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「十字架のキリストの勝利」

The Triumph of the Crucified

第一部 上より臨む朝の光

第二章 イエス・キリストという名、三重の役目

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



「あなたの名は注がれたにおい油のようです」――雅一・三。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使四・一二)。この名は何を意味するのか、贖い主はその名をなぜイエス・キリストとまさしく呼ばれるのか。

一.イエスという名

「イエス」という名は三重の意味を持つ。第一にそれはまさしく

1.彼の個人名である。「その名をイエスと名づけなさい」(マタ一・二一)。しかし「キリスト」の方は決して、個人名がその第一の意味ではない。それゆえ、エペソ二・一二とへブル一一・二六では、前後関係の整合性を保つために、イエスは使用できずキリストしか使用できないのであり、事実またそうなっている。しかし、受肉によりイエスという名が神の子に与えられた以上、それは同時に

2.謙卑の状態における彼の名でもある。全くのところ、この名は主の謙卑と結びついていて、同名が他の人々にも使われているほどである。たとえばモーセの後継者ヌンの子ユシュア(ギリシャ語の Iesous ヘブ四・八)、ゼカリヤの時の大祭司ヨシュア(ゼカ三・一)、イエス・シラハ、ユストと呼ばれているイエス(コロ四・一一)、それからユダヤ人でアラビヤ人の魔術師バルイエス(イエスの子)(使一三・六)の父イエスとさえ同名である。

なぜ福音書がほとんど「イエス」と言っているのに、書簡全体を通して「キリスト」が前面に出ているのかも、この点から明らかである。これは福音書は彼の謙卑の時期を扱っており、書簡は上げられて栄化された者としての彼を証しているからである。また、イエスという名では救いの思想が主体であり、キリストという称号では栄光が主体だからである。書簡で「イエス」が単独で用いられているのは、この世にあった時のイエスの謙卑を強調する場合だけである。たとえば、二コリ四・一〇、ピリ二・一〇、一テサ四・一四、ヘブ二・九、一二・二、一三・一二(八節と対比されている)。

ペテロがペンテコステの日に述べたように、イエスは復活と昇天によってはじめて十分な意味で正しくキリストになった。「イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたたちが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(使二・三六)。それゆえ、主の行路が自己否定から栄光へと進んだように、新約聖書もそれと同じ行路、すなわち「イエス」から「キリスト」へと進んだのである。旧約聖書では丁度その逆に、メシヤすなわちキリストという一般的観念から、ナザレのイエスという歴史的出現にまで進んで来たのである。

しかしイエスという名の主要な意義は、この語の本来の意味、すなわち、エホシュア、主は救いである、に存する。それゆえ、イエスというのは特に

3.救い主としての彼の名、世の贖い主としての彼の名である。「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタ一・二一)。この意味でこの名は三つのことを啓示する。

彼の救いの唯一性。なぜなら、彼のみが救い得るからである(使四・一二)。それゆえ、ギリシャ語でマタイ一・二一の「彼」が強調されている。
彼の救いの局限性。なぜなら、彼はただ「おのれの民」だけを、すなわち、もろもろの国民から救い出された者だけを、救おうとされるからである(一ペテ二・九、テト二・一四、使一五・一四)。それから、
彼の救いの深さ広さ。なぜなら、彼は罪の結果――断罪と審判から贖い救うばかりでなく、罪そのものから、罪の束縛と支配と権威から贖い救うからである。彼は義認の源であるばかりでなく、聖化の源でもある(一コリ一・三〇)。

以上すべてがイエスという名の中に含まれている。世の贖い主が遣わされた目的が、その中に宣言されている。この名は彼の救いの活動の「内容目録」であり、タイトルであり、象徴であり、モットーである。それゆえ、この名が贖われた者の讃美を永遠に満たすのも不思議ではない。この名によって、天に在るもの、地に在るもの、地の下に在るものが、ことごとく膝をかがめるのも、不思議ではない(ピリ二・一〇)。

しかし、主はその御名イエスの中に秘められている宝を、いかなる方法、いかなる仕方で啓示されるのか。この問いに対する答えは、キリストという称号の中に含まれている。

二.キリストという名

この称号の深い意味をわれわれに啓示してくれる三重の事実が四つある:

1.旧約における務めのための三重の油塗り。
2.新約における三重の展開。
3.人が罪によって三重に縛られていること。
4.贖い主としてのキリストの三重の働き。

1.旧約の救いの時代では、三つの主要な神政上の油塗りが神によって制定されていた。大祭司の油塗り(レビ八・一二、詩一三三・二)、王の油塗り(一サム一〇・一、一六・一三)、それから預言者の油塗り(一列一九・一六)である。それゆえ、救いの仲保者がキリスト、メシヤ、すなわち油塗られた者と述べられているのは、旧約全体の最高の職能と権威がこのパースンに統合されていること、そして、このパースンによりすべての旧約預言が永遠に成就したことを意味する。新しい契約についてのエレミヤの預言によると(エレ三一・三一〜三四。なおヘブ八・八〜一二を参照)、メシヤは、

その王権を内的命の上にまで広げ(エレ三一・三三、二コリ三・三)、
預言の賜物をすべての人に与え、
祭司職を永遠に完成する(エレ三一・三四)。

彼は御自分の性質をおのれの民に与え、彼らを御自身と同じように王とし、祭司とし、彼の預言的真理の証人とされる(一ペテ二・九、黙一・六)。こうして彼は御自身を賜物として与え(二コリ九・一五)、キリストとしてのまた太陽としての御自身の輝きを、その贖ったクリスチャンから照らし出される(使一一・二六)。

2.一気にではなく、三つの大きな段階によって、主はそのキリストという称号の輝かしい内容を展開される。

第一に、彼は預言者として来られた(申一八・一五〜一九)。神は「この末の世には」御子によって語られた(ヘブ一・一、二)。御子は神の「栄光の輝き」であり、旧約の預言者すべてを凌ぐ無比の明白さで、御父の本質を知らせて下さる(ヨハ一・一八、三・一三)。

それから、この預言者は十字架に行かれる。彼は世の罪を担うことをよしとし(ヨハ一・二九、一ヨハ二・二)、いけにえの小羊になると同時に祭司となり(ヘブ九・一二、一四、二五、二六)、御自身によって罪のきよめを成しとげられた(ヘブ一・三)。

最後に、彼は高められて、いと高き所におられる大能者の右に座られた(ヘブ一・三)。そして今、われわれは「御使いたちよりも低い者とされた」彼が、死の苦難を受けることによって、として「栄光とほまれとを冠として与えられたのを」見ている(ヘブ二・九)。

3.しかしなぜ重の役目なのか?贖い主のこの重の活動はなぜか?人が救われるためには重の必要があるからである。というのは、堕落したアダムの子孫は三重に縛られているからであり、従って三つの面で贖われなければならないからである。

神は御霊の聖い祝福に満ちた性質を反映する被造物として人を創造された。人が神の霊性の鏡となることができるよう、神は人に悟性を与えて下さった。人が神の聖さと愛の生き写しとなることができるよう、神は人に意志を与えて下さった。人が神の祝福と幸福の器となるよう、神は人に感情を与えて下さった。

しかし、その後、罪がやって来た。人全体が堕落した。その悟性は暗くなり(エペ四・一八)、その意志は邪悪になり(ヨハ三・一九)、その感情は不幸せになった(ロマ七・二四)。

4.このような完全な破滅から今、キリストの御業は人を救うのである。

預言者としてのキリストは、知識すなわち光をもたらし、罪の暗闇から悟性を解放し、真理の王国を建設する。

祭司としてのキリストは、いけにえをもたらし、罪を消し、それによって罪の意識を消し、こうして苦悩及び良心の苛責という重圧から感情を解放し、平和と喜びの王国を建設する。

としてのキリストは、意志を支配し、これを聖潔の道に導き、愛と義の王国を建設する。

このように三重の救いを含むキリストの称号は、イエスという名の発展となり、解き明かしとなる。彼がイエス、すなわち救い主であるのは、彼が三重に油塗られたキリストだからである。彼の三重の役目は人をその魂の三つの力、すなわち悟性と感情と意志において解放する。十分な、無代価の、完全な救いがもたらされた。これ以上に完全な贖いはあり得ない。暗闇、不幸、罪深さというこの三重の悲惨さは、光、祝福、聖潔という、三重ではあるが有機的に単一である救いによって解決された。そして、神の霊性(コロ三・一〇)、輝かしい幸い(二コリ三・一八)、聖潔(エペ四・二四)が、神のかたちである被造物から新たに輝き出るのである。