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「十字架のキリストの勝利」

The Triumph of the Crucified

第二部 長子たちの教会

第二課 教会の地位

第一章 神の恵みの経綸

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



教会の高貴な地位について述べることにする。「栄光と徳とにより」召された教会には、極めて大きな約束がある(二ペテ一・三〜四)。この今の時代に、キリストの測り知れない富が知らされるのである(エペソ三・八)。

教会の天的祝福にはあまりにも多くの面があるので、たった一つの描写では表現できない。それゆえ、神の御霊は極めて多彩な絵図や比較を用いて、プリズムのように、その永遠の光の輝きを別々の光線に分ける。

教会は、神の本質の三つのパースン、御父、御子、御霊と関係がある。神との関係においては、教会は「家族」である。神は「父」であり(ロマ八・一五、ガラ四・六、ヨハ二〇・一七)、贖われた者たちは神の家族の構成員である(エペ二・一九、ガラ六・一〇)。義務に関して言うと、彼らは神の奴隷であり(一ペテ二・一六)、特権に関して言うと、彼らは神の子である(ロマ八・一四)。

一.贖われた者の奴隷としての地位

神のためにイエス・キリストの血によって買い取られ、銀や金をもってではなく(一ペテ一・一八)、キリストの命という代価によって(一コリ六・二〇、七・二三)、ゴルゴタの「贖い代」によって(マタ二〇・二八、一テモ二・六)買い取られたのだから、贖われた者はもはや自分自身のものではなく(一コリ六・一九)、神の奴隷であり(ロマ六・二二)、キリストの奴隷である(ロマ一・一、エペ六・六)。彼らは永遠に彼のものであり(テト二・一四)、彼がお使いになる道具であり、彼の奴隷である。もう決して売られることのない印として、彼は御霊をもって彼らに「印を押」されたのである(エペ一・一三、四・三〇、二コリ一・二二)。彼らの贖いは同時に買い入れでもあり、彼らの解放は義務を課すものであり、彼らの奴隷としての地位は同時に、

個人的所有(一ペテ二・九)、
従順(ロマ六・一七〜一八)、
保護(ガラ六・一七、ヨハネ一〇・二八〜二九)

の条件である。

奴隷は生きている道具であり、道具は生きていない奴隷である(アリストテレス)。
アブラハム(=アムラフェル、創一四・一)と同時代のハムラビ法典まで遡ると、主人は、奴隷に焼き印を押すことによって、奴隷を決して手放さないことを宣言した。

ギリシャ語のドゥーロス(doulos)は、僕ではなく奴隷を意味する。僕は自分自身のものであり、したがって自分の賃金を受け取る。奴隷は持ち主のものであり、賃金を貰う権利はない(ルカ一七・九〜一〇)。僕は主人に労働力を売るだけであり、大抵は一時だけである。奴隷は人として永久に主人のものである。キリストの僕であるだけでなく、キリストの奴隷であることを、パウロは自分の「栄光」と見なした(一コリ九・一五〜一八)。訳すとき、この言葉をもっと正確に訳すべきである。

二.贖われた者の息子としての地位

しかし、神の救いの計画は、さらに高い。罪の束縛から解放された者たちは、滅びから贖われて御旨を行う神の奴隷であるだけでなく、神は彼らをご自身にあずかる者、ご自分の神聖な性質にあずかる者とされる(一ペテ一・四)。彼らは子供(children、ロマ八・二一)、息子(sons、ロマ八・一四)となり、まさに長子にすらなるのである(ヘブ一二・二三)。

1.子供。聖書が贖われた者たちのことを「神から生まれた者たち」と述べる時、その意味はこれに他ならない。恵みの下にある者たちを子の地位に引き上げることは、子として正式に宣言すること、法的に地位を高めて認定すること、言わば法的に養子とすることではなく、実際に産むこと(ヤコ一・一八)、実際に再び生まれること、神から有機的に生まれることである(ヨハ三・三、三・五、一ペテ一・二三、二・二、一ヨハ二・二九、三・九)。「見よ、われわれが神の子供と呼ばれるために、何という愛を御父はわれわれに示して下さったことか。われわれはそのような者なのである!」(一ヨハ三・一)。

