"Theologia crucis --- theologia licis" 「十字架の神学は光の神学である。」(ルター)
パリサイ人の憎しみはキリストを十字架につけるに至った。イエスの処刑は世界史上、最大の法的殺人である。「それは一人の大使を殺すという最も卑劣な殺人であり、祖国の慈父に対して犯された狼藉として、これ以上に非道なものはいつの世にも見られたことがない」。
しかし、神はどうされたか?
「彼は御自分に対するこの悪魔のように卑劣な叛逆を転じて、この叛逆者たちを救うための贖いとされた!彼は聖顔を打つこの殴打に、和解の愛の接吻をもって応じられた!われわれは神に対して極度の悪を働いたのに、神はわれわれに対して極度の善を行って下さった。しかもそれが同時になされたのである」。こうして十字架における恥ずべき行為が、贖いにより、その同じ瞬間、人類史と宇宙的な超歴史のドラマ全体の転換点となったのである。
最近の計算によると、イエスの十字架刑は紀元三十年四月七日に行われた可能性が最も高い。いかなる点から見ても、十字架は贖いの基礎として勝利に輝くものであることが立証される。
一.神にとっての十字架の意義
十字架は救済史上最大の出来事であり、復活にもまさって重大な出来事である。十字架は勝利であり、復活は凱旋である。凱旋は勝利の必然的結果だが、勝利の方が凱旋よりも更に重要である。復活は勝利が公に示されたものであり、十字架につけられた御方の凱旋である。しかし、勝利そのものは完全であった。「すべてが終った」(ヨハ一九・三〇)。
なぜなら十字架は、
1.神の愛の最高の証明だからである。なぜなら十字架において、すべての命の主が、御自分の最も愛する者、ひとり子、仲保者、創造された万物の世嗣を、死に渡されたからである(コロ一・一六、ヘブ一・二、三)。主キリストは十字架の上で死なれた。彼を中心に星は空をめぐり、彼のためにブヨはすべて日光に踊る(ヘブ二・一〇)。まことに、「わたしたちがまだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ロマ五・八)。それと同時に十字架は、
2.神の義の最大の証明である。なぜなら、世の審判者は「神の義を示すため」(ロマ三・二五)、御自分のひとり子さえも惜しまなかったからである(ロマ八・三二)。ゴルゴタ以前の幾世紀もの間、神は個々の審きは幾つもなさったものの(ロマ一・一八以下)、罪に対して常に百パーセントの罰をもって臨まれたわけではなかった(使一七・三〇)。そのため遂に、神の忍耐のゆえに、神の聖さは怪しげに見えるものになった。なぜなら、「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた」からである(ロマ三・二五)。それゆえ、贖い主の贖いの死だけが、人類の過去の歴史に対して神を正当化するものであり、世の最高審判者の確固たる義を証明する。過去の忍耐はみな、十字架を仰ぎ見ていたからこそ可能だったのである(ロマ三・二五)。そして将来の罪の赦しはいずれも、十字架を振り返る時だけ義しいのである(ロマ三・二六、一ヨハ一・九)。過去の忍耐(ロマ三・二五)、現在の裁き(ヨハ一二・三一)、未来の恩恵が十字架で出会う(ロマ五・八、九)。それゆえ今はじめて、独特な方法で、神の義が福音の中に啓示されているのである(ロマ一・一七、二コリ三・九)。神の属性であり神の賜物でもある神の義が、福音の中に啓示されている。神の義は神から来るものであり、神の御前でも有効である(二コリ五・二一)。まさにこの理由により、十字架は、
3.神の富を驚異的に増し加えるものである。「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました 」(黙五・九)。彼らは今、神のために獲得されており、「神の所有の民」であり(一ペテ二・九)、神御自身の宝の民である(テト二・一四)。しかし、十字架が獲得した富により神の栄光が増し加わった、という意味ではない――神御自身、無限の御方だからである。しかし、次のことは事実である。すなわち、神は道具として、また御自分の栄光を啓示するための器官として、教会を勝ち取られたのである。今現在も、教会の職務は地上だけに限られてはいない。今も、「天の世界にいる主権者たちや権力者たちに対して、神の多様な智恵を知らしめる」のである(エペ三・一〇、一一)。兄弟姉妹よ、それゆえ、あなたの霊を日々の些事から高く挙げよ!あなたによって、天の世界にいる主権者たちは、あなたの神の智恵を学ぶであろう!上を向いて、星を仰げ!然り、さらに彼方、星の上を仰げ!神の御座の傍らにあなたの心をとどめよ。神は全能者であり、あなたと私の父なのである!
