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「黙示録講義」
第二講 初愛、生命、戦闘、権威
第二章(九月二十二日)
藤井武
Takeshi Fujii
第二章第三章は第一章と第四章以下との連鎖をなすものである。すなわち「見しこと」と「後に成らんこと」との中間たる、「今あること」であって、当時存在していた小アジア地方の七教会に対する審判と預言であるが、その意とするところは七教会をもて代表せしめ、もって全教会史を審判し預言するにある。形式の上からは、一貫したるこの長き書信の一小部をなすに過ぎないけれども、決してこれを等閑に附することは出来ない。主題が「今あること」である以上、我らに緊密なる関係を有し重大なる意義をもたらすところの、味わうべき文字である。
当時小アジアに存していた教会はここに挙げられている七つに限らず、かつまた彼等が必ずしも代表的なものとも言い得ないけれども、これら七教会の信者の性情が、歴史における信者の動きを預言的に表わすに適合しているところから、選び出されたものと見てよかろう。教会に対する審判と約束は直ちにその各員への審判と約束である。キリスト者たるもの心して、この七教会の使いに書き贈られたる書信を誦むべきである。
さてこの七使信の書式を検するに、第一受信の教会名、第二発言者の特徴、第三当該教会の現状、第四称揚または譴責の辞、第五審判、第六慫慂、第七勝利者に対する未来の約束、と云うごとき様式を現わしている。
「我すべての人にはすべての人の状に従えり」(前コリント九の二二)と云う言のあるごとく、語りたもう者の特徴は語られる七教会の各々に対応して神らしき適わしさを表わしている。しかしてそれらの特徴を綜合するとき、ほぼ第一章に描かれたるキリストの全貌に近い。しかしてまた個々の教会の勝利者への約束を打って一丸とするならば、そは第四章以下に説かれんとする輝かしき真理の綜合的序曲となるであろう。かくて七教会に贈られたる聖言は個別的に考えるべきものではない。これを綜合的に観るとき、その時始めて真意が把握される。七光の天門我らの眼前に懸る、これを過ぎりて荘厳なる審判と荘麗なる祝福の真理を、我ら瞥見するであろう。しからばその光の門にはいかなる文字が記されてあるか。
一 初愛
エペソは小アジア西南沿岸の港市。パウロの伝道せし地、ヨハネの赴きし処である。政治的に宗教的にまた交通上貿易上にも、その地方の中心をなしていた。従ってエペソの教会は有力なる教会であった。その信徒はよく労しよく忍んだ。しかし彼等にある重大なものが欠けていた。聖言の金矢はそこを射た。何ぞ、曰く「初めの愛」!初めの愛の喪失である。初めの愛の特質は言うまでもなく freshness(清新)にある。晨星の光芒滴るがごとき、暁天の清陣香るがごとき初めの愛が失せて、雲翳は聖顔の前に現われざるを得ない。何の説明をか要せん。主を仰ぎみて十字架の恩恵に心泣きし当初の純真と新鮮を想起しないか。そこには全霊の傾倒の外何ものがあったか。主の喜び嘉したもう愛はかくのごときものではないか。彼は「昨日も今日も永遠に易りたまわざる方」にて在ます。主の信実に対して人は何と不信実であるか。神の前にはただかくのごとき愛のみが相応しい。
しかしながら事実かくのごとき愛は永続し難い。その力は人間に失せている。人は余りに弱くかつ汚れている。かくて人はただ十字架に立ち帰るの外、とるべき道を有たない。しかして真心もてキリストの血に跳び込むとき、憂えるなかれ、初めの愛の輝きに立ち帰ることが出来るのである。しかるに矜驕不信なる人の心は嘲りて、十字架の信や愚かなりと云う。かくてはいかによく労しよく耐えるとも、その徒労あたかも鰐魚の卵を孵化せんとするの類いには非ざるか。宜なるかな聖書に曰く、「それ十字架の言は亡ぶる者には愚かなれど、救わるる我らには神の力なり」(前コリント一の一八)と。
誠にイエスのイエスたる所以は新鮮そのものなる人格にある。この人格に対してはつねに新たなる信頼をもってすべきである。信頼の源泉は十字架の信に在る、十字架の信の純真なるものは初めの愛に在る。
この聖言はただにエペソに対してのみならず、また他の諸教会にとっても紛う方なき警鐘たるを失わない。代表的教会エペソに対し、総括的なる重き一撃をあたえたもうたのである。聴け、その余韻の広く全教会に行き亙り、遠く全時代に流れ来たりて、我らの心耳にまで鳴り響くを。これ一人一人への、始めにして終わりなる深きメッセージ(使信)にてはあらぬか。