2.息子。しかし、そのような者として、われわれは同時に成年に達した者でもある。これこそまさに旧約の時代との主な違いである。というのは、子たる身分をすでにイスラエルは持っていたからである(ロマ九・四、申一四・一)。啓示された歴史の中に示されているように、イスラエルは諸々の民の間で神の長子だった(出四・二二)。旧約聖書はすでに神の父たる身分について教えていた(申三二・六、イザ六三・一六、六四・八、マラ一・六、イザ一・二を参照、イザ三〇・一〜九)。しかし、旧約の子たる身分は創造の行為(イザ六四・八、申三二・六)と、イスラエルのエジプトからの国家的贖い(イザ六三・一六)とに基づいていた。新約の子たる身分は、各人が個人的に神から生まれて、子たる身分の霊を受けることに基づく(ガラ四・五〜六)。

それゆえまた、イスラエルは依然として「養育係」、少年たちの訓練者(ギリシャ語パイダゴゴス、paidagogos)、律法(ガラ三・二四)の下にあった。「しかし、今や信仰が現れた以上、われわれはもはや養育係の下にはいないのである」(ガラ三・二五)。イスラエル人にとって信者になることは、成年に達すること、養育係から独立すること、すなわち律法から解放されることを意味する(ガラ四・一〜五)。そして今、教会の中にユダヤ人と異邦人の区別はもはや存在しないのだから、諸国民出身の信者たちもこの同じ自由にあずかる。したがって昔と比較すると、われわれは成年に達した者であるが、他方、未来に関して言うと、われわれは依然として子とされることを待っているのである(ロマ八・二三)。しかし、われわれは子供や息子であるだけでなく、

3.長子でもある。この時代に贖われた者たちは「被造物の中で初穂のような者」(ヤコ一・一八)であり、「天に登録されている長子たちの教会」(ヘブ一二・二三)である。「長子」という言葉が御使いではなく人々を意味していることは、「天に登録されている者たち」という追加の表現からわかる(ルカ一〇・二〇、ピリ四・三を参照)。

長子として、彼らは

祭司の地位(出一三・二、一三・一五、民八・一六〜一八、一ペテ二・五)、
王の威厳(一コリ五・一〜二、黙一・六)、
嗣業の二倍の分(申二一・一五〜一七、エペ一・三)

を持つ。

父が死んだとき、例えば六人の子供がいたとすると、その財産は七つに分けられ、長子がその二つを取ったのである(英訳者注)。

こうして、息子としての彼らの地位は、長子の権により完成される。彼らは子供として神の命を持ち、息子として地位と威厳を持ち、長子として神の栄光を持つ。

このように、子供としての身分という観念と、息子としての身分という観念は、まったく同じものではないが、相補的なものである。「子供としての身分」は、奥義的、有機的、形而上学的な点を強調する。「息子としての身分」(=息子として受け入れること、子とすること)は法的宣言を強調する。息子としての身分という観念はパウロに顕著であり(ガラ三・二六、四・七、ロマ八・一四、八・一九)、子供としての身分という観念はヨハネに顕著である(一ヨハ三・一〜二、三・一〇、五・二)。パウロが新約聖書の主要な法理的著者であるように、ヨハネは奥義的―形而上学的な著者である。この二つの異なる言葉(テクナ tekna = 子供たち、ヒュイオイ huioi = 息子たち)を、はっきり分けて訳すべきである。

しかし、これらすべてをもってしても、御子(the Son)と息子たち(sons)、長子たる方(the Firstborn)と長子たち(firstborn ones)との間には、永遠に無限の隔たりがある。彼はいと高き方のひとり子であって神性の中におられるが(マコ一四・六一〜六二)、彼らは天の父の多くの息子たちであって造られた宇宙の中に在る。彼ご自身は唯一の御子(ヨハ一・一四、一・一八、三・一六)、万物の相続者(ヘブ一・二)、「万物の上におられる、永遠にほむべき神」(ロマ九・五)である。彼らは罪と不幸の中から救われた、恵みの対象である。それゆえ、主は決して「われらの父」という表現を、ご自身とご自分の民とを結び合わせる表現として使われず、ただ「わたしの父またあなたたちの父」(ヨハ二〇・一七)とだけ言われた。しかし彼は、彼らのことを「兄弟たち」と呼ぶことを恥とされない。なぜなら、聖める方と聖められつつある者たちとは、どちらもみな、ひとりの方(御父)から出ているからである(ヘブ二・一一〜一二)。教会の構成員たちが長子たちであるのは、贖われた残りの被造物との関係においてのみである。永遠及び宇宙全体に関しては、キリストが長子なのである。