二.キリストにとっての十字架の意義
キリストと神にとって十字架は、
1.神の権威を最高に承認するものである。なぜなら、御子は死に至るまで、十字架の死に至るまで従い通されたからである(ピリ二・八、ロマ五・一九)。また十字架は、
2.神を信じる信仰を最高に完成するものである。なぜなら、キリストは「さまざまな苦しみによって従順を学び」(ヘブ五・八、九)、こうして信仰の「創始者」となり、「完成者」となられたからである(ヘブ一二・二。なお二・一三を参照)。また十字架は、
3.神の御旨を最も決定的に増強するものである。なぜなら、キリストは「神に対するこうばしい香りとして」御自分をいけにえとして献げられたからである(エペ五・二)。また十字架は、
4.御子に対する御父の愛が永遠に続くための基礎である。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハ一〇・一七)。
十字架はキリストとも個人的に関係している。キリストにとって十字架は、
5.愛と力の地位から勝利者の地位に移るための道であり、「父のふところに」在る状態から(ヨハ一・一八)、「天にあって大能者の御座の右に座」す状態に移るための道である(ピリ二・九、ヘブ二・九、八・一)。それからさらに、十字架は、
6.教会を贖って所有する道であり、「一粒」の麦の状態から死を通過して勝利の栄光と結実に至る道である(ヨハ一二・二四)。そうすることによってのみ、彼は「救いの君」となり得たのであり(ヘブ二・一〇)、御前に置かれた喜びを御自分のものにすることができたのである(ヘブ一二・二)。そうすることによってのみ、キリストは多くの兄弟たちの長子となり得たのであり(ロマ八・二九)、彼の肢体たちのかしらとなりえたのである(エペ一・二二)。そうすることによってのみ、彼は御自分の「豊満」、御自分の「からだ」、「すべての中ですべてを満たしている御方の豊満である教会」を獲得し得たのである(エペ一・二三)。神のパースンとしてのキリストが十字架によって何も獲得されなかったのは確かである。天におられる栄光を受けた人が今持っておられる神性と栄光は、受肉以前に永遠のことばとして持っておられた神性と栄光に優るものではない。彼自ら言われた、「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」と(ヨハ一七・五)。しかし、贖い主として、また「最後のアダム」としてのキリストは(ロマ五・一二〜二一、一コリ一五・四五)、それにもかかわらず、初めて高く揚げられるに至ったのである。その御名さえも高く揚げられた。この御名はあらゆる名の上にあり、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、遂にはこの御名によって膝をかがめるであろう(ピリ二・九、一〇)。
そして最後に、われわれに対するキリストの関係に関して、十字架は、
7.神の御子の愛の最も素晴らしい表現である。「キリストは教会を愛してそのためにご自身をささげられた」(エペ五・二五、ガラ二・二〇)。キリストは十字架上の苦悶の死を、われわれの命の源とされた。そしてこうして、われわれの否認と憎悪に対して、贖いの愛をもって応えて下さった。これにより、サタンの見かけ上の勝利は、サタンにとって最も痛烈で最も決定的な敗北となり、イエスの見かけ上の敗北は、イエスにとって最も強く最も輝かしい勝利となったのである。
三.われわれにとっての十字架の意義
A.個人的な面
個人にとって、十字架は二重の意味を持つ。十字架は個人の義認の基礎であり、個人の過去を法的に整えるものである。そしてまた個人の聖化の基礎であり、個人の現在を道徳的に支配するものである。
1.義認の基礎。われわれの罪はすべて、引受人の上に置かなければならない(イザ五三・六)。キリストが代理人として、人々に代わってそれらの罪を負わなければならない(一ペテ二・二四、ヘブ九・二八)。こうして人々は罪に死んで、義に生きなければならない(二コリ五・二一)。そして、堕落という歴史上たった一度の出来事が人に滅びをもたらしたように(創三章)、人は今や同じようにたった一度の出来事を通して引受人によって堕落から甦らされなければならない。そのたった一度の出来事とは、ゴルゴタにおける「一つの義なる行い」(ロマ五・一八)である。1
1 パウロがここで dikaiosyne(属性としての義)と区別して用いている dikaioma(義しい行い)というギリシャ語は、一つの義しい行いを意味する。地上におけるイエスの聖い生活の義(dikaiosyne)によって救いが得られたのではない。イエスが死に至るまで従われたという義しい一つの行いによって得られたのである。もちろん、この二つはつながっている。
