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「十字架のキリストの勝利」

The Triumph of the Crucified

第一部 上より臨む朝の光

第七章 神の王国の開始

(聖霊の傾注)

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



「御霊に満たされよ」(エペ五・一八)。ペンテコステと共に新しい時代が始まる。聖霊の時代である。旧約時代との違いは三つある。

1.その広さ。旧契約の下では、御霊はある人々の上にだけ臨んだ(民一一・二九)。新契約の下では、御霊はすべての信者の上に臨む(使二・四、一七、ロマ八・九)。

この違いは「上に(on)」や「内に(in)」という短い言葉だけで言い表せるものではない。新契約の下では神の御霊は信者たちの内に住まわれるが、旧契約の下では神の御霊は信者たちの上に臨まれるだけだった、とは言い切れないのである。なぜなら、旧約における御霊の働きが「上に」という言葉で描写されているだけでなく、新約における御霊の働きについても「上に」と描写されている場合があるからである。まさにペンテコステの出来事がそうである(使二・三、一七、一八、一〇・四四、一一・一五、ルカ二四・四九)。反対に、旧約における御霊の働きについても、「上に」だけでなく「内に」とも描写されているのである(一ペテ一・一一)。

2.その持続期間。旧契約の下では、御霊はどの例でも、しばらくの期間しか働かれなかった(民一一・二五)。新契約の下では、御霊は信者たちの内に住まわれる(ヨハ一四・一七、二三、一コリ三・一六、二コリ六・一六、二テモ一・一四、ヤコ四・五)。

普遍的教会を神の「宮」や「家」として描写できるのは、ただこの理由による。また、神の宮や家のことを全教会(エペ二・二一、二二、一ペテ二・四、五)、地方教会(一コリ三・一七、一テモ三・一五)、一人一人のクリスチャン(一コリ六・一九)として描写できるのも、ただこの理由による。コリントにいた信者たちのような場合でさえ、ごく一般的に「あなたたちの体は、あなたたちの内に住んでおられる聖霊の宮なのである」(一コリ六・一九)と述べられている。

聖霊はたんなる力、能力、神の属性ではなく、意志を持つ自覚的エゴーEgo)であり、神聖な卓越したパースンである。これは以下の事実から導かれる。すなわち、聖霊は語りかけや召し(使一三・二)、命令や許可(使一六・六、七)、導き(ロマ八・一四)、指示(ヨハ一六・一三)、慰め(ヨハ一四・二六)を与え、、執り成しや(ロマ八・二六)、証しをなし(ロマ八・一六)、悲しむこともある(エペ四・三〇)――これらの表現はみな、生けるパースンを持つ存在にしか使えない表現である。また、バプテスマの命令や(マタ二八・一九)、二コリ一三・一四の祝祷においても、聖霊は明らかに御父や御子と同じ位に立っている。したがって、聖霊は御父や御子と全く同じように、神のパースン(エゴー)と認められるべき御方なのである。

第三の違いは、

3.御霊の働きの内容や目的である。旧契約の下では、御霊の働きは教育すること、それから奉仕のための能力を与えることだけだった。新契約においては、聖霊は極めて様々な方法で働かれる。すなわち、

信仰を呼び覚ますために――
 真理の御霊として、救いに招く(ヨハ一五・二六)、
新たに生まれさせるために――
 子たる身分の御霊として、命を与える(ロマ八・一五)、
聖化の過程を導くために――
 聖潔の霊として、教育する(一コリ六・一九、二〇、一テサ四・七、八)、
奉仕を促進するために――
 力の御霊として、装備する(二テモ一・七)、
栄化を実現するために――
 栄光の御霊として、変容させる(一ペテ四・一四)。
このように聖霊の働きは(1)福音的、(2)有機的、(3)教育的、(4)カリスマ的(charisma=恵みの賜物)、(5)終末論的である。

(1)救いに招く。御霊の職務はキリストに栄光を帰すことである(ヨハ一六・一四)。主を世に証しする者として(ヨハ一五・二六、黙一九・一〇)、御霊は御子の偉大なる伝道者である(黙二二・一七)。御霊は世に対して罪と義と裁きについて語る。すなわち、世の罪と、キリストの義と、サタンに対する裁きについて語る(ヨハ一六・八〜一一)。

世の罪を御霊は暴露される。それは世人の不信仰に言及することによってである。世人は不信仰によって唯一真の神である主を拒絶したのである(ヨハ一六・八、九、使二・二二、二三、三・一三〜一五、七・五二)。

キリストの義を御霊は確立される。それはキリストの昇天に言及することによってである。なぜなら、罪人たちはキリストを不義なる者として拒絶したが、昇天によって神はキリストを聖なる義なる者として認められたからである(ヨハ一六・一〇、使二・二五。なお三四、三五を参照。一テモ三・一六)。

