復活した勝利者は天に上って行かれた。人々によって十字架上に上げられた彼は(ヨハ一二・三二、三三、八・二八、三・一四)、神によって栄光の中へ携え上げられた(ピリ二・九、使二・三三、五・三一)。「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」(詩一一〇・一)。
贖い主の三つの職務のどれに対しても、昇天は極めて決定的な意義を持つ。すなわち、
預言者としての職務に対しては――直接的預言の領域から霊の預言の領域への移行であり、 祭司としての職務に対しては――「メルキゼデクの位による」大祭司職への移行であり、 王としての職務に対しては――王的権威の王的支配への拡張である。
一.預言者としての職務
これは第一に、また主として、
1.歩みによる証しであった。贖い主の受肉から公的出現までの間、キリストが神を現されたのは一貫して、御自分の人格という手段で預言することによってであった(ヨハ一・一八)。幼児期、少年期、成年期の生活により、神の聖さが示された。「わたしを見る者は、父を見るのである」(ヨハ一四・九)。彼の生活により、人間生活の正常な発達に関する神の理想が示された(ルカ二・四〇、五二を参照)。この預言の主題は、いわば「神の人」だった。そしてそれゆえ、バプテスマのヨハネの言葉は、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」であった(マタ三・一四)。
バプテスマの後、
2.言葉による預言が続いた。生活による預言に教えによる預言が加わった。キリストは「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられた」(マタ七・二九、ヨハ七・四六)。彼の主題は今や神の王国だった(マタ四・一七)。しかし、彼の昇天は直接的預言の間接的預言への移行を示すものだった。そしてペンテコステと相まって、天からなされる預言が始まった。すなわち、
3.御霊による預言である。指導を必要とするわれわれに、今や、言葉と霊によって語って下さる、高く揚げられた預言者が「到来」された(ヨハ一四・一八、二八)。彼の使者たち――使徒たち、預言者たち、牧者たち、教師たち(エペ四・一一)や、彼の一般的な証し人たち(使一・八)が「到来」しただけでなく、彼らとそのメッセージにおいてキリスト御自身が到来されたのである(マタ一〇・四〇)。そして、栄光の中からキリストは御霊を通して預言を継続しておられるのである。十字架につけられて復活した御方について、パウロはこう述べている。「彼は来て、遠く離れているあなたたち(非ユダヤ人)に平和を宣べ伝え、また『近く』にいる者たち(ユダヤ人)にも平和を宣べ伝えられたのである」(エペ二・一七)。文脈からわかるように、これはゴルゴタ以前の地上生活におけるキリストの到来と宣べ伝えについて述べているのではなく、キリストが十字架上で平和を造る働きを完了された後の時のことについて述べているのであり、それゆえ、現在におけるキリストの「到来」について述べているのである。キリストは現在、言葉と霊とにより、イスラエルや諸々の民に到来して下さっている(一三〜一六節を参照)。彼の現在の主題は完成された贖いとその平和と光である(使二六・二三)。
昇天にはさらに偉大な意義がある。それは
二.大祭司としての職務
に対してである。
地上でキリストは、罪人の救いのための贖いの犠牲により、アロンの祭司職を本質的に成就された(ヘブ五・一〜四、九・六〜二三、一〇・一、コロ二・一六、一七)。しかし、死から復活して天の世界に上って行かれたことにより(ヘブ九・二四、四・一四)、キリストは諸々の天よりも高くなられた(ヘブ七・二六、エペ四・一〇)。彼は今や神によってメルキゼデクの位による大祭司と称えられている(ヘブ五・一〇)。したがって、キリストの昇天は、彼の謙卑と高揚との間の転換点であっただけでなく、大祭司としての働きを遂行する二つの形式の間の転換点でもあった。昇天の際、キリストは上なる至聖所に入られた。それは「他のものの血によって」ではなかった。旧約の大祭司たちは大いなる贖いの日に「他のものの血によって」至聖所に入ったが(レビ一六・一五〜一九)、キリストはそうではなかった。キリストは「御自身の血の功績により」、すなわち、ゴルゴタで御自分を献げられたことによるその個人的功績により、上なる至聖所に入られたのである。こうして、この根拠に基づいて、キリストは今、われわれのために神の御顔の前に現れて下さるのである(ヘブ九・一一〜一四、二四・二五、ロマ八・三四)。