二 生命
スミルナはエペソの北の方、同じくエーゲ海にのぞむ一小港市である。発言者は自らを、「復た生きし者」と宣したもう。復活せるキリストである。彼には永遠の生命がある。いざわれら、活けるキリストの自ら言いたもう力ある聖言を聴かん。
スミルナの信者は忠実なる者であった。忠実なる信者には必然この世の艱難貧窮の波が襲って来る。彼らはもと富める人々であったが、しかし彼らにとって固有の富はあれどもなきがごとくであった。何となれば財は私有独占のものではなく、神の喜びのために適当に用いらるべきものであるからである。財は外的に私有であっても内的の私有にはあらず、また内的の公有であっても外的の公有ではない。財は神の属であって、人はこれを最も内的に用いねばならない。財についてあやまれる多くの人々が地獄(ダンテ)の第四環にて何と罵り合っているか。一群は「何故に貯えるか」と問い、他の一群は「何故に投げるか」と反問している、「悪しく与え悪しく貯えたことが、美しい世界を彼等より奪い、彼らをこの争いに置いた」のである。
富についてサタンがキリストを試みしごとく、彼らスミルナの信者は試みられたであろう。彼らには幸いにしてキリストの精神をもってこれを撃退するの信仰があった。患難は彼らの受くべき糧となって来た、彼ら義しきを踏みしがゆえに。けれども力強き聖言が彼らに贈られた、「なんじ死に至るまで忠実なれ、しからば我なんじに生命の冠冕を与えん」と。この一句、キリスト者たるもの深く銘意するところなくして可なるべきか。約束し力づけたもう者は、自ら永遠の生命を有ちたもう活けるキリストである。キリスト者よ、黯然として魂の消えんとする時もあろう。しかし信者の生活には底力のある生命が躍動しているべきではないか。しかり、確かに内なる我にこの力がある。活けるキリストに結びつける者に、世に勝ち得て余りあるこの力と喜びがある。キリストは我らの義たらんために永遠に生きて在りたもう。我らの生命は彼の義の中にのみある。生命のおとずれ!これがスミルナヘの光栄ある約束であり、キリスト者の栄光の冠冕である。
三 戦闘
ペルガモはスミルナのさらに北方、海岸を少しく距りたるところにある。この教会は堕落してこの世と妥協するに至った。キリストの愛に対する貞節をもってせずして淫する者に、審判の降らざることはあり得ない。さればこそ「両刃の利き剣を持つ者」がもの言いたもうのである。
キリストは聖言の剣にてサタンを撃退したもう。もしキリスト者にしてこの悪の幕屋に対し同じ戦闘が止むならば、そのとき彼は妥協者背教者であってキリスト者ではない。生ける限り淫行の霊とその大軍とに対して戦いを続けねばならないのが、キリスト者の生涯である。今の世の現状は預言者ホセアの言の通りである、曰く「かれらの行為かれらをしてその神に帰ることあたわざらしむ、そは淫行の霊その衷にありてエホバを知ることなければなり」(ホセア五の四)。偶像千態、淫行の百鬼夜行、現代のこの溷濁をいかんせん。これに対する聖戦はキリスト者の糧である。
四 権威
ルデアの地ペルガモの東南に在るテアテラの信者もまた、前者に似てあらぬものの前に膝を屈した。バラムの教えを保ちてニコライ宗に走り淫行をなしし者のペルガモにありしごとく、テアテラにも淫婦イゼベルのごときものに心を寄する者がある。彼らはすべて律法の第一、「汝我面の前に我の外何ものをも神とすべからず」を犯したのである。神の外にまことの権威者なく、神の権威はその聖言にあらわる。聖書の真理の外、どこに権威あり生命の力ある真理があろうか。真理の源はただこの権威ある活ける神にある。キリスト者はこの真の権威者のほかに拝すべきものを知らない。しかしてすべて真理ならざるものに対して、聖言の権威をもって戦わねばならぬ。
光輝ある真理の聖言に宿ることは、儀文によらず聖霊によって知られる。何が真理であり何がしからざるかを明瞭に判別することがないならば、信仰生活は眠れるものと云わねばならぬ。教会の権威、学者の論説、民衆の輿論、そんな風のごときものによりて動くべきではない。我らには静かにより頼むべき確き聖書の権威がある。この森厳にしてしかも悠揚たる権威に生きよ、しからば汝らもまたそのごとく権威ある者とならんとキリストは約束したもうのである、曰く「我が父より我が受けたる権威のごとし」と。聖書の真理を我が有として、キリスト者自らに犯しがたき権威が具わる。誠に上よりの力のなすところ、人の眼には奇しく見ゆる変化である。聖言は限りなく深い。この権威を帯して闘う戦士、陸続としてわが日東に出づべきでないか。