「悔い改めよ、天の王国は近づいた。」(マタ三・二、四・一七)
一.先駆者
ヨルダンのほとりの荒野で、ヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを説いた(マコ一・四)。ヨハネのバプテスマの新しい要素は、彼がバプテスマを授けたことではなかった。というのはユダヤ人は、すでにエホバを信じるようになった異邦人たちに、いわゆる改宗者のバプテスマを施していたからである。ヨハネのバプテスマの新しい要素は、彼がユダヤ人にバプテスマを施し、それによってユダヤ人を異邦人と同列に置いたことだった。
ヨハネは「エリヤ」であり(マラ四・五、六、ルカ一・一七、マタ一七・一〇〜一三)、道を備える者であり(イザ四〇・三、四、マタ三・三)、すべての預言者を凌ぐ大きな権威を持ち(マタ一一・九、一〇)、光と小羊の証し人だった(ヨハ一・七、八、二九、三六)。彼は間もなく来られる主の前触れだった(マラ三・一、ヨハ一・二六)、そして女の産んだ者のうち最大の者だった(マタ一一・一一)。燃えて輝く燈火であり(ヨハ五・三五)、荒野に呼ばわる者の声であり(ヨハ一・二三、イザ四〇・三)、永遠の中から「御言葉」を指し示した者だった。
声とは何か?それに言葉が伴わないかぎり、それは音であり、騒音であり、わけのわからない叫びである。動物でも(黙九・九)、風でも(ヨハ三・八)、雷でも(黙六・一)――それらにはみな声があると言えよう。しかし、言葉によってはじめて、はっきりした内容と意味が声に与えられる。であるから、イエスなしではバプテスマのヨハネは空虚な響きにすぎず、息にすぎず、無にすぎない。
しかし、言葉は声がなくても十分に実在し得る。話されなくても、記されなくても、言葉はどこまでも真の意味で言葉である。たとえバプテスマのヨハネがいなくても、イエス御自身には少しの変わりもなかった。声には言葉が必要だが、言葉には声は必要ではない。ヨハネはイエスを必要としたが、イエスはヨハネを必要としなかった。
しかし、言葉と声が一緒になる場合、聴き手の立場からすると、声の方が言葉より先である。なぜなら、声の方が先ず聴き手の耳に届き、それからはじめて意味――言葉――が聴き手の霊に届くからである。だから、バプテスマのヨハネが先ず世に来て、そのあとからキリスト、すなわち御言葉が来られたのである。
ところが、話す場合は逆である。この場合、言葉の方が声よりも先である。なぜなら、声が唇から出る前に、言葉は心の中に懐かれなければならないからである。だから、ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである」と言ったのである(ヨハ一・三〇)。
最後に、言葉が話されてしまえば、声はやみ、消えてなくなり、もう実在しない。しかし言葉の方は残る。なぜなら、言葉は聴き手の心に植えられたからである。イエスとヨハネの場合もそうである。「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ三・三〇)。ヨハネは自分の使命を果たすやいなや、退いてしまった。しかしイエスは残られる。1
1 Trench: Synonyms of the New Testament, 336, ed. 12. を参照
二.王
王は前触れの伝えた福音をそのまま採用された(マタ四・一七。なお三・二を参照)。王御自身において、神の王国は人々のあいだに訪れた(ルカ一七・二一、一〇・九、一一)。王自身が、人として現存する王国だった。このことを王は、「人の子」という御自分の称号によって、隠れた形や明らかな形で言い表された。
1.「人の子」という称号の起源。この称号は福音書の中に八十回以上現れる。その起源はダニエル書にある。この書では、現世の諸帝国の野獣性――獅子、熊、豹、恐ろしい獣――とは対照的に、メシヤ王国が人の子の王国として描写されている。この人の王国は、聖書的意味で真の人間が地上で支配する、最初にして唯一の歴史的王国である。「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた(中略)彼に主権と光栄と国とを賜い」(ダニ七・一三、一四)。人の子が天の雲に乗って到来し、メシヤたる王としてその国を建設するとのこの預言を、キリストはオリーブ山で弟子たちに説かれたときも(マタ二四・三〇)、また全議会の前で「あなたたちは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と誓われたときも(マタ二六・六四)、まぎれもなく御自身のことであるとされた。