この理由により、キリストの昇天は同時に、十字架につけられた御方の正しさの証明ともなった(ヨハ一六・一〇、一テモ三・一六)。御子の御業が御父によって受け入れられたことを示すものなのである。天の世界におられる至高者はこうして、地上におけるキリストの大祭司職の有効性を宣言された(使二・三四〜三六)。一年に一度しかない大いなる贖いの日であるヨム・キプル(yom kipur)に(レビ一六章)、大祭司は至聖所の中に入ったが(ヘブ九・七)、これはイスラエル最大の祭における大祭司の最も厳かな行為であった。昇天はこの行為の本質的意義であり、その成就の中心だったのである。
1.メルキゼデクとキリスト。メルキゼデクとは何者だったのか?彼はサレムの都(平和の都)の王だった。この都がどこにあったのか、あまりはっきりしていない。教父たちは、これはヨハネ三・二三で述べられているアイノン(ヨルダン川畔のスキトポリス)近くのサレムであると考えた。それよりも可能性が高いのは、ヨセフスやラビたちの推測である。すなわち、テル・エル・アマルナ文書(紀元前千二百年頃)のウルサリムとする推測である。イル=ウル=都。サレム=シャロム=平和(詩七六・二参照)。
古代のカナン人の法律(これは古代世界では一般的なものだった)によると、都の王は同時にその祭司長でもあった。そしてメルキゼデクは(在世時のヨブと同じように)、周囲を異教徒に囲まれていたその只中にあって、原初の啓示の代表者だった(創一〜一一章)。そしてそれゆえ、いと高き神の祭司だった(創一四・一八)。へブル七・三の意味は、彼は神の御子自身だったということではない。もしそうなら、受肉以前に受肉があったことになるからである。また、彼は神の御子の一種の天使的出現でもなかった(創一八・二参照)。彼は一つの都の合法的な王として、古代のカナン人の都市国家を治めていたからである。彼はアブラハムの時代に生きていた生まれつき敬虔な人であって、ヘブル七・三は彼を神の子と対比しているだけである。
神を信じるメルキゼデクの信仰は充分に報いられた。彼は高められて、贖い主を示すあらゆる予型の中でも最高のものとされたからである。彼がキリストの型であるのは、
彼の祭司職と王職が一つだったことによる。彼は祭司であって同時に王でもあった。 メルキゼデクという彼の個人名による。この名は義の王を意味する(ヘブ七・二)。 サレムという彼の都の名による。この名は平和を意味する(ヘブ七・二)。 彼がアブラハムの生涯に現れたことによる(創一四・一七〜二〇)。
ここでは、メルキゼデクはただ型としてのみ意義を持つ。歴史上、また救済史上、個人的にはアブラハムの方が偉大である(ロマ四・一一、一二、一六、一七)。しかし、型としてはメルキゼデクの方が偉大である。彼はキリストの型である。なぜなら、彼は族長アブラハムから「十分の一を受け取り」、それゆえ、律法よりも大いなる者だからである(ヘブ七・四〜六)。律法の下では死ぬべき人間たちが十分の一を受け取ったが、メルキゼデクの場合、生きていると証しされている者の一人が受け取ったからである。さらに、祖先であるアブラハムと子孫であるレビとは有機的につながっていたため、律法の下で十分の一の受け取り手であったレビも十分の一を収めたことになるからである(ヘブ七・八〜一〇)。それからまた、メルキゼデクは約束の所持者を「祝福した」わけだから、約束よりも偉大なのである(ヘブ七・六、七)。彼はアブラハムを通してレビの部族から十分の一を受け取り、これを祝福した。それゆえ、彼はレビの祭司職、すなわち、律法と約束とに仕える人間の奉仕者たちよりも偉大である(ヘブ七・九、一〇)。このように、彼は旧契約の中に含まれるあらゆるものよりも偉大である。なぜなら、律法と約束は旧約全体の二本柱であり、その総計だったからである。
しかし、とりわけメルキゼデクがキリストの型であるのは、
彼の祖先、誕生、死について聖書が沈黙していることによる(ヘブ七・三)。この点において特に、メルキゼデクはキリストに似ている。事実、キリストには始まりがなく、その系統は永遠であり、永遠に王であり祭司である。メルキゼデクの位が強調的に表しているのは、祭司職のこの永遠性である。それゆえ、キリストの祭司職もまた移り行くものではなく、永遠に彼個人のものであり、したがってレビの祭司職よりも高いのである(ヘブ七・一六)。それは死すべき人間に与えられたものではなく、生きていると証しされている御方に与えられたものなのである。
したがって、キリストは唯一の大祭司であり、彼の職務は永遠に移ることはない(ヘブ七・二三、二四)。これは主なる神の誓いに基づく。キリストはダビデの子であり、ユダの部族の子孫であって、レビの部族の子孫ではない(詩一一〇・一、四、マタ二二・四二〜四五、ヘブ七・一一〜一四)。したがって、彼の祭司職は同時に次のことを暗示する。すなわち、レビの制度は永遠に廃止されたのであり、それと共に、それに基づくレビの律法もまた決定的に無に帰したのである(ヘブ七・一二〜一八)。1
