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「黙示録講義」
第二十七講 新しき天と新しき地
第二十一章一〜八節(六月八日)
藤井武
Takeshi Fujii
黙示録はさながらに預言の古詩であるが第二十一章に至りて最高潮に達する。この絶唱を説明せんとするは寧ろ徒らである。静かに読みて味わうべきのみ。
我また新しき天と新しき地とを見たり。
天地は新しくなる、あたかも創造の晨のごとき新鮮さに!これ旧新約聖書の預言の終局であり、黙示録の絶頂である。神の示したもう人生の目的地であり、限りなき愛の聖旨の成就である。プラトーンの理想もカントの王国も、新しきエルサレムの完きに比しては何であろう。ノヴーリスの夢幻もゲーテの調和も、新しきシオンの美しさに比して何であろう。キリスト教ほど高き理想主義はなく、またキリスト教ほど美しき浪漫主義古典主義もないのである。しかり、キリスト教は一切の主義を遥かに超えて偉大である。壮美である、何となればキリスト教は神の思想であり真理であり生命そのものであるからである。
これまで黙示録に記され来たれる主題は審判であった。しかしてそれにも優って力強く唱道されているものは、審判の深刻に対比してまた輝かしき栄光である。かくて第二十一章の幻の出るまで長き長き幾幕かをヨハネは見極めねばならなかった。テニソンの言いしごとく、我々の偉大なる劇作家もまた、「ほぼその第五幕頃ともなれば」待ちて俟つ者に何ごとかすばらしきものを見せようとする。おそろしい暴風雨のあとに澄明が来る、光明である、光輝である。まさに「聖なる喜劇」である。すべての過程は大団円への準備であった。準備をして思うがままに長からしめよ、終わりをして完からしめよ。神は必ず聖業を成し遂げたもう。「何人もその時のいつなるかを知らない」、しかし明日の今日に従うごとくその必ず来たるべきことを、信じて待つものは福である。
新天新地の出現と共に著しき変化が人に生じている。それは本質的の変化であって階段的のそれではない。光が闇を蔽うように、キリストの愛が衣せられたのである。人の理想の姿はここに実現する。人の望み得る最上のものがここに備えられる。人は全く自由にして永生の存在となる。その生活は神と不可離の中にある。
視よ、神の幕屋、人と共にあり、
神人と共に住み、人、神の民となり、神自ら人と共に在す。
神と人と一つなる生活である。およそ生くることは相対的である。しかして神との相対においてのみ人の絶対的生活があるのである。神との相対を可能ならしむるものは十字架の完き贖罪による神の恩恵である。しからずして罪人は神と共なることは出来ない。偉大なる相対の生活よ。ここにのみ永遠の生命がある。何となれば生くることは愛することであり、愛は限りなく存つがゆえに。曰く「人、友のためにおのれの生命を棄つ、これより大いなる愛はなし」。また曰く「主は我らのために生命を捨てたまえり、これによりて愛ということを知りたり、われらもまた兄弟のために生命を捨つべきなり」。また「愛と云うは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し、その子を遣わして我らの罪のために宥の供物となしたまいし是なり」と。愛することは己れを他者のために棄てることである、己れの生活と生命を悉皆神に捧げ尽くすことである。活ける人格の神におのが全人格を傾け尽くして信頼する人、その人のみが神と共にあるのである、かくのごときが新しき天地の人の生活である。
最近の哲学に道う、生命は相対的なるものであって、他者のために生きること、すなわち自己を他者に与えることが、真に生きる所以であると。哲学の発見せし人生観、二十世紀の今日においてなおこれならば、聖書の真理の永久的偉大に今更のごとく驚かざるを得ない。
「神人と共に」と、言余りに簡なるのゆえに読み過ごしてはならない。神の愛とキリストの十字架をもう一度しずかに想わねばならない。新天新地の生活は、エデンの園の古えもこれに如かざるものである。「すべては神より出で、神によりて成り、神に帰する」生活である。これこそは理想の理想、人生の極致である。聖書を読む者の幸いはかかることを学ぶにある。神はかくのごとき真理をはじめから示したまいしに、人は価なくして得らるるものの最も貴き所以を知らないのである。出でて緑なす山に登らずや、生命の泉は至るところに湧き出でている、聖書の真理はかくのごとく清新にして純粋である。平明単純にして限りなく深く高きもの、これをしも真理と云うのである。
新天新地が現われ、聖なる都新しきエルサレムが何ものも比ぶべからざる美しき様にて神のもとを出で、天より降るをヨハネは見た。彼はこれを新婦に譬えるの外を知らなかった。
視よ、われ一切のものを新たにするなり。
すべて心痛むる古きことごとは一掃されて、嬰児のごとき鮮新の心に帰る。罪の虫はここに巣くわず、悲しみの影はここに宿らない。神の幕屋の新しさ、人の心の輝かしさ、高秋の清澄も如かざる碧空の下に!これで沢山ではないか。この世の思い煩いなどはどうなってもよいではないか、このことさえ実現すればそれでよいではないか。今、真理のために苦しむ者は幸いである。
かくて「死もなく、悲歎も、号叫も、苦痛もない。旧き罪の世界は過ぎ去ったからである」。我々はかかる聖言の真意を今充分に実感することが出来ない。この世はあまりに罪と悲しみと死とに充ち満ちている。しかしこれを希望とするほかに我々は希望あるを知らない。
最後にわれらは一つの言を特に忘れまい、
「かれらの目の涙をことごとく拭い去りたまわん。」
アーメン、しかあらんことを。