2.人の子という称号の意味。キリストは御自分を人の子と称することにより、御自分が過去に天にあったときと比べて今ひくい謙卑の様にあること、つまり神の子たる自分が今や人となったことを(ピリ二・五〜一〇)示しておられる。しかし、それだけではない。
現在、まず第一に罪のない聖なる者として、創造主の御心に適う唯一の真正な人間であることを(創一・二七)意味しておられる。しかし、それだけではない。
むしろ未来を見据えて、彼はメシヤとしての威厳を宣言しておられるのである。彼は栄化された人として天の雲に乗って再来し、宇宙完成の暁に神の国を実現し、それによって御自分の神としてのパースンにおいて真の人性という観念を実現して、これを人類史の王座にまで高めようとしておられる。これを彼は明らかにしておられるのである。
このように、「人の子」という表現は神のメシヤまた王としての称号であり、詩篇作者ダビデがすでに、「栄えと誉とをこうむらせ、これに御手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれた」と述べていた人の子を意味するのである(詩八・五、六、ヘブ二・六〜九)。そして、「人の子」という蔽いのかかった称号の中に、彼が「神の子」であるという秘義も蔽われた形で含まれている。それゆえ、キリストは大祭司の「あなたは神の子なのか」との問いに対して、「あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」と言い得たのである(マタ二六・六三、六四)。それは、「人の子」の中に「神の子」が含まれているからである。
人の子という称号がこのように神及び王と結びついていることは、繰り返し繰り返し前面にあらわれる。「人の子は父の栄光のうちに来る」(マタ一六・二七)。「力と大いなる栄光とをもって」(マタ二四・三〇)、それから「すべての聖なる御使いたちを従えて」(マタ二五・三一)。人の子の再来は「いなずまが東から西にひらめき渡るよう」である(マタ二四・二七)。「人の子はその栄光の座に着」いて(マタ一九・二八)、牧者が羊と山羊とを分けるように、「王」としてもろもろの民を分ける(マタ二五・三二、三四、四〇、なおヨハ五・二七を参照)。
もちろん、人の子という称号は、神聖な王を示すには曖昧な表現である(ヨハ一二・一五、三四、マタ一六・一三、一六)。これは、キリストはその初臨の際、人がただ信仰のみによって御自分がメシヤであることを認めるよう望まれたからである(マタ八・四、九・三〇、一七・九、ヨハ六・一五)。御自分がメシヤであることを、彼は公にはその十字架の死の直前になってはじめて知らされた。しかも、エルサレム入城という象徴的行動の形でしか知らされなかった(ルカ一九・二九〜四〇、ゼカ九・九)。御自分がメシヤであることを啓示されたのは、御自分に従う者たちの間だけだった。彼らの間では、しかし、ごく初期からそれを啓示され、徐々にそれを明らかにして行かれた(ヨハ一・四一、四九、四・二五、二六、九・三五〜三八)。そして遂に、ペテロが御父からの啓示に照らされて、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」との輝かしい告白をするに至ったのである(マタ一六・一六)。
三.王国
1.「天の王国」という用語。バプテスマのヨハネの時より前から、ユダヤ人はすでに天の王国について述べていた。すなわち、malekut schamayim(天の王国)と称していた。そしてこの呼称は、全被造物に対する神の支配、殊にイスラエルを神が王として支配すること、とりわけ歴史の終末に現れるメシヤの輝かしい王国を意味した。タルムードが言うように、「誰かが祈るとき、その手を自分の顔の前に置くなら、その人は天の王国のくびきを担うのである」。またヨナタンの旧約聖書アラメヤ語訳では、ミカ四・七を「イスラエルがシナイ山で律法の書を受けたとき、同時に天の王国の律法を受けたのである」と読む。「天の王国はシオンの山の上に現われるであろう」。ユダヤ人が神の王国を天の王国と呼んだのは、エホバの聖名に対する畏敬から、エホバの代わりに「高き」とか「名」とか「力」とか「天」という語を用いたからである。ダニエルは神の主権を示すために「天が支配する」と述べた(ダニ四・二六)。