「聖金曜日には、イエスは罪人であり、裁判官たちは義しいという判決が下されたかのようであった。しかし、昇天とペンテコステによってこの判決は覆された。ゴルゴタ上で断罪された御方には義が、この御方を裁いた者たちには罪が、報いとして与えられたのである」。御霊が義についてこの世に有罪を宣告するのは、「わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである」(ヨハ一六・一〇)と主は語られたが、これがこの主の御言葉の意味である。

サタンに対する裁きを御霊は明らかにされる。それは十字架による贖い主の勝利に言及することによってである(ヨハ一九・三〇)。なぜなら、まさに十字架そのものによって、この世の君は裁かれたからである(ヨハ一二・三一、コロ二・一五)。それゆえ、今や世に対して、「正当な君である別の御方に従うべきである」と要求できるようになったのである。

世は自分のことを正しいと思っているが、このように御霊の証しにより有罪を宣告されるのである。世によって十字架に付けられた御方は聖なる義なる方であることが証明された。そして、ゴルゴタの殺害を煽動したサタンはすでに征服されて裁かれたことが明らかにされた。主御自身が語られたように、これが世に対する御霊の三重の証しである。この証しをなすにあたって、御霊は御自身を御言葉に結びつけられる(一コリ二・二〜四)。御霊は証し人たちの口に御言葉を与える(マタ一〇・二〇、使一・八)。そして、この語られて書き記された言葉に効力と命を与え(一テサ一・五、ヘブ四・一二)、救いに至らせるのである。

(2)命を与える。御霊は勝ち取った者たちを造り変える。御霊は魂を勝ち取るだけでなく、魂を新しくされる(テト三・五)。「生かすのは霊である」(ヨハ六・六三、二コリ三・六、ガラ五・二五)。御霊は捕らわれ人を解放し(二コリ三・一七、ロマ八・二)、奴隷たちを子とされる(ロマ八・一四、ガラ四・六)。彼らは何か新しいものを受けるだけでなく、自分たちの性質のまさに本質を再創造されることによって、何か新しい者となる(二コリ五・一七)。彼らは「御霊にある」人々(ロマ八・九)、イエス・キリストの霊にある人々である(ロマ八・九)。それゆえ、「キリストにある」人々である。彼らは肢体としてキリストに結合されたのである。

旧約聖書には聖霊の教育的活動(詩五一・一一)があるだけであり、奉仕のための備えがあるだけである。聖霊は預言の能力(一サム一〇・六、一ペテ一・一一、二ペテ一・二一)、戦う能力(士六・三四、一四・一九)、そしてあらゆる種類の手作業の能力(出二八・三、三一・三〜五)を与えた。ペンテコステの意義は次の点にある。すなわち、聖霊のこの教育的な、賜物を附与する活動の上に、さらに有機的なものが加わったのである。そしてその時から、聖霊は神の霊として働いておられるだけでなく、特に御子の霊としても働いておられる。ペンテコステ以前に御霊が「まだなかった」(ヨハ七・三九)というのは、この意味である。それゆえ、旧約聖書でも、依然として来たるべき方として預言されていたのである(ヨエ二・二八、二九、エゼ三六・二七、ゼカ一二・一〇)。この理由により、エペソ一・一三では「約束の聖霊」、すなわち、約束された聖霊と述べられている。

このように、ペンテコステの正当の意義はこうである。すなわち、天から降った御子の霊が(ガラ四・六)、贖われた人々を贖い主に結合し、彼らを肢体として合併して(一コリ一二・一三)、キリストの犠牲の豊かな実を信者が個人的に自分のものにできるようにしたのである。

したがって、「キリストに在って」という句(パウロは百六十四回用いている)は「御霊に在って」という句(十九回)に対応しており、しかも同じ恩恵を示している。例えば、

キリストに在る義認(ガラ二・一七)と
 御霊に在る義認(一コリ六・一一)
キリストに在る平安(ピリ四・七)と
 御霊に在る平安(ロマ一四・一七)
キリストに在る聖別(一コリ一・二)と
 御霊に在る聖別(ロマ一五・一六)
キリストに在って証印を押されること(エペ一・一三)と
 御霊に在って証印を押されること(エペ四・三〇)
キリストの内住(ガラ二・二〇)と
 御霊の内住(ロマ八・九)

このように、この関係はまず神の側から、キリストの受肉と復活に基づいて築かれた(つまり、この関係はキリストが人であり続けることに基づく)が、今や、聖霊の傾注により、人の側でも経験済みの現実になったのである。「主は御霊である」(二コリ三・一七、一コリ一五・四五)。そして、主に結合される者は主と一つ霊である(一コリ六・一七)。このような者は主のからだの一肢体であり、それゆえ、主の御業にあずかる者である。こうしてペンテコステは完全な救いの時期の始まりとなり、「最後のアダムであるイエス・キリストの遺言と契約の幕開けの日」となったのである。