罪の本質は、被造物の造物主からの離反である。造物主はあらゆる命の源であるから、罪は必然的に被造物に死をもたらす。罪と贖いは釣り合っていなければならないから、贖い主はこの死の宣告を忍ばなければならない。こうして彼の死により、命が回復されたのである。「血を流すことなしに、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブ九・二二)。死によってのみ彼は、死の力を持つ者すなわち悪魔の力を取り去ることができたのである(ヘブ二・一四)。贖いは次のことから成っていなければならない。まず、人々の大敵であるこの死が、人々を救う手段とならなければならない。また、罪を罰するためにやむをえないものが、罪からの贖いの方法とならなければならない(エペ二・一六)。しかし、これが意味するのは、キリストの死は死の死であるということである。2荒野における青銅の蛇や(民二一・六、八、ヨハ三・一四)、ダビデがゴリアテ自身の剣でゴリアテを殺した方法(一サム一七・五一)と比較せよ。
2 キャッスル・キャンプスに、先の教区牧師に関する以下の古風な碑文がある。 Mors mortis norti nortem nisi morte dedisset, Aeternae Vitae Janua clausa foret. 言うまでもなく訳すと次のようになる。 「彼(キリスト)の死が御自身の死によって死に死を与えていなければ、永遠の命の門は閉ざされたままだったであろう」。 H.E.ノルフォークの墓碑拾遺十一頁(一八六一年)
これが救いの論理である。これは神の贖いの御計画の中にしっかり堅く根ざしている。その抵抗しえない証拠の前に、不信仰から発した高慢な攻撃はすべて砕かれてしまう。十字架につけられたキリストを中心とする神学は(一コリ二・二、ガラ三・一)「血なまぐさい神学」として(ヘブ九・二二)憎まれているが、それにもかかわらず救いの岩である。実に、多くの人々にとってそれは躓きの石、妨げの岩であり(一ペテ二・八)、到る所で非難を受ける徴であるが(使二八・二二、ルカ二・三四)、贖われた人々にとっては、選ばれた、貴い、堅く堅く据えられた、活ける隅の石である(一ペテ二・四、六、イザ二八・一六、詩一一八・二二)。それは多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするべく定められており(ルカ二・三四)、ある人には死から死に至らせる香りであり、他の人には命から命に至らせる香りである(二コリ二・一五、一六)。ユダヤ人には躓きであり、ギリシヤ人には愚かである(一コリ一・二三)。しかし、いずれの場合にも、真理であり(ロマ一五・八)、力であり(一コリ一・一八)、
身代わりに関する注記
身代わりの思想は予め旧約に深く刻まれていて、罪と罪のための供物とに一つの同じ言葉が使われることがあるほどである(ヘブル語で chata-ah)。出エジプト三四・七と一サムエル二・一七では、この語は罪を意味し、民数記三二・二三とイザヤ五・一八では、罪の罰を意味する。それからレビ六・一八、二三とエゼキエル四〇・三九では、罪のための供物を意味する。こうしてまた、罪を知らなかったキリストも「わたしたちの代わりに罪とされ」た。すなわち、罪のための供物にされたのである(二コリ五・二一)。事実、キリスト御自身がこの身代わりの真理を証しされた。不信仰な人々はパウロのことをキリスト教の「偽造者」と非難しているが、身代わりの思想はパウロが最初に説いたものではない。なぜなら、マタイ二〇・二八でキリスト御自身が、御自身の命を「多くの人の代わりの贖いの代価」として与えると述べておられるからである。原文では「代わりの」という言葉に anti という語が用いられている。この語が「代わりに」を意味することは否定できない。なぜなら、anti が明らかに「代わりに」の意味で使われている事例がいくつかあるからである。例えば、ギリシャ語の旧約聖書の創世記二二・一三は、アブラハムがその子の「ために」(ギリシヤ語では anti)牡羊を献げたことについて述べており、また創世記三六・三三〜三五等は、王たちの一覧の中で、死んだ父の「ために」(anti)その子が王となったことについて述べている。このように、パウロは主御自身から、主の自己犠牲を「すべての人の代わりの贖いの代価」(anti-lutron、一テモ二・六)として記述する権利を得たのである。
救われた者にとって十字架は次に、