「天にゆるしを求めよ」、「天を愛して、これを畏れよ」、「天の名を聖くせよ」、「天は奇しきことを行う」等のラビたちの表現も参照できよう。神の名をこのように遠回しに述べるのは、不信仰な現代人が使う「天」や「摂理」といった空虚な概念とは無関係である。ラビの場合は神の強烈な観念から生じたのであるが、不信仰な現代人の場合は神についての曖昧な観念から生じたのである。
このようにバプテスマのヨハネとキリストは、天の王国について述べた最初の者ではない。むしろ両者は旧約の用語や周囲のユダヤ教の用語を採用して、同一の表現に新しい意味を与えたのである。たとえば、ルカ一五・二一「父よ、わたしは天(神)に対しても、あなたに対しても、罪を犯しました」、マタ二一・二五「ヨハネのバプテスマはどこからきたのか。天(神)からか、人からか」、マタ二六・六四「あなたがたは人の子が力(神)の右に座すのを見るであろう」。それゆえ、主の場合がそうであるように、神の王国を言い表す慣用句が天の王国なのである。1
1 それゆえ、「天の王国」という表現は、もともとユダヤ人を読者に想定した福音書であるマタイ伝だけに出てくる(三十二回)。異邦人を読者とする他の福音書では、これを「神の王国」と訳した(たとえばルカ伝は三十二回。マタ一三・三一、三二をルカ一三・一八〜二一と、マタ一九・一四をルカ一八・一六、一七と比較せよ)。内容的には、天の王国と神の王国は全く同一である。これは次の並行章節を比較することにより立証される。マタ四・一七=マコ一・一五。マタ五・三=ルカ六・二〇。マタ一一・一一=ルカ七・二八。マタ一〇・七=ルカ一〇・九。マタ一三・一一=ルカ八・一〇。マタ一九・一四=ルカ一八・一六。マタ一九・二三=ルカ一八・二四。これらの箇所すべてにおいて、マルコとルカは同じ時に語られたイエスの同じ言葉を記しているが、ただマタイの「天の王国」という表現を「神の王国」という表現に置き換えただけである。更にマタ一九・二三を二四節と比較せよ。
神の王国は天の王国である。なぜなら
その起源は――天に由来するからであり(黙一・七、マタ二六・六四)、 その性質は――天をその中に含んでいるからであり(ピリ三・二〇、エペ一・三、二・六、コロ三・一〜四)、 その中心は――王たる主である。主によってのみ天はまさに天であろう(詩七三・二五)。
2.天の王国が出現する数々の形。神の王たる支配を宣言すること、可能ならしめること、完成すること、それがキリストの御業の全目的だった。宣言することは預言者としてのキリストの御業であり、可能ならしめることは祭司としてのキリストの御業であり、完成することは王としてのキリストの御業である。それゆえ、天の王国の宣言はキリストの福音の特別な主題であり、そのたとえ話はみな、「天の王国」という言葉が明白に使われていないたとえ話ですら、王国のたとえ話なのである(たとえば、マタ一三・三、二一・三三)。そうは言うものの、この省略は決して無意味ではない。なぜなら、聖書の沈黙そのものが雄弁に物語っているからである(ヘブ七・三)。要するに、天の王国とは「天」すなわち天的な国であり、未来のメシヤ王国であり(二テモ四・一八)、今の時代の教会であるだけでなく(コロ一・一三、ロマ一四・一七)、ごく一般的に端的に言って、神の王的支配でもあるのである。この神の王的支配は、贖いの道により天から臨み、旧い地の上に確立され、新しい地で永遠に続くものである。
その出現の諸々の時期や形体については、王が御自身の前触れとして証言しておられる(keryssein。マタ四・一七。なお 、前触れを意味する keryx と比較せよ)。王は、
