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「黙示録講義」
第八講 神の印
第七章一〜八節(十一月三日)
藤井武
Takeshi Fujii
黙示録の解釈にはおよそ四通りの途があると思われる。第一は合理的に観る人々でキリスト教原始時代の歴史的事実のみをとり来たりて跡づけんとするのであるが、これはかえって事実に対する牽強附会に陥り、科学的に似て実は方向をあやまれるものと言うべきであろう。この派の人と目すべきスイートのごとき、信仰深くとるべき説あるにも拘わらず、大体において賛成することが出来ない。第二はいわゆる正統派の信者の観方であって、聖書は神の言であるがゆえに文字通りに解せんとする。神の言であるがゆえにすべて信ぜんとするはしかるべきことであるが、しかし言辞そのままの表面の意に拘泥することはかえって文字の真意に対する曲解である。これ神の言を把握すべき態度であるとは考えられぬ。この流に属する人にサイスがある。彼の講説聴くべきところなしとせず、彼の書は霊の力旺溢せる立派なものではあるが、しかしかくのごとき読み方に与することは出来ない。第三の人々は、第一の者のごとく当時の史実と照合せしむるにあらず、また第二の者のごとく未来の文字通りの預言とも解せず、およそ事実の具体的表現をここに見るをあやまりとなし、神の原理をこれより抽象すべきであると主張する。これにミリガンのごとき堂々たる学者がある。この読み方は正しくはあるが、不完全であると云わねばならない。預言は原理の外に歴史的事実を要求するがゆえに、かくのごとき読み方はこの預言書の生き生きした姿を影うすくするものである。黙示録が我らの眼前に投ずる所はもっと濃きはずである。かくて原理を把握することに眼目をおきながら、その預言の具体的事実を聖書全体に照合して見定めんとする第四の態度がある。この態度、すなわち聖霊の光により聖書常識と自己の体験とをもって読むのが最も正しきものであると思う。アルフォードの解釈は大体第四の道である。今第七章の前半を読むに当たって以上の注意をなしたわけである。
第一の歴史派に言わせるとこの第七章前半は紀元第二、三世紀頃の事実を預言したものにすぎぬことになり、第二によれば世の終末におけるキリスト者の中より血統的ユダヤ人のみが云々と云うことになり、第三によれば何時までともなく何人を問わずと云うこととなり、黙示録の預言の事実とその段階を無視したわけで理にもあわぬこととなろう。
そこで我々はかく観るべきであろう、「イスラエルの子らの諸族の中にて印せられたるもの合わせて十四万四千」とは、第六の封印の解かれた時すなわち世の終わりの頃にあたって、生き残れるキリスト者の印せられたるものが全き数に満ちていると云うのではなかろうか。十二は完全を意味し千は天的の数である、千が十二倍されたることは時満ちて数全きを表わすのであろう。全きとは欠けなきことであって、数の多寡を言うのではない、救わるべきもの一人として漏れなきを云うのである。諸族とあるは信仰状態の差別を意味するのであろう、「日の光栄あり、月の光栄あり、星の光栄あり、此の星は彼の星と光栄を異にす」るのである。しかしいずれとして救いに漏るべきでない。かくてこそ始めて生きた信仰がある、自由と統一と調和とをもって神を讃美し得るのである。
さて立ち帰ってこの章を始めより読むに、神はあたかも神の僕の額に印することを忘れいたまいしかのごとくある。あやうくも四人の御使いをして暴風を捲き起こさしめ、審判を行い、苦難を降さんとするところであった、義人をも共に亡ぼさんばかりに。しかしそこが神の神らしきなさり方である。人のなすごとくプログラムを立てて外形の整ったやり方は、神の採りたまわざる処、神のやり方は、忘れて「一寸待て」と云う式である。もちろん神の「一寸待て」は狼狽のそれではない、決して単なる物忘れではない。神には無計画の計画がある、無法則の法則がある。神の聖業は人の想いを超えて奇しくある。「わが思いは汝らの思いと異なり、わが道は汝らの道と異なれり」、とかつて預言者に告げたまいし通りである。人はただ神が寸毫も義の道を踏み外したまわぬことを信ずべきである。神の道がすなわち義である。
この時印して選ばるる十四万四千は幸いなるかな。彼等はいかなる人々であろうか。前章の終わりに列挙せられしごとき現世に幸いであったものの反対の人々であろう。兎に角真実に十字架の生涯を終りし人々であるにちがいない。「白く塗りたる墓のごとき」人はここに姿を見せず、襤褸を纏うも心直き僕らが数えられよう。「人の心腸を視たもう」方の審判は、人の眼に奇しきところである。
禍害まさに至らんとするにあたっての祝福である。「敵前の筵」である。天来の祝福は戦いなきところにはない。艱難の秋に天福は降る。信者の生活の糧はこれである。敵は内にありまた外にありて絶えざるに拘わらず、信者には別の豊けき消息がある。この世の富のごとき楽しみのごとき、これに比してあまりにもあわれである。詩第二十三篇をわがうたとして、何をか要せん。
額に印せらるるとはいかなることか。消極的には他と区別して禍害を免れしめんため、積極的には神の属有たるの保証であり来たるべき祝福の徴である。この時至るまで艱難の試煉に堪えしものは、世の終わりの禍害をまぬかれるべく別たれるのである。彼らは「邑の中に行わるるところの諸々の憎むべき事のために歎き哀しみたる」人々である。彼等の額には見えざる神の記号が刻まれてある。彼等の額は神の讃美に輝いている。
神の印せんとしたもう者は一人のこらず印せられるであろう。ここに一万二千また一万二千と数え立てらるるは形式的なる反復ではない。その「数を調べてその万象をひき出だし各々の名をよびたもう」主は、一つも欠くるところなく呼びたもうのである。神は一人一人の魂をどれほど深く顧みたもう方であるか!神の真実を憶ゆべきである。かくのごとき深き愛と真実の神を知って、人の心真実となり虚偽に遠ざかるならば、神の欣びは恐らく大であろう。神の印は真実の神の恩恵である。真実の心のみがこの恩恵をみだりにしないであろう。