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「黙示録講義」

第一講 我は最先いやさきなり、最後いやはてなり

第一章(一九二九年九月十五日)

藤井武
Takeshi Fujii



黙示録はすでに第三、四世紀の頃からキリスト者の興味より遠ざかったものらしく、爾来じらい多くのキリスト者がこの書を特別視してこれに親しまなかったようである。この書に関する註解書は聖書中の他の諸書のそれに比して、寥々りょうりょうたるものと云わねばならない。カルヴィンもマイヤーもこれが註釈を試みていない。兎に角この書が一般に読まれていないのは明白なる事実である。その理由は単にこの書の内容と形式に帰せらるべきであろうか、そうは思われない。それはかえって我らキリスト者自身に欠陥あるがゆえでなかろうか。

先ず黙示録の聖書における地位を見るに、創世記と相侯あいまってこの書は聖書の首尾をなしている。誠にこれなくば聖書は欠けたる満月よりも奇なるものとならねばならない。創世記という雄大なる序曲ありて、荘厳なる大団円この黙示録なかるべからず。創世記なき聖書が考えられざるごとく、黙示録なきそれを想うことは出来ない。創造の太初を示し摂理の歴史を教えたもう神は、同じく完成の大未来を掲げたもう神でなかろうか。罪と死の最後の決定は如何いかん、人類社会の混乱と腐敗のなりゆき、虔と不虔、義と不義の総決算、これらのことを神が忘れたもうはずがないのである。義者のため義は立たねばならない、信者のため希望は成らねばならない。見よ、神は黙示録において、その審判と約束とを最も明らかに示したもう。

黙示録しかく輝かしき書であるならば、これを読まざるの責はまさに信者その人の不健全に帰せられねばならぬ。かくては真の希望をたぬ者、従って希望なき生活をなす者、来世抜きの信仰に生くる不具者と断ぜらるるも、詮方せんかたなきことであろう。

黙示録をその内容の珍奇なるのゆえをもってしりぞくるか、その人はいまだ旧約に親しまざるを自証するのみ。この書より旧約に現われたる観念と詞藻しそうを除去せば、果たして幾何いくばくを残し得るのであろうか。またこの書の内容とする事柄の非現実性をもってこれを遠ざくるか、その人はいまだ罪の恐ろしさと審判の現実性を知らないのである。またこの書の形式の詩的要素に富めるゆえをもって難解とせんか、その人は真理を難解視せんとするものにほかならない。真理は具象の中に単純に素朴に直観さるべきものであるから。かくて黙示録のつ内容と形式は特異なるものあるに拘わらず、この書の敬遠さるべき理由とはならない。むしろ健全なる聖書常識を欠き、真剣なる罪観念を体得せざることが、この書に親しまざる主たる原因であらねばならない。救済の根本原理を明らかにしてくれるロマ書のごとき、祈祷の友である詩篇のごときが、信仰生活に欠くべからざるものであるように、この黙示録は信者の実際生活に対し、特に希望の書として、不滅の明星を仰がしむるものである。

第十六世紀の宗教改革によって、人の義とせらるるは信仰のみによると云うキリスト教の柱石的真理が闡明せんめいされた。爾後じご世紀をけみすること四回なるに、なお柱石にしゅうしてさらに究極的真理を把握するに至らない。個人より社会へとの動向は晩近ばんきん盛んではある。けれども正しき個人主義はあやまれる社会主義に展開し、プロテスタント主義は本来の面目を逸してカトリック主義に感染している。新教はここにおいてか再び古き聖書に立ち帰って、正しき個人観の上に正しき社会観を築かねばならない。道は下向して獣畜の社会には通ぜず、逆行して寺院の門には戻らず、前進し登攀とうはんして不可見的召団(教会)の社会に導く。来世と召団の何ものであるかを深く学ぶことは今後のキリスト者の義務であり、聖書真理の燈火を高く山巓さんてんに輝かすことは日本のキリスト者の使命ではないか。

さて黙示録はその冒頭に曰く、「これイエス・キリストの黙示なり」と。何とキッパリした宣言ではないか。読まんとする者は先ずこの一言を静かに念とし、全幅の信頼をもってこれに対さねばならぬ。黙示と訳されたる原語アポカリプシスは、蔽われたるものをあらわす意であるから、啓示あるいは顕示と訳するをより適当とする。ヨハネの書かしめられたるこの啓示録、小アジアにある七教会への回覧的書翰は、大別して左記の三部より成る。

序文プロローグ、第一章一〜八節
本文メイン・パート、第一章九節〜第二十二章五節
末文エピローグ、第二十二章六〜二一節

さらに本文を区分すれば次の三段となる。

見しこと 第一章九〜二〇節
今あること 第二章、第三章
後にならんこと 第四章一節〜第二十二章五節

ことごとくこれキリストの預言のことばと幻であり、ヨハネの実聞であり実見である。ヨハネ、序文に祝福して曰く、

この預言のことばを読む者とこれを聴きてその中にしるされたる事を守る者等は幸福さいわいなり、時近ければなり。

我らこれを聴いて想到するは、かのガリラヤの里に福音を述べ始めたまいしイエスの聖言みことば

時は満てり、神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ。

である。「近し」と天来の声は告げる。かつてこれをしりぞけしはユダヤ人、今これを否むは近代キリスト者である。

「時近ければなり」との意を単純に受け入るる者はさいわいである。これを何か数概念に翻訳せんとする者はわざわいである。キリスト者にとっては、キリストの再臨は常に新しき待望の対象である。彼はかの驚くべきことば、「われは盗人のごとく来たらん」と、かつて語りたまいし方である。キリスト者が率直にかくのごとき言を信ずるときに、その心は希望に輝いている。生ける信仰の前には「千年も一日であり、一日も千年である」からである。

