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第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。
(ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)


ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)。ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」。

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)。この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

* ヘブル人への手紙四章一二節で使われている「剣」という言葉は、もともと、祭司が儀式で用いた剣を意味します。(訳注)

しかし、その手順はいかなるものなのでしょう?人のなすべき分は何でしょう?この偉大で精妙な働きにおいて、信者はどのように大祭司と協力すればいいのでしょう?

(1)絶対的な従順。人は、自分を全焼のいけにえとして十字架の祭壇上にささげ、主の働きにまったく同意しなければなりません。大祭司イエス・キリストは、その霊により、信者の存在全体をご自分の死に同形化されます(ピリピ人への手紙三章一〇節)。すなわち、動物的な魂の命が「霊」から「切り離される」まで、主は決して休むことがないのです。その結果、人は神の霊が流入・流出する器となり、神の霊は信者の霊の宮から自由に流れることができるようになります。

(2)いつも目をさまして熱心に祈る。信者は聖書を調べつつ、神の御言葉の鋭い刃が魂の命から出るすべてのものに振るわれるよう、祈らなければなりません。また信者は、ペテロ第一の手紙一章二二節「あなたがたは、真理に従うことによって、あなたがたの魂を清めました」(改訂訳)にのっとって、御言葉と自分に与えられた光に、ただちに従わなければなりません。

(3)毎日十字架を負う。生活環境の中で毎日十字架を負うなら、信者は罪と「肉の働き」に完全に勝利することができます。他方、神の霊は、魂から霊を切り離すいっそう精妙な働きを進めて、霊にしたがって歩む方法を信者に教えて下さいます。

信者がこのように自分を祭壇(十字架)上に置き、天の大祭司――この方は御言葉の剣を振るって、信者の内に働いて下さいます――に信頼するなら、魂と霊は分離されます。主イエスが人として地上を歩まれた時、弟子たちに語られた十字架への招きの中に、この分離がなされる方法を見ることができます。

1.十字架と魂の愛情

自分の十字架を負って私について来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の命(プシュケ、魂の命)を見いだす者はそれを失い、私のために自分の命(プシュケ、魂の命)を失う者はそれを見いだします。(マタイによる福音書一〇章三八、三九節、改訂訳および欄外)

この節は、主が御名によって十二人を送り出す時に、彼らにお与えになった命令の中に出てきます。主は彼らに、「家族の者がその人の敵になります」と警告しておられます。そして、キリストの要求と家族の要求とが一致しない時、十字架の道で主に従うことは家庭生活では「剣」を意味することを示しておられます。神の既知の御旨と愛する者の意向とが衝突する時、魂的な愛情と霊的な愛情とを切り離す「剣」が通常やって来ます。これは、「自分の十字架を負い」、「すすんで磔にさえされ」*、たとえ父や母や「自分の家族の者」との間に不和が生じたとしても主に従うよう、信者に強います。

* 我々は「十字架を負う」という表現を「試みに耐える」という意味で使うことに慣れきっている。そのため、我々はこの節の主要かつ適正な意味――すすんで磔にさえされる覚悟――を見失いがちである。(フォウセット)

キリストご自身の場合もそうでした。「あなたの父と母を敬いなさい」と言われた方は、身内の者たちが「彼は気が狂ったのだ」と判断した時(主は御父の働きに取り組んでおられたのです)、「私の母、私の兄弟とは誰か?」と言わなければなりませんでした。このように十字架を負うこと、家族の要求よりもキリストへの従順を優先することは、天然的な愛情にとって、魂を剣で刺し通されるような苦しみを意味します。この時、愛情の中にある魂の命は実際に「失われ」、愛情面に関して清められた「魂」の器は、御霊による神の愛の流入に対して開かれます。それにより、信者はもはや自分のために愛する者たちを愛するのではなく、神のために、神にあって、神を通して愛するようになります。

劣った命は、優った命に交換されます。すなわち、「魂」は人格と容量において同じ「魂」のままですが、今、最初のアダムの肉的な魂の命によってではなく、最後のアダムであるキリストの霊によって霊から支配されます(コリント人への第一の手紙一五章四五〜四八節参照)。

ルカによる福音書では、魂の愛情に関する十字架の剣の働きが、いっそう明確に描き出されています。主は「憎む」という言葉を使って、「私のもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までもまない者は、私の弟子になることはできません」(ルカによる福音書一四章二六節)と述べておられます。ここでもまた、「命」という言葉は「プシュケ」であり、動物的な命、魂の命を意味します。マタイは、「私よりも愛する者は………」*という言葉で、神を第一とするのか、愛する者たちを第一とするのか、意志を試します。しかしルカは、主が用いられた御言葉を記録しており、その御言葉は、愛情の中に浸透している魂の命に対する、キリストにまったく献身的に従う人の姿勢を描写しています。愛情の清めには、このような姿勢が必要なのです。このような信者は、家族関係の中に入り込んでいる「自分の命(プシュケ)」を「憎」まなければなりません。そうするなら、この領域で信者の「」は「霊」から切り離されます。自分の魂の命を「憎み」、「失う」ことによって、より高度で純粋なキリストの愛の命が家族の堅い絆の中に浸透します。神ご自身が、人の姿の御子を通して、これを定め、よしとされたのです。