イスラエル王国、旧約の王国について語られた。この王国は救いのために道を備えるものであり、元の所有者から、すなわちユダヤ人から、「取り去られる」べきものだった(マタ二一・四三)。また王は、 キリストの王国について語られた。この王国はイスラエル人のあいだに受肉された王自身のパースンと(ルカ一七・二一)奇蹟との中に(ルカ一一・二〇)、現存する国である。また、 教会の中の王国(コロ一・一三を参照)について語られた。それは、彼御自身のパースンにあって近づいた、今は隠されている王国であり、「奥義」として(マタ一三・一一)存続して(マタ一三・二四〜四七、一八・二三、二〇・一、二二・二)、この時代の完成の時に至る(マタ一三・三九、四九)。最後に王は 完成された王国について語られた。これは預言者たちが預言したメシヤ王国であって、それが遂に力をもって到来し(マコ九・一)、出現する(ルカ一九・一一)。そして、それを御父は「小さな群れ」に賜る(ルカ一二・三二)。この小さな群れはこの王国に入ることを許される(マタ七・二一)。それは報いとして(マタ五・一〇〜一二)、嗣業として(マタ二五・三四、八・一一、一三・四三)である。
3.王国の福音。以上はすべて王国の福音に含まれる(マコ一・一四、一五、ルカ四・四三)。それはキリストのメッセージの真に根本的な主題である。文脈だけが正確な意味を明らかにすることができる。パウロもまた、「王国」という言葉を使う際、現在すでにあるものを意味することもあるし(ロマ一四・一七、一コリ四・二〇、コロ一・一三、四・一一)、しかし何か未来のものを意味する場合もしばしばある(一コリ六・九、一〇、ガラ五・二一、エペ五・五、一テサ二・一二、二テサ一・五、使一四・二二)。それゆえ、キリストのメッセージについても、現在の王国について述べている場合もあるし、近い将来の王国の場合、遠い将来の王国の場合、極めて遠い王国の場合もある。
このように、この王国はただイスラエル人だけのものではないし、将来のものだけでもない。パウロも王国を宣べ伝えた。しかも異邦人に対してであり、ユダヤ人に向かうのをやめた後のことである(使二〇・二五、二八・三一)。彼はエペソ滞在の「全期間」(すなわち二年三カ月。使二〇・一八、一九・八、一〇)における自分の活動を、「神の恵みの福音を証しすること」(使二〇・二四)、及び「使者として神の王国を宣べ伝えること」(使二〇・二五)という二つの表現で叙述している。両方とも同じ時のことである。
このように、それは常に同じ王国である。この王国は天から、永遠から出て来て、代々にわたって続き、そして再び神の永遠へと戻って行く。また、「王国」と千年王国とを性急に同一視しないように注意しなければならない。王国は何よりもまず全く一般的なものであり、神の統治であり、活き活きとした力強い神の王権であり、たえず新しい顕われ方をするさまざまな経綸にわたってなされる神の働きである。すでに見たように、キリスト以前のユダヤ人でさえ、「天の王国」という言葉でメシヤの栄光の王国を指していたのである。それだけではない、自然や諸民族やイスラエルに対する神の道徳的・霊的・不可視的な統治支配をも、頻繁に指していたのである。さらに、キリストと同時代のユダヤ人は王国の概念を地上の事象のみに限定していたが、それに対してキリストは正反対の立場に立たれたのである(ルカ一七・二〇、二一、一九・一一以下)。であるから、われわれは一方において来たるべき可視的王国を堅く期待しているのだが(マタ一九・二八、使一・六、七)、王国についてのキリストの観念を説明するのに、ユダヤ・パリサイ的な王国観を参照するだけで済ませるわけにはいかない。
それゆえ、ただ一つの福音しかない(ガラ一・六〜九)、そしてそれは
神の福音である――なぜなら、その源は神だからである(ロマ一・一、一五・一六)、 キリストの福音である――なぜなら、キリストがその仲保者だからである(ロマ一五・一九、一コリ九・一二)、 恵みの福音である――なぜなら、恵みがその真髄だからである(使二〇・二四)、 救いの福音である――なぜなら、救いがその賜物だからである(エペ一・一三)、 王国の福音である――なぜなら、神の王国がその目的地だからである(一コリ一五・二八)、 栄光の福音である――なぜなら、栄光がそのもたらす結果だからである(一テモ一・一一)。 そして、パウロは自分と自分の同労者について、 「わたしの福音」(ロマ一六・二五、二テモ二・八)あるいは「わたしたちの」福音(二コリ四・三、一テサ一・五)と述べている――彼らは使者だったからである(ガラ一・一一、一テモ一・一一)。
四.王国への道