1 エレ三一・三二、ヘブ八・九。無効と宣言されたのはシナイで結ばれた契約であることがはっきりと述べられている。アブラハムと結ばれたそれより前の基本的契約は有効なままである。これがガラテヤ三・一五〜一七の論旨である。それゆえ、シナイ契約に組み込まれたアブラハム契約の備えや特徴も、依然として有効なままでなければならない。多くのことがこれに続く。モーセの経綸がどれくらい過ぎ去ったかを考えるにあたっては、注意が必要である。(英訳者による注)
2.祭司としてのメルキゼデクの位。この天の祭司職は地上の祭司職を補うものとして必要である。
地上においてキリストは祭司であると同時にいけにえでもあった(ヘブ九・一二〜一四)。天においてキリス卜は祭司であると同時に王である(ヘブ七・二、八・一)。
地上においては、その重心は彼の死であり、ゴルゴタにおける彼の命の滅却であった(ヘブ九・一五〜二三)。天においては、その重心は彼の命であり、復活と昇天の力による彼の命の不滅性である(ヘブ七・一六、三、二四、詩一一〇・一〜四)。
キリストはアロンの祭司職を本質的に成就した。そのような者として、キリストは苦難を通して合法的に救いを獲得された。キリストとして私たちのためにそうして下さったのである。メルキゼデクの位による祭司として彼は救いを与えて下さる。私たちの内におられるキリストとして、有機的に、彼の勝利を通して、救いを与えて下さるのである(コロ一・二七)。
地上で祭司として、キリストは一度限り永遠に土台を据えて下さった(ヘブ一〇・一〇、一四、一八)。この天の下における彼の働きは歴史的なものであり、完結している(ヘブ九・二六)。天における祭司として、キリストは絶え間なく働いておられる(ヘブ七・二五)。メルキゼデクの位による彼の奉仕は決して完結することがなく、永遠である。
謙った祭司として、キリストは全世界の贖いのために奉仕された。そして誰の協力も受けることなく、万物のために和解のいけにえを献げられた。いと高き祭司として、キリストは御自分の選民にのみ奉仕しておられる。彼の肢体である「われわれ」のためにのみ、キリストは神の御座の前に現れて下さる(ロマ八・三四、ヘブ九・二四、ヨハ一七・九)。
しかし、この両者は一つであって、永遠に不可分である。犠牲と執り成し、救いの獲得と救いの維持、歴史と永遠、苦難と栄光、これらを分けることは永遠にできない。
これらすべての点において、メルキゼデクの位による彼の祭司職は、アロンの祭司職の完成である。天における祭司として、キリストはわれわれのために御父の御前に出て下さった。地上における祭司として彼が獲得された力をもってである(ヘブ九・二四、二五)。こうして彼は救いを獲得されただけでなく、さらに占有、堅忍、栄化を加えて下さる。そして、とこしえのメルキゼデクとしての彼の威厳の永遠性は、それと共にわれわれの贖いの永遠性の保証ともなる。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、完全に1救うことができるのである」(ヘブ七・二五)。
1 「完全に」と訳されている言葉は原文では eis to panteles である。新約聖書でこの言葉が出てくるのは他にはルカ一三・一一の一箇所だけである。サタンに縛られていた女は病床にあったわけではないが、身を完全には伸ばせなかったのである。これは多くの信者の絵図である。(英訳者による注)
しかし、昇天の主な意義は王としての職務とも関係している。
三.王としての職務
昇天は栄光の王の即位式である。この王は
生まれつき王の権利を持ち(マタ二・二、ヨハ一八・三七)、 その品格は王の威厳を備え(ヨハ一・四九)、 その王としての奉仕には完全な権威があり(マコ一・二七、四・四一、マタ七・二九)、 昇天によって王としての支配権を獲得されたのである。
天において、隠されていた彼の王権が明らかにされた(一テモ三・一六)。そして、彼のパースンの道徳的権威は世界を包み込むものとなり、すべての主権・支配・力を超えて高く上げられた(エペ一・二〇、二一)。今や、イエスが神の御座に着き(ヘブ八・一、ピリ二・九)、「大能者の御座の右に座し」て(ヘブ一・三、詩一一〇・一、ロマ八・三四、一ペテ三・二二)、「栄光とほまれとを冠として与えられた」のを(ヘブ二・九)、われわれは見ている。昇天によって、イエスはまさしくキリストとされ(使二・三六)、主とも統治者ともされ(ロマ一四・九)、すべての国々の支配者とされたのである(マタ二八・一八)。
