。御子とは別に神の栄光が人に宿ることはありません。

ですから、キリストは私たちの領域であり、キリストは私たちの中心であり、キリストは私たちの模範です。使徒が言うように、私たちはキリストに同形化されつつあり、遂にはキリストが私たちの内に完全に形造られます。単純で基本的なことです。キリストにある神の栄光は、信者たちによって、教会によって現されます。なぜなら、信者たちは御子に対する神の満足に基づいて安息しているからです。ただこれだけが神の栄光の道であり、神の祝福と神の幸いが表される道です。これが福音です。

これらの点はみな、最後にはこの点に焦点づけられることがわかります。福音とは何でしょう?福音について語り尽くしたとしましょう。その内容を次の文章の中に含ませて網羅することができます――御子に関する神の完全な満足、安息、静けさが、私たちに対して開かれたのです。ああ、あなたも私も神と喧嘩せずに生きることができます。私たちはキリストの内にあるからです!兄弟、姉妹よ、自分自身のことで惨めな気持ちになり始める時、それを断固としてはねのけなさい。「そうです、それならすべてわかっています。たとえ今はそれについて完全にはわかっていなかったとしても、私が惨めな気持ちになったのは一時のことにすぎません。自分がいかなる者か私にはよくわかっています。自分がいかなる者かを考え始めるならどうなってしまうのか、私にはわかっています。私はそれを脇にやります。これは事実です――神がそれをなさったのです――大昔に、キリストにあって私は十字架につけられ、キリストにあって死に、キリストにあって葬られ、キリストにあってよみがえらされたのです。これはすべてキリストにあってのことです。ここに私は立ちます」。この立場を維持しなさい。キリストの中にとどまりなさい。この立場から離れて別の立場の上に立つなら、栄光は去り、祝福と幸福はやんでしまいます。

若者に対する良い知らせ

パウロはテモテに福音について語りました。テモテは良い知らせ、良いおとずれを必要としていました。まず、テモテは若者でした。クリスチャンの若者は、自分自身の個人的な数々の問題を抱えています――自分自身の内に多くの困難や問題を抱えています。若者にとって人生はこれから始まります。人生の諸問題すべてに直面します。テモテは若者でした。このような若者に向かって使徒は言います、「大丈夫です、テモテよ。こうしたあらゆる問題や困難によってあなたは悩まされるかもしれません。様々な仕方であなたは霊的にこうしたあらゆる問題を抱えるかもしれません。しかし、イエス・キリストはそうした状況にことごとく応じることができるのです!」。若い男女よ、覚えておいて下さい。主イエスは若者のあらゆる問題に対する神の答えです。これは良いおとずれではないでしょうか?

テモテは若かっただけではありません。特殊な困難の中にある若者でした。それはクリスチャンの働きにおける彼の立場のためでした。三つの方面から困難が彼に臨みました。第一は、異教世界からです。当時、若者にとってそれは何と難題だったことでしょう!神のための余地、主のための余地、神の事柄のための余地がまったくない世界だったのです。さらに、この異教世界の敵対勢力がことごとくこの若者の上に集中攻撃を加えているかのようでした。第二に、ユダヤ教界から来る困難がありました。パウロはここでそれをほのめかしています。このユダヤ教徒たちは堅い決意を抱いて、パウロを世界中追いかけ回していました。「この男を始末しなければならない――この男の働きを完全に一掃しなければならない!」。あらゆる手を尽くして、このユダヤ教徒たちはパウロとその働きとその回心者たちを滅ぼそうとしていました。テモテはパウロの仲間でした。パウロは言います、「私のことを恥ずかしく思ってはなりません」。パウロと関わっていたために、テモテはかなり多くの困難に会いました。それに対する答えはこうでした、「大丈夫です、テモテよ。あなたのために良い知らせがあります!主イエスはこの問題に応じることができます――あなたを最後まで顧みて下さるのです」。

次に、テモテは神の働きにおいて――神の教会において――大きな責任を担っている若者でした。この責任の大きさが少しでもわかるなら、かなりしっかりした信頼できる根拠が必要であることがわかるでしょう。テモテはとても面倒なクリスチャンたちに直面しました。しかし、パウロは言いました、「若いからといって、誰にも侮られてはなりません」。偉ぶった人たち――自分のことをひとかどの者と思っている人たち――がいました。彼らにはこのように言う傾向がありました、「ああ、ご存じの通り、テモテは若者にすぎません――あまりテモテに注目してはいけません」。彼らはテモテの若さを見下していました。これは耐えるのがとても困難なことです。もしあなたがたまたまそのような立場にあったなら、あなたはすっかり落胆してしまうでしょう。私はよく覚えているのですが、私が務めを開始して、ある教会に対して責任を持つようになった時のことです。その教会の役員の大部分は年配の人たちでした。ある日、その中の一人が次のように言うのが聞こえました、「彼が若すぎるのはご存じでしょう!」。しかし、彼らの中に素晴らしい人が一人いました。その人は言いました、「それなら心配ありませんよ――いつかその問題を克服するでしょうから!」。さて、これはとても親切な優しい姿勢です。しかし、責任を担わなければならない時が来る時、同労者たちの間のそのような類の態度のせいで、あなたはすっかり落胆してしまうかもしれません。テモテはそのような立場にありました。しかし、これがテモテに対する福音です。「大丈夫です。主イエスはその状況に応じることができます――あなたのことも最後まで顧みることができるのです」。

結局のところ、実際はまさにその通りです。主イエスは「神から私たちへと至る」神の満足とされました。ああ、神に感謝します。主イエスは私たちの過ち、弱さ、欠点を挽回して下さいます。かつて私はある物語を読みました――実話だと思います――欧州のあるホテルの物語です。人々は安息、静けさ、隠遁を求めて、よくそのホテルに行って滞在しました。ある日、一人の母親が小さな女の子と一緒に到着しました。その少女はピアノを習い始めたばかりでした。毎朝、少女はまずピアノの所に行き、何度もピアノを弾きました。一日中、ピアノを弾いたのです。朝も昼も夜も少女は引き続けました。とうとう滞在客たちは鬱陶しくなって、どうすればいいか集まって相談しました。その時、そのホテルに滞在するために、ある有名なピアニストが到着しました。彼はただちにその場の雰囲気を察知して、この状況に介入しました。そして、少女がピアノに向かうと、彼も一緒に行って席に着き、自分の両手を少女の両手の上に乗せて導きました。すると、すごく美しい音楽が流れ始めたのです。人々は自分の部屋からピアノのあるその部屋にやって来て、座って聞き入りました。演奏が終わると、このピアニストは少女に言いました、「ありがとう、お嬢さん。今日はとても楽しかったですね」――こうして問題はすべて片付いたのです。

そうです、主イエスは御自分の両手を私たちの両手の上に置いて下さいます。私たちは物事を滅茶苦茶にしてしまうかもしれません。もし放置されるなら、そうしてしまうでしょう。私たちは台無しにして、多くの害を及ぼしてしまいます。私たちはあまりにも不完全で、あまりにも間違いを犯しやすいのです。しかし、主イエスが祝福に満ちた仕方でやって来て、私たちの欠点をただし、私たちに代わって御父に答え、私たちの過ちを益に変えて下さるのです――どのようにしてでしょう?――ご自身によってです。まさにご自身によってそうして下さるのです。

「祝福された神の栄光の福音」――これが答えであり、これが良い知らせです。