しかし、栄光への道は十字架を経る。それゆえ、王は先ずそのメッセージの中心に、御業の成果である王国を据えた後、この目標に到達するための手段、すなわち受難を徐々に前面に押し出して行かれたのである。
王が御自分の死の事実について語られたのは、以下の時であった。花婿が取られることについて語られた時(マタ九・一五)、杯を飲んで苦しみのバプテスマを受けることについて語られた時(マコ一〇・三八、三九)、しかしとりわけカイザリヤ・ピリポ、ガリラヤ及びエルサレム途上で、受難に関する三大宣言をなさった時である(マタ一六・二一〜二三、一七・二二、二三、二〇・一七〜一九)。 王は御自分の死の必要性について語り、荒野における蛇のように上げられることが「不可欠」であると語られた(ヨハ三・一四)。そして、一粒の麦のように、死んで多くの実を結ぶことによって、栄光を受けることについて語られた(ヨハ一二・二三、二四。なおルカ二四・二六、四六を参照)。 王は御自分の死が自発的なものであることを語られた、「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである」(ヨハ一〇・一八)。また 王は御自分の死の意義について語られた。 その死は完全で(ヨハ一九・三〇)、世界的な(ヨハ一二・三二、ルカ二四・四六、四七)、救い(ヨハ三・一四、一五)の基礎である。この救いは、王が失われた罪人の代わりに死ぬことによって成就された(マタ二〇・二八)。その目的は、罪の赦しによる新しい契約を立てることである(マタ二六・二八)。また、 その死は、真の弟子たる者が、自分を否み、自分の十字架を負って彼に従うことによって、実際に聖くなるべき基礎である(マタ一〇・三八、ルカ一四・二七、ヨハ一二・二四〜二六)。
そして何事においても、彼は御自分の死を常に御自分の復活と栄化に結びつけてご覧になっておられた(ヨハ一〇・一七)。これを示すものとしては、宮の破壊(ヨハ二・一八〜二〇)、ヨナのしるし(マタ一二・三九〜四〇)、隅のかしら石(マタ二一・四二)、それから一粒の麦(ヨハ一二・二三、二四)についての彼の御言葉がある。彼は予見しておられたのである。復活と、御自分の命を信者の命として与えることだけが、罪人がその御業の救いの意義にあずかる唯一の道であることを。それゆえ、私の肉を食べず、私の血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない、と彼は言われたのである(ヨハ六・五三)。「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である(中略)このパンを食べる者は、永遠に生きる」(ヨハ六・五一、五八)。
五.王国のメッセージ
天の王国のメッセージの道徳的内容をあますところなく述べ尽くすのは不可能である。「世界もその書かれた文書を収めきれないであろう」(ヨハネ終節)。このメッセージは、
1.その権威において神聖であり、崇高である。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マタ七・二九、ヨハ七・四六)。これは、しるしとさまざまな不思議によって確認された(ヨハ五・三六、ヘブ二・四)。天の王国のメッセージを確証することがイエスの奇蹟のおもな目的であったことは、特にヨハネ伝に示されている通りである(二・二三、三・二、六・一四、九・三二、三三、一一・四七、一二・三七)。これらすべてにおいて奇蹟は救いを求める要求を前提としており、主として信受しようとの心がまえのある者のために行われたものである(マタ八・八、一五・二八)。従って、信じようとする用意のない人々に対しては、しるしを与えることが拒まれている(マタ一二・三八、三九、マコ六・四、五)。そして主の御言葉は、そのまま行いであった。その行いは奇蹟であった。そして主御自身が神によって定められた「命の君」であった(使三・一五)。さらに、王国のメッセージは、
2.その教え方が驚くほど賢明であった。旧契約をキリストは新契約の備えとして、真理の証明として(ヨハ一〇・三四、三五、ルカ二〇・四一〜四四)、御自身のメッセージを預言するものとして(マタ五・一七、ルカ二四・二七、ヨハ五・三九)扱われた。彼の教えはそれゆえに説明的であった。