ヨハネは愛の使徒である。しかるに、その小書翰においてあれほどまでに愛を高唱せし彼は、この書翰(黙示録)において神をば愛なる神とは称えない。驚くべき大いなるキリストの啓示にあずかり、この老使徒は今やむしろ預言者的使命に立った。かくて何と神を呼びまつるべきであったか、曰く、

いまし、昔いまし、のち来たりたもう者

と。第四節より第七節に至る彼の祈りのことばに耳傾けよ。全能の神、高大深遠なる摂理の神を明らかに意識している彼にとり、神は今いましたまい昔いましたまいし方たるにとどまらず、またやがて来たりたもう神である。三時界にわたる永遠の神、特に、来たりたもう神である。永劫の世界より時の流れの中に来たりたもうて、創造の聖業みわざを なしたまい、堂々歴史を導きたまい、やがて完成の大業をこれにかぶらせたもう神である。決して、世界を罪の混沌に放任して顧みたまわぬがごとき神ではない。アルパにして必ずオメガなる神にてましたもう。かくのごとき生ける神を、果たして幾人のキリスト者が実感をもって握っているか。もしまことにこの一事を実感するならば、彼の生活は一変せざるを得ないであろう。われら老使徒のこの偉大なる自覚に参すべきでないか。キリス卜が我々一人一人に対して、神と共にかくのごとき大いなる方にてますを忘るる位ならば、キリスト者よ、むしろ走りて他の理想主義の徒に加わる方よからん。

「その御座みくらの前にある七つの霊」とは何を意味するか。聖書においてはおよそ七の数は完全あるいは無限性を意味する。それゆえに七霊の象徴するところは神の現われ方の無限性にある。神は「微睡まどろむこともなく寝ることも無い」方であり、ある時は強く、ある時は穏やかに、ある場合には大きく、他の場所ではこまやかに、はたらきかけたもう。また「憐憫あわれみある者には憐憫あわれみあるものとなり完き者には全きものとなり、潔き者には潔きものとなりひがむ者にはひがむ者となりたもう」。しかく万様なるは、ただ神の真実の現われの結果たるのみ。一切の曖昧あいまいや虚偽は神の真実の前に立つことあたわず、あらゆる不義は神の眼をのがれることあたわない。

この神に対してキリストをば、ヨハネがここに「忠実なる証人しょうにん」と称えたのは、ゆえあることである。神の義の永遠の肯定は、ただ主キリストのみがなしたもうた。彼のほかに何人が、徹底的のアーメンを神になし得たか。生まれながらの人の子らはついに不従順のやからである。さればヨハネは深き感謝と限りなき歓喜の心をあらわして曰う、「その血をもて我らを罪より解き放ち」、また「死人のうちより最先いやさきに生まれたまいし者」と。前者は十字架の恩恵であり、後者は復活の嘉信かしんである。十字架と復活のキリストは、さらにまたいかなるキリストにてあらんとしたもうか。この祈りの最後の一句に心せよ。曰く、

よ、彼は雲のうちにありて来たりたもう、
諸衆もろもろの眼、ことに彼を刺したる者これを見ん、
かつ地上の諸族みな彼のゆえに歎かん、しかり、アーメン。(七節)

再臨のキリストである。彼を刺したる者が特に見まつるべきキリストである。これはおそるべきことでなかろうか。審判である。大いなる嘆きがなければならぬ。その時逃げ惑うとも時すでに遅い。これを知りて、不信のおそろしさに戦慄しないでいられようか、罪の深さに泣かないでいられるか。黙示録は決して甘美なる希望をうたわぬ。冒頭すでにかくのごとき痛烈なる語をもって審判の序曲を奏す。本書の厳粛なる所以ゆえんである。一切の人智よ、ここに黙せ。審判の日は来たる!現在すでに厳かに行われつつある神の審判を嘲る者は、来たるべきこの大事実を夢想だもしないであろう、魂の砕けざることほど恐るべきことはない。

十字架、復活、しかして再臨のキリスト。「今いまし、昔いまし、のち来たりたもう主なる全能の神」。これがヨハネの全霊をもって今仰ぎつつある神であり、主である。彼がパトモスの孤島にて幻にたキリストは柔和なる人の子ではなくして、厳然たる王者らしき審判者らしき力強き実在者であった。ヨハネは森厳と光輝の極みなる彼をのあたり見奉りて聖なる畏れに打たれ、いにしえの預言者のように「その足もとに倒れて死にたる者のごとく」なった。つづく聖声みこえかりせば、彼は再びち得なかったであろう。

おそるな、我は最先いやさきなり、最後いやはてなり……」

一切は彼よりで彼に帰するのである。彼は始めより義をもって行いたまい、義をもって審判さばきたもう。彼は終りに至るまで愛をもって顧みたまい、憐憫あわれみをもって救いたもう。誠に彼はすべてのすべて、アルパにしてオメガ、全き信頼をささぐべき唯一の実在者人格者にてましたもう。ヨハネは今この限りなき深き聖言みことばを聞きて甦り、その見しことと今あることと後に成らんとすることとをしるすべく、大いなる使命を帯びて立った。