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「黙示録講義」
第二十八講 聖なる都エルサレム
第二十一章九〜二七節(六月十五日)
藤井武
Takeshi Fujii
かの七天使の一人ヨハネに曰う、
「来たれ、われ羔の妻なる新婦を汝に見せん。」(九節)
すでに聖霊に感じたヨハネは御使いに携えられて、ある大いなる高き山に行った。羔の新婦と呼ばれるものはいかなるものかと見てあるに、一つの都が神のもとを出でて天より降ってくる。聖なる都はいかなる真理の具象であろうか。天より降りしそのことに、この世のものとは本質的に異なる消息が予知せられる。その中主なるものと思われる五つを我々は次に学ぼう。
第一、ヨハネは携えられて高き峯に立っており、何ものかこの世ならぬ一塊のもの、いと高き天より栄光を衣て降るを見た。そのときの輝かしき第一印象を記して曰く、
その都の光輝はいと貴き玉のごとく、透徹る碧玉のごとし。(一一節)
と。ヨハネの直観よく本質を道破した。この都の光輝は神の光により、燦然たること宝玉のごとく、透徹る潔さは碧玉のごとくである。光と潔さ、これがこの都の経緯なす本質である。曇れる一閃もなく、汚れたる一塵もなき、清暉そのものの都である。かのバビロンの大淫婦の妖艶と、いかに甚しきコントラストであるか!まことの潔さに関心を有たない近代人は、この天の美を知らない。近代人の美とするものは病的である、不自然である。透徹る碧玉のきよさに似通うものは、かの冬の晨いまだ陽の昇らない頃の薄明の空にうき出ている富士のきよらかさであろう。贖罪の恩恵を心から感謝するものはかかる潔さを慕う。義とせられたる者はキリストに対する貞潔を守らずして何とするか。二心を抱いて、何の信、何の愛、何の望であるか。キリストに対するエクレシヤの貞潔を、ヨハネは透徹る碧玉に見た。貞潔観念なきキリスト者はキリスト者ではない。これキリスト者の本質である。清浄感の失せたる現代キリスト教をいかにしようか。キリスト教もしかかるものならば、去って武士道に往くに如かない。
第二に、この碧玉のごとく透徹れる都には高き大いなる石垣があってこれを繞り固め、しかして都の形は方形であると云う。正立方体は完全を表わす。輝かしきこの都は球形をなさずしてかえって方形である。すなわち円満の完全ではなくして、角のある完全である。角稜の完全体は何を象徴せんとするのか。けだしキリスト者は十字架のゆえに全く潔きものとされたる罪人であって、罪人たることにおいて変わりはなき、依然として角のある人間である。どこまでも罪人であり、ゆるされて生くる者である。されば天国はおのずから円満具足人の社会ではなく、一つの十字架を仰ぐゆるされたる罪人の召団である。しかり、天国にても十字架がなかったならば、人の義はないのである。天国の厳粛さはここにある。私のこの方形の解釈に対する可否の論は人にまかす。ただ我らはかく観じて心の中にアーメンがある。
第三には都の構成物である。石垣は碧玉にて築かれ、都は清らかなる玻璃のごとき純金にて造られ、石垣は十二種の宝石であり、十二の門は十二の真珠である。この数多なる宝玉貴石は、その形状性能光輝において一つとして同じきものはない。聖なる都の民もまたかくのごとく、聖霊は同じけれども賜物を殊にし、主は同じけれども務めを異にし、彼らのすべてのうちにすべての活動をなしたもう神は一つにいませど彼ら一人一人の活動は相同じくないのである(前コリント第十二章)。彼らには各々独自の賜物があって輝き、その一つがとり外さるるときにも石垣はゆるむほどに、各自の持場は重いのである。この世の工師の棄てたる石は、この都にことごとく宝玉の垣をなしている。これは誠に神の成したまえる事であって、人の目に奇しとする所である(詩一一八の二二、二三)。お互いにつまらぬ一人一人ではあるけれども、神に用いられて何人も他と置き換え得られざる存在であることを自覚すべきである。近代人は協同一致和合調和と云いて、大衆相歩み寄り相妥協しあって何ごとか企てんとするが、妥協歩み寄りに何の一致調和があるか。真正の調和は外的の接近や類似などで成り立つものではない。相互の個性と人格と独立とを尊重して、始めて調和と力とは来たる。神の前には各人は絶対の存在であり、独自の使命を与えられている。個はただこの大源にありて自己に徹し、同時に他にもまた自ら徹し得るのである。かくのごとき人格のあつまるところ、それが真のエクレシヤである。一体たる新婦である。受くる光にかわりはなけれど、その光を限りなき光彩に映えしむる虹の美しさ!彼ら一人一人は一粒一粒の水滴にすぎないが、相集まりて美しき虹を構成する。深きは神の真理である。
第四の真理は何であろうか。
われ都の内にて宮を見ざりき、
主なる全能の神および羔はその宮なり。(二二節)
この輝かしき都にはさぞ立派な殿堂が築かれ、どんな荘厳な拝礼がなされることだろうと、人々は思うかも知れない。あにはからんや、事実は正反対である。ヨハネは一つの宮あるを発見しないのである。地上に聳える無数の教会堂と伽藍と神社と、人間は生まれながらのカトリックなりとはこれにて十分の証明である。かく宮が雨後の茸のごとくに並び立つは、この社会に神無きことを示すにあらずして何であろう。まことの神を拝することを知らしめられたる者には、宮はもはや興味を唆らない、教会堂は要らない、往くところとして神の宮ならざるはないのである。神はただ霊と真実とをもってのみ拝される。それ以外の条件は神を拝する上に問題とならない。この礼拝の理想は新しき都において現実となっている。主なる全能の神および羔そのものが宮である、何ぞ手にて造りたるものを要しよう。
第五の真理は、「都は日月の照らすを要せず」以下にある。神の栄光全都を照らし、道の燈火は羔である。すべてが光の中にある。光明燦然光彩陸離たるこの都に入るに相応しからずとせらるる者は、およそ穢れたる者、また憎むべき事と虚偽とを行う者、闇の子、怒りの子、サタンの子らである。光と暗とは竟に座を同じくすることは出来ない。
反対に、愛の光とこしえに輝くこの国に入る者は、天の生命の書に昔より記されし人々である。誰々の名が羔の生命の巻に載せられてあるかは何人も知らざるところ、そこに人生の厳粛がある。神を知らざりし民にして真実なるものが見出されもしよう、主の名を呼びし人にしてその顔を見せぬものもあろう、罪業深かりしも旅路の夕に生命の水を見出でし者はここに感謝の歌をうたっていよう、かの十字架上の盗人のかんばせは、いかに晴れやかに主に向けられていることだろう。
預言は預言に応える、
昼は日再び汝の光とならず、月もまた輝きて汝を照らさず、エホバ永遠に汝の光となり、汝の神は汝の栄えとなりたまわん。(イザヤ六〇の一九)