2.聖化の基礎である。主キリストが十字架上で死なれたのは、われわれが十字架から救われるためだった。これはわれわれにとって、キリストの死の法的免除の面であり、ゴルゴタが備えた釈放である。ではあるが、それにもかかわらず、キリストが十字架上で死なれたのは、われわれがキリストと共に十字架につくためだったのである。これはわれわれにとって、その中にわれわれを含むキリストの死の道徳的面であり、ゴルゴタが課す義務である。われわれは十字架のキリストに「共に接がれた」のであり、「その死の様に」有機的に連なったのである(ロマ六・五)。われわれは従う者であり、十字架を負う者であり(マタ一〇・三八)、キリストと同じく一粒の麦であって、ただ死によってのみ真に生きる者なのである(ヨハ一二・二四、二五)。十字架は実に暗澹たる性格を帯びているが、われわれの贖いの尊い基礎である。われわれはこれにあずかるよう召されている。われわれは「キリストと共に十字架につけられた」(ガラ二・二〇)。われわれにとって、
(a)周囲の世は死せるものとなった。十字架につけられた御方によってである。十字架によって世はわれわれに対して「十字架につけられ」、われわれは世に対して「十字架につけられた」のである(ガラ六・一四)。
(b)われわれの内側にある世も、同様に、われわれと共に十字架上にある。「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古い人はキリストと共に十字架につけられた。それは(中略)わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」(ロマ六・六、一一)。
(c)われわれの下の世は十字架によって完全に征服された。なぜなら、キリストは「もろもろの支配と権威との武装を解除し、公にさらしものとして、十字架によって勝ち誇られた」からである(コロ二・一六、創三・一五)。最後に、十字架によって、
(d)われわれの上の世は、われわれにとって恵みとなり祝福となった。律法の呪いが除かれたからである(ガラ三・一三)。律法の戒めに伴う証書がわれわれに対して不利な証言をしていたが、それは無効にされて十字架につけられた(コロ二・一四)。もはや神は十字架に目をとめることなくその証書をご覧になることはない。この証書も同様に共に死せるものとなったのであり、キリストと共に十字架につけられたのである。「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ」(ガラ二・一九)。
神の律法により罪人の上に死が降りかかろうとしていたが(ガラ三・一〇)、キリストは罪人の代わりにこの死を担って下さった。このように、キリストもまた律法に「よって」死なれたのである。しかしそれにより、もはや律法のいかなる要求もキリストに対して効力を失ったのである。それは丁度、死刑を宣告された人がいて、その人に刑が執行されるなら、その人は刑を執行する権威の虜から解放されるのと同じである。このようにキリストもまた、今や律法に対して死んでおられる。さて、キリストが経験されたことは、キリストを信ずる信者もキリストと共に経験したのである(ロマ六・五〜一一)。こうして、信者もまた律法に関して死んでおり、今や死から復活された御方の自由の内に生きているのである(ロマ七・四)。
B.団体的な面
人類にとっても、十字架を通して、ある全く新しい秩序が団体的に始まった。すなわち、次の三つの点についてである。
内的に――律法の除去によって、 外的に――すべての国民を救いに入れることによって、 一般的に――十字架につけられた御方の宇宙的な勝利によって。
1.律法の除去。内なる命については、十字架はレビ記の供え物がすべて成就されたことを意味し、それゆえ廃止されたことを意味する(ヘブ一〇・一〇〜一四)。そして、それと共に、レビ記の律法全般が無効になったことを意味する(ヘブ七・一八)。なぜなら、供え物は祭司職の基礎であり、祭司職はその律法の土台だったからである(ヘブ七・一一)。しかし、こうしてキリストは十字架により「律法の終わり」となられ(ロマ一〇・四)、また、さらに優った契約の保証となられた(ヘブ七・二二)。まさに新しい契約となられたのである(マタ二六・二八)。この契約により、「召された者は約束された永遠の嗣業を受ける」(ヘブ九・一五〜一七)。しかし、レビの祭司職は解消されたので、「前の幕屋」は過ぎ去り(ヘブ九・八)、宮の幕は裂け(マタ二七・五一)、至聖所に入る道は開かれ(ヘブ九・八、一〇・一九〜二二)、今や神の民全体が祭司の国なのである(一ペテ二・九、黙一・六)。