* マタイによる福音書一〇章三七節(訳注)

2.十字架と魂的な利己主義

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自己を否みなさい。なぜなら、自分の命(魂、改訂訳)を救おうとする者はそれを失い、わたしのために自分の命(魂)を失うものはそれを見いだすからです。 (マタイによる福音書一六章二四〜二六節)

マタイは後でふたたび、主の同様の御言葉を記録しています。しかし今回は、主ご自身の十字架に関する主に対するペテロの言葉により、この御言葉が引き出されました。ペテロは「ご自分をあわれんで下さい」と言いましたが、主は、ご自分に従う道は「自己を否むこと」を意味すると返答されました。ここで、魂の命が「自己」という言葉で要約されています。「自己」は、自己憐憫、利己主義、苦難からの自己逃避といった、あらゆる形の自己中心性として現れます。要するに、人に「自分の命を救」わせるもの、人々のために神の力によって「魂」を死に至るまでも注ぎ出させないものは、すべて自己なのです。

キリストのために十字架の道を選ぶことは、肉的な魂の命を「失って」、キリストの純粋で神聖な命を魂の器の中に持つことを意味します。このキリストの命は、魂の器を通して、世の祝福のために犠牲にされ、注ぎ出されなければなりません。

福音記者マルコは、マタイによる福音書の御言葉をふたたび繰り返しています(マルコによる福音書八章三四〜三六節)。ルカも同じことをしていますが、「毎日」という言葉を付け加えています*。これは、魂の命を注ぎ出して犠牲にすることに関して、毎日、十字架を選び、その効力を経験する必要があることを示しています。これは、ローマ人への手紙第六章や他の書簡に示されている十字架の面とは明らかに異なります。ローマ人への手紙第六章や他の書簡では、旧創造の死は成就された事実として理解されるべきものであり、信者が「自分は罪に対して死んでおり、キリスト・イエスにあって神に対して生きている」ことを「認める」時、実際のものとされます。

* ルカによる福音書九章二三節(訳注)

3.十字架と地上のものに対する魂的な執着

ロトの妻を思い出しなさい。自分の命(魂)を得ようとする者はそれを失い、自分の命(魂)を失う者はそれを救って生きます。 (ルカによる福音書一七章三二〜三三節、改訂訳)

ここでまた、主によって同じ強調的な御言葉が繰り返されていることがわかります。この御言葉は、自己の利益、自己保存本能、地上の財産への執着と関係があります。魂の命には、危難の時に「持ち物」を惜しみ、それを手放そうとしない習性があります。主イエスは、この習性を指摘して、「ロトの妻を思い出しなさい」と言われます。

より高度な霊の命を得る法則は、「得る」ために「失う」ことです。魂の命は地上の宝を求めますが、地上の宝は放棄されねばなりません。そして、人生の浮き沈みの中で試みが来る時、ふたたび信者の姿勢を通して、これに関連して「魂と霊の切断」がなされます。試みの日々の中にいたある人々について、「彼らは自分の財産が奪われても、喜んで忍び通した」と記されています(ヘブル人への手紙一〇章三四節)。「財産」に対するこの姿勢は、命を犠牲にすること以上に、神の恵みのいっそう大きな現れであることがしばしばです。

地上のものに執着する習性を持つ魂の命を放棄することが、キリストの霊の命を「得る」条件です。神意識の座である霊から魂の器の中に注がれるキリストの霊の命は、それと共に神の豊富を保証します。そのため、信者は地上の宝にとらわれなくなり、万人に訪れる試みの時、容易に地上の宝を放棄することができます。

神の子どもたちが、「家」や「持ち物」に夢中になって、神の王国をおろそかにするのは、明らかに「魂」の面であって、霊の命ではありません。神の子どもたちが地上の必需品に固執して過度に占有される時、偉大な大祭司の「魂と霊を切り離す」剣の働きが必要です。それは、血によって買い取られた者たちが上にあるものを愛するようになり、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているからです」(コロサイ人への手紙三章一〜四節)とある御言葉が成就されるためです。

4.十字架と魂的な自己愛

自分の命(魂)を愛する者はそれを失い、この世で自分の命(プシュケ、魂の命)を憎む者は、それを保って永遠の命(ゾーエ、より高度な命)に至ります。(ヨハネによる福音書一二章二五節、改訂訳)