彼は自然を用いて天国の光景や比喩を語られた(マタ一三・三、三一)。そして人間生活(マタ一三・二四、三三、四四、四五)や歴史(ルカ一九・一二以下)も同じように扱われた。こうして彼の教えは変容的なメッセージであった。
質問して来る敵を、彼は質問し返すことによって黙らせた(マタ一五・二、三、二一・二三〜二五、二二・一七〜二二、四一〜四五)。こうしてこのメッセージは防御的であり、勝利的であった。
熱心に学ぼうとする弟子たちには、彼は特にその奥義を手ほどきされた(マタ一三・一八以下、マコ四・三四)。こうしてこのメッセージは教育的であった。
それゆえ、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と仰せられた(マタ一七・五)。そして彼御自身「見よ、ソロモンにまさる者がここにいる」と証しされた(マタ一二・四二、一列一〇・一〜一〇)。
ここで特に大切なのは、旧約に対するイエスの態度である。御自身が活ける御言葉であるキリストにとって、書き記された言葉である旧約聖書は、分解しえない単一体であり、一つの有機体であり、「一つの書」であった(ヨハ一〇・三五)。そして特にキリストにとって旧約聖書は、
その下に彼が御自身を置かれた権威であり(ガラ四・四)、 それで御自分を養われた食物であり(マタ四・四)、 それを御自分の防御のために用いられた武器であり(マタ四・四、七、一〇、一二・三)、 彼が説明された教科書であり(ルカ二四・二七、三二、四四、四五)、 彼が成就された預言であり(マタ五・一七、一八、ヨハ五・三九)、 彼が超えた準備段階であり(マタ五・二二、二八、三二、一二・六、四一、四二)、 彼御自身の言葉として、それを彼が解釈し、深めたものである(一ペテ一・一一、マタ五・二八)。
これをすべて保ちつつ、彼の教えは、
3.その裁く点では怖ろしいほど厳しかった。人は生まれつき「邪悪」であり(マタ七・一一)、「姦淫の代」である(マコ八・三八)。この世のすべての宝も、一人の人の魂の尊さに及ばない(マタ一六・二六)。人々の間で尊ばれるものは、神の御前では忌みきらわれる(ルカ一六・一五)。キリストは焼きつくすような熱心さで(ヨハ二・一七)、御自分の敵であり(ルカ一九・一七)、偽りの宗教の主要な代表者であるパリサイ人に対して戦われた。彼はパリサイ人のことを「白く塗った墓、内側は死人の骨でいっぱいの者」(マタ二三・二七)、愚か者(ルカ一一・四〇)、盲人(マタ一五・一四)、偽り者(ヨハ八・五五)、偽善者(マタ二三・一三〜一五)、盗人(ヨハ一〇・八)、殺人者(マタ二二・七)、強欲な狼(マタ七・一五)、悪魔の子(ヨハ八・四四)、蛇よ、蝮の裔よ(マタ二三・三三)、と呼ばれた。
キリストは宮のことを「強盗の巣」(マコ一一・一七)、ヘロデのことを「狐」(ルカ一三・三一、三二)と呼ばれた。彼を信ずると偽って告白する人々は「悪をなす者」(マタ七・二三)、「悪しき者の子」(マタ一三・三八)であり、すべてキリストをしりぞける者はソドムやゴモラより悪いものである(マタ一〇・一五)。
このような状態にあり続ける者はみな、「失われて」おり(マタ一六・二五)、「呪われて」いる(マタ二五・四一)。彼らの運命は、「泣き叫んだり、歯がみをしたりすること」(マタ二四・五一、二五・三〇)であり、彼らの場所は「消えない火」(マコ九・四三、マタ二五・四一)である。
しかしそれと同時に、天の王国のメッセージは、
4.その良い知らせである点で限りなく同情的である。それが示すものは、
罪人の友であり(マタ一一・一九、九・一三)、 病める者の医者であり(マコ二・一七)、1 労する者・重荷を負う者を休ませる者であり(マタ一一・二八)、 子供を祝福する者であり(マタ一九・一五)、 貧しい者に良いおとずれを宣べ伝える者であり(ルカ四・一八)、 死にかけている人殺しにパラダイスを約束される者である(ルカ二三・四三)。
このように、王は御自分の僕たちの僕となられた(ヨハ一三・一〜一二)。そして全くのところ、彼は栄光に入られた後も、やはり仕えようとしておられる。「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕してくれるであろう」(ルカ一二・三七)。