天からキリストは御自分の王権を様々な方法で示される:
御自分の教会を建てることにおいて――御霊の傾注により(使二・三三、一コリ一二・三)、 御自分の王国を拡張することにおいて――救いのメッセージを確証することにより(マタ二八・一〜二〇、マコ一六・一七〜二〇)、 御自分の王国を統治することにおいて――権威ある命令によって(一コリ九・二一)、 御自分の王国を守ることにおいて――数々の妨げを征服することにより(使五・一九、一二・七、二三)、 御自分の王国を完成することにおいて――栄光のうちに到来することにより(一テモ六・一四、一五)。
聖書は三つの「御座」を区別している。この三つの御座は各々、キリストの天的統治の主要な三つの時期に象徴的に対応している。
1.昇天と再臨の間の現在の時、キリストは御父の御座に着いておられる(黙三・二一、ヘブ八・一)。「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」(詩一一〇・一)。彼の「待機」期間全体に渡って(ヘブ一〇・一三)、彼の王権は超国家的、純霊的、不可視のものであって、救いの行程と関係している。これは恵みの王国である。
2.千年王国では、キリストはダビデの御座に着いておられる(ルカ一・三二、使二・三〇)。このキリストの地的祖先の王座は、そのときキリストの王座となる(黙三・二一、マタ一九・二八、二五・三一)。そして真の完全なダビデとして、キリスト御自身がイスラエルと世界の諸々の民を支配される(ホセ三・五、エゼ三七・二四、二五)。キリストの王権はその時、目に見えるものとなり、世界史及び救済史の両方の観点から見て、国家的に普遍のものとなる。これは栄光の王国である。
3.神と小羊の御座はまさに新しい世界に属する(黙二二・一、三)。このとき、御子の王権は御父の王権の下で、普遍的な、永遠の、超歴史的なものとなる。それは究極的に完成された王国である。
さて、王国には臣民や王の僕たちがいなければならない。しかし、聖霊を通してでなければ、誰もキリストを王としていただくことはできない(一コリ一二・三)。なぜなら、キリストの王国の律法は霊の律法だからであり(ロマ八・二)、キリストの支配の性質は義と平和と「聖霊にある」喜びだからである(ロマ一四・一七)。それゆえ、キリストの王国が実際に到来するには、御霊の傾注がその前提条件であった。その時以前は、天の王国は地上ではあまり現実的なものではなく、あまり開かれてもいなかった。ペンテコステはキリストの王職のほとばしりであり、そして昇天と共に、王国の臣民たちの霊的団体が御霊によって生じたのである。
また、王は統治を開始する前に王座に着かなければならない。昇天がペンテコステに先立たなければならない。御子の昇天がなければ、御霊の降臨はありえない。「わたしが去って行くことは、あなたたちの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたたちのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたたちにつかわそう」(ヨハ一六・七。なお七・三九を参照)。
しかし、キリストが御霊を遣わされた時、彼はそれによって御自分を御自分の民に結合されたのである。キリストのパースンと御業は今や永遠に彼らの内にある。それゆえ、キリストが経験されたことはすべて、彼らの分け前でもある。彼らは彼と共に十字架に付けられ、彼と共に死に、また彼と共に生かされて、彼と共に天上に座している(エペ二・五、六、一・三。なお一・二〇を参照)。彼らの祖国は今や上にあり、キリストと共に高き所にある(ヨハ一四・二、三、ピリ三・二〇)。御霊を通して彼らは昇天のキリストに結ばれたのである。
そして遂に、彼らが文字通り天に昇るときが来る。彼らは携え挙げられ、高く上げられて、キリストの御前に出る(一テサ四・一三〜一八)。キリストの昇天は基本的に、新しい人類のかしらが天の栄光に入ることであった。その時から天――私たちの主イエス・キリストの天――はわれわれの天ともなった(ピリ三・二〇、ヘブ一三・一四、コロ三・一〜三)。かしらである彼が先に、その肢体たちの先導者として、栄光に入ったのである。なぜなら、「頭が自分の肢体の一つを残して、それを自分に引き寄せないことがあるだろうか?」。「わたしはあなたたちのために場所を用意しに行く」(ヨハ一四・二、三)。それは「わたしのいる所に、わたしに仕える者もまたいるべき」だからである(ヨハ一二・二六、一七・二四)。栄光への道は自由である。