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「黙示録講義」

第二十講 神の酒槽

第十四章六〜二〇節(四月二十日)

藤井武
Takeshi Fujii



さきに第四のラッパが吹かれて後、一羽の鷲が中空を飛んで、その後起こらんとする三つの禍害わざわいを予告したことがあった。このたびは三人の御使いが中空を駆って相次いで審判の預言をなす。第一の御使いは永遠の福音を携えて、神を畏れ神に栄光を帰すべきことを万民にあまねしらせる、そは最後の審判の秋がすでに来ているからである。第二の御使いは大いなるバビロンの滅亡が己れの淫行のゆえに来たれるを告げる。第三の御使いはおのが憤りの葡萄酒を人々に飲ませし偶像崇拝の輩は、今や反対に神の聖憤の葡萄酒を飲ませられ、火と硫黄との永劫の苛責かしゃくに遭うを告げ、もってキリスト者の忍耐の空しからざることをかとうする。

幾何いくばくもなくして祝福のことば天に聞こえ、主にありて死ぬる人の幸福さいわいと平安と栄光とが預言され、まことのわざの不滅なることがあかしせられる。

審判の序曲終わりて幕が切りおとされ、二つの場面が展開される。

第一の場面には白雲があり、金冠を戴ける人の子のごときものその上に坐して、手にはき鎌を持ちたもう。刈り入れである。畠には麦と毒麦とが混在していた。しかし今は時満ちて地の穀物全く熟し、いずれがよき麦、いずれが毒麦なるかは判然としている。利鎌は一茎としてその黒白をあやまることがない。毒麦は意外に多くあろう、「されど毒麦は集められて火にやかるるごとく、世の終わりにもかくある」であろう。しかして麦は祝福の中に倉に収められ、「義人は父の御国にて日のごとく輝く」のである。

第二の場面においては同じくき鎌を持つほかの天使がおり、また火のごとき御使いが祭壇より現われる。凄愴せいそうの感を起こさしめるこの天使は葡萄のすでに熟せるを告げる。やがて葡萄は刈り取られ、神の憤りの大いなる酒槽に投げ入れられる。酒槽は聖なる都の外にて踏まれる、赤きもの酒槽より溢れ流れて馬のくつわにとどくばかりに。預言者曰く、「我はひとりにて酒搾さかぶねをふめり……われ怒りによりて彼らをふみ憤りによりてかれらを踏みにじりたれば、かれらの血わが衣にそそぎわが服飾よそおいをことごとく汚したり、そは刑罰の日わが心のうちにあり救贖あがないとしすでに至れり」(イザヤ六三の三、四)。また他の預言者も言う、「鎌をいれよ穀物は熟せり、来たり踏めよ酒槽さかぶねかめは溢る、彼らの悪大いなればなり、かまびすしきかな無数の民審判さばきの谷にありてかまびすし、エホバの日審判さばきの谷に近づくがゆえなり、日も月も暗くなり星その光明ひかりを失う、……我さきには彼らが流しし血の罪を報いざりしが今はこれを報いん、エホバシオンに住みたまわん」と(ヨエル三の一三、一四、二一)。

神の怒りの酒槽である。鉄筆もて記されし預言は堅く天の巻物に残っている。預言者、主イエス、並びに使徒らによって幾度となく告げられし審判の日に至りて成就するまで、これらの預言は決して消えることがない。酒槽を要求するものは何であるか。神の怒りである、神の峻厳である、神の義である。真剣なる神にはごまかしや融通は寸毫すんごうかない。義のためにはどうあってもゆるすことの出来ない真面目さ、怒りにまで爆発せずしてはやまざる人格の真剣味、ここに我らの神の神らしさの深き一面を見奉らねばならぬ。本当に神を信じているか否かは、己れのつ神がかくのごとき神なるか否かによって定まる。白は白であり黒は黒である。光は光でありやみやみである。どうして混同してよいか。善の世界に灰色はない、妥協は絶対にゆるされない。人格の真剣味はここにある。神は「お父様」と云いて親しく寄りすがれる方であるが、しかしそこにはいつも犯すべからざる厳かさがある。キリストの父なる神はそうであるに相違ない。今のキリスト者にして、かくのごとき神にその「右の手を支えられて」生きている者果たして幾人あるのであろうか。空しきもぬけの殻の信仰はよした方がましではないか。学問は貴く、知識は大切だ。しかし神の実感なくして一体よいのであるか。その一日一日を活きたる神そっちのけの生活を送っていて一体何せんとするのか。イエスは今の世の学者パリサイ人に向かって、どんな「わざわいなるかな」を発したもうであろうか。神を握りたる者の生きた人格の真剣なるあらわれがおのずから他の人格に働くところに、教育の本領もまたあるのである。神に捉えられて生きている以上、どこかに世の人とちがったところのあるのが当然である。それのないキリスト者は味なき塩である。

神がしかく真剣なる方なればこそ、審判はかくも強く預言されているのである。ダンテのごとく、罪の姿を地獄のどん底まで見きわめよ。安価なる信仰ではキリストの十字架は仰げない。