1 イエスの奇蹟はすべて救助のための奇蹟であり、従って同時に彼の務めの目的を象徴する行為でもある。一つだけ審判の奇蹟があるが――いちじくの木を呪われたこと(マタ二一・一九)――これも本当は彼の愛の行動であり、象徴をもってイスラエルに警告されたのである。
けれども王国のメッセージはまた、
5.その命じるところも無制限である。それは無制限の服従を求める。賜うと同時に命じ、贈物であって同時に任務である。どんな王国もキリストと神の王国ほど全体主義的要求を出したことはない。権威と従順、指導と追従、命令と服従、これがその秩序である。それは全体主義的な王であり、王国であり、教会である。生半可やなまぬるさはすべて、王にとって忌むべきものである。霊も魂も体も、すべての関係において、天的にも、地的にも、人の全存在が王のものである。全財産を放棄すること(ルカ一四・三三)、十字架を負うこと(マタ一六・二四)、地上の最愛の者にも増してイエスを愛すること(マタ一〇・三七)、彼にのみ仕えること(ルカ一六・一三)、自分自身の自己を憎むこと(ルカ一四・二六)、永遠の命に至るために自分の命を失うこと(ヨハ一二・二五)――これが王が求めておられる心である。詳しく述べると、王は、兄弟愛と神への愛(マコ一二・二八〜三一)、真実と忠信(マタ五・三三〜三七)、謙遜と自己否定(ヨハ一三・一以下、マタ一六・二四)、勇敢な信仰によって思い煩いから逃れること(マタ六・二五、二一・二一)、祈り深い霊と天的な希望を持つこと(マタ六・六、ルカ一二・三五〜四八)を命じられた。
しかし、これはみな上よりの命から生ずべきものであり、神聖な種から生まれた子供であるという王族の身分の意識から生ずべきものである。「それだから、あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」(マタ五・四八)。「わたしは言っておく。あなたたちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天の王国に入ることはできない」(マタ五・二〇)。しかも!「あなたたちも、命じられたことをすべて為し終えたら、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたにすぎません』と言いなさい」(ルカ一七・一〇)。
最後に、終わりが臨む(マタ二四・一四)。そして、それと共に勝利も臨む。なぜなら天の王国のメッセージは、
6.世界の解放をその目標とするからである。
「畑は世界である」(マタ一三・三八)。「すべての造られたものに福音を伝えよ」(マタ二八・一九、二〇)。「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ルカ二四・四七)。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」(使一・八)、「彼らに対して証しをするために」(マタ二四・一四)。
そしてそれから王が現われるとき、その王国は目に見えるようになる。父に祝福された者は、その主権を嗣ぐ(マタ二五・三四)、そして義人は永久に太陽のように輝く(マタ一三・四三)。これが王国のメッセージの希望である。
六.聴衆
しかし、これらの言葉はみな、ユダヤの国民的基盤に基づいて語られた。主はその肉体にあった日、全く「割礼のある者の奉仕者」であった(ロマ一五・八)、そして彼御自身ですら「律法の下に」あった(ガラ四・四。なおルカ二・二二、二四、四一、マコ一・四四を参照)。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(マタ一五・二四、一〇・五、六)。山上の垂訓も(マタ五〜七章)、海辺の説教も(マタ一三章)、オリーブ山の説教も(マタ二四、二五章)、すべてのたとえ話も、第一にイスラエルの子らに向けられたものだった。十字架によって「隔ての中垣」が取り除かれ(エペ二・一三〜一六)、そしてコルネリオの回心によって全くの異邦人にも天の王国が開かれた後(使一〇章、マタ一六・一九)、はじめて異邦人もユダヤ人と同じように福音の本質的教えを直接受ける権利を持つようになった。イエスの地上生涯の後に起きたこの二つの出来事が、後になってはじめてイスラエル人でない人々にも主の講堂の戸を開いたのである。