しかし、彼らはみなにある肢体である以上、相互的にも一つのからだであり、互いに肢体である(ロマ一二・五)。御霊から生まれることにより、彼らは神の王国の子たちとなった(ヨハ三・三、五、マタ一三・三八)。そして、「みな一つ御霊の中にバプテスマされて、一つからだとされた」(一コリ一二・一三)のである。これが意味するのは、ペンテコステは教会の誕生日であり、まったく新約聖書的意味で神の王国が始まった日である、ということである。このときから、最初のアダムに結ばれている体と同時に(一コリ一五・二二)、最後のアダムの有機体が存在する。失われた人々と同時に、救われた人々が存在する。イスラエルや諸国民と同時に、教会、神の「民」、「新しい人」(エペ二・一五)、「キリスト」(一コリ一二・一二、一・一三)が存在する。これはすなわち奥義的キリストであり、そのかしらは栄光を受けた個人としてのキリストである。

そして教会の中で、神の御霊は聖潔の霊として

(3)教育の働きを行う。御霊は肢体たちにかしらの栄光を表す。それは彼らにかしらの栄光を示すことによってである(ヨハ一六・一四)。

御霊は贖われた者を義の道に導き(ロマ八・一四、ガラ五・二五)、聖化する(一ペテ一・二、二テサ二・一三)。
御霊は弁護者(ギリシャ語 parakletos)として彼らを慰め(ヨハ一四・一六〜一八)、御霊の証しを彼らに与える(ロマ八・一六)。
御霊は彼らが不忠実な時には罪を自覚させ、悔い改めに導く(二コリ二・五〜一一)。
御霊は彼らにイエスの御言葉を教え(ヨハ一四・二六)、すべての真理に導く(ヨハ一六・一三、一ヨハ二・二〇)。

(4)奉仕のために装備する。次に、御霊は彼らをご自分の道具として整えて用いる。御霊は彼らに賜物を定め、ご自分の御旨にしたがって賜物を分配する(一コリ一二・四〜一一)。

御霊は、教会及びその集会における、彼らの役割を定める(使一三・四、一六・六、七、二〇・二八、一コリ一二・二八〜三〇)。
御霊は彼らの祈りを活気づけ(ユダ二〇、エペ六・一八)、その祈りに権威を与える(ロマ八・二六)。
御霊は彼らの証しを導き(マタ一〇・二〇、一ペテ一・一二)、その証しに神の力を満たす(一コリ二・四、ロマ一五・一九、一テサ一・五、使四・三一、七・五五〜五七、一三・九)。そして彼らが非難されるとき、御霊は彼らの上に栄光の霊としてとどまる(一ペテ四・一四)。

これらすべてにおいて、御霊は「上からの力」である(ルカ二四・四九、使一・八)。すなわち、

1.木として、実を結ぶ(ガラ五・二二)、
2.油として、油塗り、輝く(使一〇・三八)、
3.火として、燃えさかる(使二・三、四、二テモ一・六)、
4.水として、清める(エゼ三六・二五、二六)、
5.前の雨として、新鮮にする(ヨエ二・二三、二八)、
6.静かな、やさしい囁きとして(ゼカ四・六、一列一九・一二、一三)、
7.激しい風として、神秘的ではあるが力強い(使二・二、ヨハ三・八)。
「聖霊の傾注」という表現は、この絵図に由来し、ヨエル二・二八に基づく。ヨエルの時代、イスラエルの民は外面的には干からび、内面的には不毛であったが、それと霊的に好対照を成す(ヨエ一・一〇〜一二、一七〜二〇、なお二・二三参照。使二・一六、一七)。

(5)変容させる。未来について述べると、御霊はわれわれの解放の保証であり、われわれの救いの「証印」であり(エペ一・一三、四・三〇、二コリ一・二二)、われわれの嗣業の保証であり(エペ一・一四、二コリ五・五)、来たるべき輝かしい遺産の利子であり、来たるべき永遠の収穫の初穂である(ロマ八・二三)。そして、われわれの体は御霊の宮であるがゆえに、神はそれを荒れ果てたままにはされない。「もし、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたたちの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの内に宿っている御霊によって、あなたたちの死ぬべきからだをも、生かしてくださいます」(ロマ八・一一)。

このように、ペンテコステの意義は永遠にまで達する。御霊によって、われわれは子である(ロマ八・一四、ガラ四・六、七)。子として、われわれは相続人である(ロマ八・一四、一七、ガラ四・七)。そして、相続人として、われわれはキリストの来たるべき栄光にあずかる者なのである(ロマ八・一七)。