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「黙示録講義」
第十講 審判大自然に降る
第八章(十一月十七日)
藤井武
Takeshi Fujii
残る唯一つの、第七封印を羔は解きたもう。神の大経綸は一大展開をなさんとする。ヨハネはここに何を観たか。沈黙の静寂である。万軍と天使との力ある讃美の声は鳴りをひそめ、万籟も闃として黙した。神の沈黙は昊天を蔽うた。これより一段と厳粛なる審判が起ころうとするのである。
沈黙は人をその本心に立ち帰らしめる。騒がしき時に聞こえざりし声が響いてくる。俗物に遮ぎられて見えざりしものが現われてくる。雑念に禍されて考えざりしことが心の扉を叩く。霊性をして枯死せしむるものは沈黙の欠乏である。近代人は沈黙の何たるかを知っているのであろうか。
ヨハネの観し森闃として静まれる沈黙の深さよ。すべてのものはこの時過去を回顧して罪業と恩恵の歴史を想い、未来を望んで来たらんとする審判と憐憫を待つのでないか。しかり、万物の黙祷である。黙すことは神と親しく語ることである。
ヨハネはかくて神の前に七人の御使いの立てるを見た。彼らには七つのラッパが与えられている。やがてラッパは七人の天使の口に。沈黙は破れんとする、天は動き地は揺がんとする、大いなる審判は来たらんとする。
また他の一人の天使が現われる。聖徒達の祈りに加えて香の煙を神のみ前にのぼせる。これ天使の加祷である。友の祈りが力であり援軍であるように、天使のいのりは神の僕らに大いなる慰めであろう。一つのいのりも空しくは帰らないであろう、その聴かるるさまの意外なるに、かえって驚く時がやがて来るであろう。神は頭髪の一つをも数え、落つる木の葉の一つをも知りたもう方であれば、聴かれざる祈りなしとの主の聖言は完全に成就するであろう。神らしさにいかほど驚きの目を瞠るとも、なお足らざるときが来るであろう。思え、天に大いなる執り成しの祈りあることを!
正邪混沌として分明ならざりし世界は、今や神の義しき審判の簸揚に遭わんとする。全天の沈黙、厳粛なる黙祷終るや、御使いは香炉を把り、これに祭壇の火を盛って地に投げた。轟然として起これるはすなわち雷霆と声と電光と地震。これぞ審判の烽火、地に聖憤は降らんとする。「エホバの目は義しき者を顧み、その耳は彼らの号叫に傾き」、「エホバの聖顔は悪をなす者に向かいて、その跡を地より断ち滅ぼしたもう」そのことは今まさに成就せんとするのである。
時こそあれ、備え成りし天使のラッパは第一の爆発を火山のごとく。前後相次ぐ四つのラッパの吹奏につれて撃たれしものは、地である、樹である、青草である。海である、その生物である、海上の船である。川である、それに因みてまた人である。さらに諸々の星である。審判はかくのごとく主として自然界に臨み、そのおよそ三分の一が撃たれて失せた。
審判先ず自然にのぞむ、これは人類にとって痛きことでなかろうか。聖書は告げる「土は汝のために誼わる」と。創世間もなき時人の罪のために誼われたる自然は、また世の終わりに当たって神の審判を受けねばならぬ。自然は人の親しき伴侶、忠実なる僕婢である。彼ら亡び失せて、人に痛苦なかろうか。
こころみに思う「樹の三分の一、焼け失せ」の一句を。樹は我々にとっていかなるものか。日常生活におけるその外的効用を思うても枚挙に遑なかろう。しかし樹の我らになくてならない所以はこれら一切の効用のゆえにあらずして、その存在自体が人の心に触れる何ものかを有つがゆえである。知る人ぞ知る、樹は人の友である。
自然の三分の一が害われてのち、一羽の鷲が中空を飛翔しつつ呼ばわるのをヨハネは見た。禍なるかな三呼、なおも三つのラッパにより三つの禍害の来たるべきを告知する。