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「黙示録講義」

第十六講 最終いやはてのラッパ

第十一章一四節以下(三月九日)

藤井武
Takeshi Fujii



封印開かるること七たび、吹奏改まることすでに六回。準備は長くあらねばならぬ、結末は重くあらざるを得ぬ、始め創造の五期を経て人類の造られしがごとくに。先に第四の天使ラッパを吹いて天体の三分の一失せし時、一つの鷲中空を高翔こうしょうしつつなお残れる三つのラッパのゆえに地に住む者らのわざわいなるを告げた。第五の天使のラッパによるいなご禍害わざわい、すなわち第一の禍害わざわいの成就せんとき、なお二つのわざわいの来たるべきことが予告された。第六のラッパの吹かれしときヨハネは騎兵二億の幻影を見た、人の三分の一が殺された。その後雲霓うんげいを身につけたる天使が叫んだ、「この後、時は延ぶることなし。第七の御使いの吹かんとするラッパの声のづる時に至りて神の僕なる預言者たちに示したまいしごとく、その奥義は成就せらるべし」と。なおまた二人の証人しょうにんの幻影、都の十分の一の倒壊と地震のための人々の死。かくて第二の禍害わざわいがすぎ去り、今や第三の禍害わざわいが直ちに来たろうとする。かくのごとく三度重ねて予告されし第七のラッパである。目にも耳にもいと新しきことが起ころう。

第七の天使のラッパの音!かつていかなる大兵の進軍ラッパもかく高らかに響きしことなく、万籟ばんらいも静まりかえりてこれに耳傾くるばかり。待ちに待ちたる人々に嚠喨りゅうりょうと聞こゆらんその調べ。摂理は確く、その深遠なる奥義はまっとうせられんとし、厳烈なる第三の禍害わざわいはのぞまんとする。地の歴史はここに最後の幕を閉じ、天の青史せいしに処を譲ろうとする。ああ最後のラッパ、信ぜずして誰かかくも壮烈なる合図の起こるを知ろうや。地に住む嘲る者ら、哀哭なげき切歯はがみすることあろう。

ラッパに応えて天に数多あまたの大いなる声が起きる、

「この世の国は我らの主およびそのキリストの国となれり、彼は世々限りなく王たらん」(一五節)

ことばは少ない、しかしこころは無限である。この世の国とはこの世の君すなわちサタンの君臨している悪の幕屋、強暴の家である。善なるものの苦しまねばならぬところ、罪に醒めたる魂のなやまねばならぬところである。誰か完膚かんぷあらん、誰か涕泣ていきゅうなからん。この混沌と暴戻ぼうれいと悲哀との地が神とキリストの国となり、サタンとその嬖臣へいしんらはその座より蹴落されたという。何と壮絶なことではないか、限りなき感謝と讃美ではないか。この世の国は神のものとならんと云うにはあらで、なれりというのである。現在完了である。暁雲ぎょううんを破りて朝暉ちょうきさし昇れりと云うのである。全地は金箭きんせんに射られて暗黒の衣は絶ちられたりというのである。事いまだ起こらざるにすでに勝利の宣告である、誠に力ある輝かしきおとずれである。今や恩恵の光は雲にさえぎらるることなく、秋の日のごとくにあきらかである。神自らすべてをべ、大いなる聖手みてもて罪を除きたもう。もはや艱難も憂患も疾病も貧窮も悲愁もその力を失いて影をとどめぬであろう。その日には主イエスの祝福の聖言みことばが全き成就を見るであろう。その日には全価値の転倒が起こるであろう。されば主にありて雄々しかれである。

淵は淵を呼び星は星に応えるごとく、二十有四の長老はのあたり神を拝して言上ごんじょうする、

「今いまし昔います主たる全能の神よ、
汝の大いなる能力ちからりて王となりたまいしことを感謝す。
諸国の民、怒りを懐けり、汝の怒りもまたいたれり。
死にたる者をさばき、なんじの僕なる預言者および聖徒、またしょうなるも だいなるも汝の名を畏るる者に報賞むくいを与え、地を亡す者を亡したもう時いたれり」(一七、一八節)

これ最後の審判全地の大改革を、衷心ちゅうしんよりの悔い改めと感謝と歓喜と讃美とをもって迎える億兆の代言である。「今いまし昔います主たる全能の神よ」と呼びまつりて、最早もはや後来たりたもうとは云わない。主はすでに来たりたもうているのである。「光あれ!」の創造のあけぼの、人の子の降誕のあした、キリストの復活のあさぼらけ、しかして最後のラッパ鳴り渡るこの朝、輝かしき嘉信おとずれに我らの心涙するまでに躍る。

「汝の大いなる能力ちからりて王となりたまいしことを感謝す」、望みて確信せしところ、見ずして真実とせしところは、ここに現実となった。諸国の民は怒りを懐いてこの時にまで及んだ、わざわいなる怒りの子らである。彼等のなせしことは何であったか、擾乱じょうらんである、狂暴である、空虚なる策略である。諸国は立ち構えて戦闘をなし、群伯は相議して空論をなし、神とキリストとに背いて「われらそのかせこぼち、その縄を棄てん」という。不虔と不義、背信と混乱、神を畏るる者絶えてなきが現世の状態であった。神の召命に耳を閉じ、義人の預言を嘲り、罪に罪を重ね、かくて世の終わりは来た。蓄積せられたる神の怒りはついに爆発したのである。詩篇第二篇をもって最もよくこれを解することを得よう。不虔不義闘争叛逆の濁流滔々とうとうたる中を蹴って、信頼の小舟を漕ぎ行く者の危険は大である。時に坐礁ざしょうするであろう、あるいは難破して悲運の最後を遂げもしよう。しかし救いの舟は必ずや来る。天来の祝福は怒濤の呪誼に打ち勝つであろう。我らの生をして虚実いずれにか決せしめよ。戦は真剣である。万人は一度神の御前に赤裸々せきららの姿にてひきだされる。神は必ず「死にたる者をさばきたもう」。誠に神らしき御業みわざである。

この時人類は二つに分たれる、神につけるものと地にける者、麦と毒麦、一つは穀倉におさめらるべく他は束ねて焼かれんがために。神の僕なる預言者、キリスト者、小さきも大いなるもおよそ神の名を畏れし者はすべて天の祝福を得、地を亡す者すなわち「真理の泉を腐らすもの」(スイートの解釈)は地の茵陳いんちんを飲むであろう。「心腐りて真理を離れ、敬虔を利益の道と思う者」(前テモテ六の五)、神と取り引きをなすもの、これらサタンの子は滅亡の審判を収穫せねばならないのである。

二十四人の長老審判のことを宣し終るや、神の聖所ひらけ、契約のひつぎ現われ、電光いなずま閃き、大声叫び、雷霆いかづち轟き、地は鳴動し、雹は石と降る。審判は厳粛である。人よ、夢ならず、幻ならじ。