2.すべての国民を救いに入れること。しかし、律法が内的に除かれたように、律法はまた外的にも除かれなければならなかった。十字架の時まで、律法はイスラエルを「キリストに導く養育係」(ガラ三・二四)として、ユダヤ民族を世界の諸民族から隔てる「中垣」だった(エペ二・一四)。諸国民には「律法がなく」(ロマ二・一二)、「約束されたいろいろな契約に縁がない者」だった(エペ二・一二)。両者の間には緊張関係があった。救済史上、ある種の「敵意」があったのである(エペ二・一五)。そのため、「遠く離れている」者たちと「近い」者たちは一緒になることが許されなかった。しかし、今やキリストが「われわれの平和」である。キリストは律法を成就することによって、「隔ての中垣」を除いて下さった。そして、キリストはユダヤ人と異邦人の両者を十字架によって、教会という一つのからだとして互いに和解させ、神と和解させて下さったのである(エペ二・一三〜一六)。
それゆえ、キリストの死による律法の成就は、「アブラハムに対する約束がモーセの律法のしきいを突破したこと」を意味した(創一二・三、ガラ三・一三、一四参照)。さらに、これは救いがイスラエルを超えて世界の諸民族にまで広がったことを意味した。十字架という極度に狭い道により、救いの道は全てを包括する広さを持つものとなったのである。そしてそれゆえ、準備の段階の民族主義から成就の段階の普遍主義へと移ったのである(ヨハ一一・五二)。「そして、わたしがこの地から上げられるなら、すべての人をわたしのところに引きよせる」(ヨハ一二・三二)。
3.十字架につけられた御方の宇宙的な勝利。「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出される」(ヨハ一二・三一)。十字架により、死にかけている御方は勝利された(黙五・五、六)。十字架により、彼は主権者たちから武装を剥ぎ取られた(コロ二・一四、一五)。彼の死により、彼は死の力を持つ者である悪魔からその力を除き去られた(ヘブ二・一四)。それゆえ、「すべてが終った」と彼は勝利の叫びをあげたのである(ヨハ一九・三〇)。
サタンの追放について
その力は――ゴルゴタに基づく(ヨハ一二・三一) その実現は――徐々に成就される(マタ一二・二九) その最終的結末は――しかるべき時に完成される(黙二〇・一〇)。
それゆえ、「挙げられ」という表現は聖書では二重の意味がある(ヨハ三・一四、八・二八、一二・三二、ピリ二・九)。なぜなら、十字架の上に「挙げられ」ることと、天の御座に「高められる」ことは一緒のことであって、ギリシャ語では両方の出来事に同じ言葉が使われているからである。十字架につけられた御方は、冠を受けた御方である(ピリ二・八〜一一、ヘブ二・九)。それゆえ、この世の古い君は追放されなければならない。新しい正当な君が即位されるからである。
それゆえ、主が死なれたとき、地は震え(マタ二七・一二)、日は光を失った(ルカ二三・四四、四五)。なぜなら、キリストの十字架は罪のあらゆる表れに対する神の大いなる「否」だからである(ヨハ一二・三一)。それゆえ、この世が滅びる日、地は激しく震え(ハガ二・六、ヘブ一二・二六、二七)、日は恥で覆われ(イザ二四・二三)、月はもはや輝かず、星は暗くなり、天も地も大いなる白い御座の前から逃げ去る(黙二〇・一一)。しかしその時まさに、この古い世界の根本的な諸元素は激しい熱によって溶解して変貌を遂げ、その中から新しい栄光の世界が出現する。そして時が終わりを迎える時、この宇宙は自分の死を、自分の「ゴルゴタ」を経験しなければならない。その直後、十字架に基づいて、この宇宙は復活と復活節の朝を経験する。これは変容させる神の力による。主がゴルゴタで死なれた瞬間、太陽は暗くなり、地は震えたが、これがその預言的意味である。
4.一粒の麦であるキリスト。このような経験をことごとく経ることにより、キリストは一粒の麦となられた。この一粒の麦は
「世を贖う愛により、聖金曜日に地に落ち、 復活節の日曜日に地面から芽生え、天に向かって成長し始め、 昇天の日に、その黄金の茎は天に昇り、 ペンテコステの日に、無数の穀粒を実らせたその穂は地に垂れ、種を撒き散らし、そこから教会が誕生した」
のである(ヨハ一二・二四)。
5.永遠から永遠に至る十字架。このように、十字架は至るところに見られる。
永遠の十字架――世の基の据えられる前から知られていた小羊、 過去の十字架――ゲッセマネ、ガバタ、ゴルゴタ、 現在の十字架――十字架につけられたキリストは、われわれ自身が正しく宣べ伝えるべき活ける基本的主題である(一コリ二・二)、 未来の十字架――かつて御自分を低くされた救い主は、メシヤ王国が出現するとき、その王となられる(ピリ二・八〜一一)、 栄光の十字架――小羊は宝石であり、この宝石は天の都の土台である(黙二一・一四)。そして、御座の中央に小羊御自身がおられて、祝福された諸々の霊は小羊を礼拝する(黙五・六〜一〇)。