しかし今では、もはや差別は全く存在しない(使一五・八、九)。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も同じ救いにあずかるからである(使二八・二八、一一・一七)。二つの「良い知らせ」――ユダヤ人クリスチャン向けと異邦人クリスチャン向け――があるわけではない。福音はただ一つ、教会はただ一つである(ガラ一・六〜九、エペ二・一一〜二二、三・六)。それゆえ、「天の王国の扉が十字架と使徒行伝十章によって開かれた後も、福音の教義的内容は依然としてイスラエルだけに限られていたのであり、パウロのメッセージや教会とは同じ経綸的基盤の上に立ってはいなかったのである」という主張は、新約の救いの教理に矛盾するものであり、特にパウロの教理に矛盾するものである。パウロ自身、「自分」の福音の領域について、それが二つの時期を経ること――すなわち、先ずユダヤ人に示され、1それから次にこの同じ救いが(使二八・二八)異邦人に示されることを証ししている(ロマ一・一六、使一三・四六)。
1 マタ一〇・五、六。なお二八・一九を参照。そしてその理由はヨハ四・二二、ロマ一一・一八である。
また、パウロの同労者の一人であったヘブル書の著者によると(ヘブ一三・二三)、教会時代の救いが教えられ「はじめた」のはキリスト在世当時のメッセージからであって、パウロのメッセージからではない(ヘブ二・三)。また、パウロは「自分」の福音のことを「霊」であり「命」であると述べているが(「霊は活かす」、二コリ三・六)、主イエスの御言葉もこれと同じ経綸的性格を帯びている。「わたしがあなたたちに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハ六・六三)。従って教会時代にパウロとその同労者たちが宣べ伝えたものは、福音のメッセージに関するかぎり、決して新しい経綸のメッセージではなく、従来の福音がただ御霊の附加的啓示により拡張・深化されたものなのである(ガラ一・一一、一二、エペ三・三、一コリ一一・二三、一テサ四・一五)。
主の御言葉は喜びのメッセージであり、祝福の宣言だった(マタ五・三〜一二)。「恵みの言葉」であり(ルカ四・二二)、御父の御名の啓示だった(ヨハ一七・六、マタ五・四五)。ヘブル二・三によると、「救い」と「贖い」は地上における主の教えの素晴らしい表題である。その奇蹟は癒しと助けの御業だった。そして主は――律法において宣言された「死」ではなく――「神の恵み」が人として現われた御方であり(テト二・一一、三・四)、彼御自身が復活であり永遠の命だった(ヨハ一一・二五、一四・六、一七・三)。
こうして四福音書の時期の間、天の王国の領域や環境、時には教理の形体も(マタ五・二一、二三〜二七、三一、三八、四三)、旧約的制限や国家的制限を受けていたが、その本質や精神は新約的自由のそれであった。律法の経綸と恵みの経綸は、ただ一つの出来事によって峻別されるべきものではない。この二つの経綸は虹の色彩のように重なり合っているのである。
七.王国の栄光
臣下のために死なれた王。2
2 普通なら臣下が主君のために死ぬのに。
万人の救い主なる審判者。
かつてはただの奴隷だった貴族たち(ルカ一二・三二、ロマ六・二〇)。 かつては全くの犯罪者だった審判者たち(一コリ六・二、三)。 一度は全くの叛逆者だった信者。
完全な自由である律法(ロマ八・二、ヤコ一・二五)。 自由だが全く束縛されている(ロマ六・一八)。
王国のすべての者が、かつては敵だった(ロマ五・一〇)。 支配者たちはみな同時に僕である(黙一・六)。
皆が二度(地的及び天的に)生まれる(ヨハ三・三)。 決して死なない者が多い(一コリ一五・五一)。 皆が死から命に移された(ヨハ五・二四)。
敗れたにもかかわらず、征服者である(二コリ六・九、一〇)。 英雄だが、その栄光は弱さにある(二コリ一二・九)。 さげすまれているが、宇宙の王はこれを高めたもう(ルカ一二・三二)。
領土は地上にあるが、その首都は天にある(ガラ四・二六)。 小さな群れだが、海の砂のように数えつくせない(創二二・一七、黙七・九)。 王国に国土はないが、全世界がこれに属す(一ペテ二・一一、マタ五・五、一コリ六・二)。
そして、これらすべての秘密を解く鍵は何か。
いばらの冠をいただく栄光の王!
これが王国の栄光である。