魂の命と、魂の人格によって現されるより高度な霊の命との対比が、とてもはっきりとここに描き出されています。今、魂の命は自己愛として、「自分の魂を愛する者」として要約されています。「自分の魂」とは自分自身に他なりません。すでに見たように、魂の命は家族愛の中に入り込んでおり、自己憐憫、自己防衛、地上の財産への自己執着となって現れます。要するに、魂の命は「の家族」「自身」「の財産」という言葉で要約されるのです。いずれの場合も、「自己愛」がそこにあります。

主の御言葉によると、これらはみな、損失――永遠の損失――を招きます。なぜなら、それらはみな、最初のアダムからの命に由来するものであり、魂の人格を通して現され、霊が「魂」を治めることを妨げ、天からの主である最後のアダムの純粋で神聖な命が現されるのを妨げるからです。

それを保つことは罪なのでしょうか?そうです、光が来る時、私たちは真理を見ます。いっそう深い意味においても、それは罪です。もっとも、それは知られざる罪です。最初のアダム、すなわち「生まれながらの人」の命は、罪によってまったく毒されています。ローマ人への手紙第六章に述べられている「罪に対する死」を理解し、その結果、「肉にしたがって歩む」ことをやめて、「肉の働き」の現れがない人々でさえ、それは愛情の領域の中に入り込んでおり、自己愛、自己憐憫、自己執着、その他のあらゆる自己中心性として、それ自身を表します。これは、知性、感情、愛情を通して働くため識別しずらいですが、と呼ばれなければなりません。

解放の道

キリストの愛が私たちを縛っています。なぜなら、私たちはこう判断したからです。ひとりの人がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。そして、彼がすべての人のために死なれたのは、生きている人が、もはや自分自身にではなく、彼に生きるためです。(コリント人への第二の手紙五章一四〜一五節、改訂訳)

魂と霊を切り離す働きは、主ご自身により、神の御言葉を用いる主の霊を通してなされます。神の御言葉は生きていて活動している「剣」であり、人の非物質的存在の最も深い部分まで刺し通します。

しかし、人には自分のなすべき分があります。信者の同意と協力がなければ、神の霊はその働きを遂行することはできません。短く要約すると、人の側の協力の条件は次の通りです。

1.信者は、魂と霊を切り離す必要性を見る必要があります。そして、いけにえが祭壇上に置かれるように、その働きによく同意する必要があります。

2.生活環境の要請により、実際に「切断」の働きがなされる時、信者の意志は常に神の側になければなりません。

3.crossローマ人への手紙六章一〜一四節に述べられている十字架の基礎を、常に維持しなければなりません。自分が「まったく罪に対して死んでいる」ことを認め、死ぬべき体を「罪に治めさせ」てはならないという命令を積極的に実行するなら、「肉」がその「情と欲」と共に十字架につけられているのを信者は見いだします(ガラテヤ人への手紙五章二四節)。それと同じように、信者は今、魂の命によるいっそう巧妙な形の罪に対して、すなわち、行き過ぎた自己愛や自己憐憫などの邪悪な「自己」に対して、自分がまったく死んでいることを認めなければなりません。

4.これらの条件を満たしている信者は、今、自分の光、目的、信仰を実践しなければなりません。そして、魂の命の侵入をすべて慎重に拒み、霊の中でより高度なキリストの命に自分を開いて、神の霊によって示されるあらゆることに忠実でなければなりません。

5.信者はあらゆることで、「霊にしたがって歩む」ことを求めなければなりません。また、霊に従って魂を拒むために、何が霊で何が魂かを識別することを求めなければなりません。また、霊の法則によって歩んで、実際に「霊の」人となるために、霊の法則を理解することを求めなければなりません。

以上の条件を満たす時、信者は実際に新しい人となります。なぜなら、天の大祭司の御手が、御霊の剣である十字架の力により、魂と霊を切り離すまでに刺し通されるからです。十字架の剣は魂の命を追跡して、その関節と骨髄、魂の内なる諸部分――魂の活動の源や魂の愛情の「骨髄」――にまで至ります。さらにそれは、思い、感情、知的観念の中にある魂の命を識別しさえします。信者は今、ますます喜びに満ち、ますます容易に、聖書の御言葉にしたがって歩みます。また、神の摂理によって与えられたものとして、毎日「十字架」を負います。「十字架上でキリストと共に死んだ」事実を、ますます明瞭になる幻によって理解するにつれて、信者の霊はますます魂から切り離され、命を与える霊である復活の主に本質的に結合されます。その結果、信者は主と「一つ霊」となり、その人霊は貧しい世にキリストの霊を流し出す経路となります。