キリストの再臨は、教会の「祝福された望み」である(テト二・一三)。にもかかわらず、それは天的な諸々の特権と関係しているだけでなく、聖なる諸々の義務とも関係している。携挙が心にとって清涼剤であるように、キリストの裁きの御座は良心に対する督励である。
聖書がわれわれに知ることを特に許しているこの事柄について、七つの事実がある。
1.その時――「キリストの日」(一コリ一・八)。 2.その裁き主――キリスト御自身(二テモ四・八)。 3.その当事者――「われわれ全員」(二コリ五・一〇)。 4.その厳しさ――その火(一コリ三・一三)。 5.その基準――われわれの忠実さ(一コリ四・一〜五)。 6.その結果――報いか損失(一コリ三・一四〜一五)。 7.その目標――栄光(一ペテ五・四)。
1.その時は「キリストの日、もしくは主の日」(新約聖書の中に六回現れる、一コリ一・八、五・五、二コリ一・一四、ピリ一・六、一・一〇、二・一六)、「その日」(二テモ四・八、一・一二)、「彼の来臨の時」(パルーシア parousia、二テモ四・八)である。これは、全新約聖書の証しによると、可視的な栄光の王国を設立する前の時、それゆえ、千年王国の前の時を意味する。そういうわけで、「キリストの裁きの御座」(ギリシャ語はベーマ bema)を「大きな白い御座」(ギリシャ語はスロノス thronos)と区別しなければならない。後者が設立されるのは、可視的な栄光の王国の後であり、実に、この古い宇宙全体が滅んだ後のことである(黙二〇・一一)。
しかし、キリストの裁きの御座は、千年王国開始時の裁きとも区別しなければならない(マタ二五・三一〜四六、黙二〇・四)。なぜなら、キリスト再臨後、生き残っている諸国民がそこで裁かれるからである。このように、「末の日」には時が異なる三つの裁きがある:
(a)教会、すなわち、携挙された者たちに対する裁き。「キリストの裁きの御座」で千年王国の前に。 (b)諸国民、すなわち、その時に生き残っている者たちに対する裁き。「栄光の御座」で千年王国開始時に。 (c)全般的裁き、すなわち、死者の裁き(黙二〇・一二)。「大きな白い御座」で千年王国の後に。
2.裁き主はキリスト、「正しい裁き主である主」(二テモ四・八)である。なぜなら、御父はすべての裁きを御子にお委ねになったからである(ヨハ五・二二)。したがって、千年王国の前も、それはキリストの裁きの御座であると同時に(二コリ五・一〇)、神の裁きの御座でもある(ロマ一四・一〇)。
3.その当事者は「われわれ全員」(二コリ五・一〇、ロマ一四・一〇)である。主の来臨の時、「体をすみかとして」いても、「体を離れている」にしても、贖われた者全員、その時生き残っている者も、すでに眠った者も、全員が当事者なのである(二コリ五・六〜一〇及び文脈)。確かに、御子を信じる者は罪定めの最終的裁きを免れる(ヨハ五・二四、ヘブ一〇・一四、一〇・一七)。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない」(ロマ八・一)からである。しかし、忠実であったかどうかを裁いて(一コリ四・二〜五)、報い(一コリ三・一四、コロ三・二四)か損失(一コリ三・一五、二ヨハ一・八)かを決定するには、信者に対しても特別な裁きの日(一ヨハ四・一七)が必要である。これは救いの問題ではなく、まぎれもなく恵みの報いの量に関する問題である。
4.その厳しさ。「主はご自分の民を裁かれる」(ヘブ一〇・三〇)。神ご自身の民にとっても、その日は「火のうちに現れる」(一コリ三・一三)。それで、キリストの裁きの御座に関連して、パウロは「主の恐ろしさ」(二コリ五・一〇〜一一)について述べている。「損害」と「損失」(一コリ三・一五、二ヨハ一・八)、「御前で主から恥を受けて引き下がること」1(一ヨハ二・二八)、生涯の働きが「焼けてしまうこと」(一コリ三・一三〜一五)、救われはするものの、火の中から出て来たもえさしのように、燃える建物から命からがら逃げてきた人のように救われること(一コリ三・一五。アモ四・一一と創一九・一六を参照。創一九・二九、ロト)――これらはわれわれが直面すべき可能性である。
1 正確な訳は、欽定訳の「その来臨の時に御前で恥じ入る」ではなく、改訂訳の欄外の「主から恥を受けて」である。ギリシャ語の ap'autos の中の apo は「前に」に相当する言葉ではない。この「から」の意味は、不忠実なクリスチャンが主に追放されて、永遠に失われた者として、永遠の罪定めと滅びという恥辱の中に陥る、ということではない。むしろ、この同じ節で直前に述べられている、キリスト来臨の時にクリスチャンが持つべき大胆さや確信との対比である。したがって、この「主から恥を受けること」という句が示しているのは、不忠実なクリスチャンは、主の来臨の時に、「御前で主から恥を受けて引き下がる」ということである。そのようにアルフォードは正しく訳しており、ウェストコットは「罪人が驚くように」という説明の言葉を付け加えている。ダービーは「その来臨の時、御前で主から恥を受けることがないように」と訳している。 傑出したドイツの翻訳者たちも同じ意味に訳している。例えば、 メンゲ教授は、 「恥じて主から顔をそむけざるをえなくならないように」 ダクセルの聖書は、 「恥じて主から引き下がらざるをえなくならないように」 エルバーフェルトの聖書は、 「恥と共に主から退けられることがないように」 ランゲ教授は、 「その来臨の時(日)に、恥と共に主から退けられることがないように」 と訳している。
確かに、二コリント五・一〇で、われわれは自分の良い働きの報いだけでなく、悪い働きの報いも受ける、と聖書は述べている。「われわれ」(すなわち、主の来臨の時、「体をすみかとして」いても、「体を離れている」にしても、教会の構成員全員、六〜九節)は、「皆、キリストの裁きの御座の前に現れなければならない。それは、善であれ悪であれ、自分の行いに応じて、おのおのその身によって(dia)なしたことを受けるためである」。またコロサイ人への手紙では(コロ三・二四〜二五)、来たるべき報いを受けることに関して、そして、教会の構成員の日常生活に関連して、「悪を行う者は、自分の行った悪を返される。そこには分け隔てはない」と述べられている。これを一コリント三・一五、ルカ一九・二四、一二・四五〜四八と比較せよ。それゆえ、御霊の剣の切っ先を鈍らせないようにしようではないか(ヘブ四・一二)。キリストの裁きの御座の前に現れることは、おそらく、われわれがしばしば考えるよりも、ずっと重大な問題である。「益」や「損失」について述べるだけでは、新約聖書のこのように極めて重大な言明に対して、十分正しく対応したことにはほとんどならないように思われる。
われわれの現在の理解力では、この問題をさらに詳しく理解することは不可能であるように思われる。とりわけ、ここで栄光と厳粛さとを結び合わせることがどうすれば可能なのかを理解することは、不可能であるように思われる。なぜなら、この問題は永遠の領域に属するからである。多くの点で、彼処におけるわれわれの知覚や感受性は、現在の生活条件に適した此処での知覚や感受性とは、まったくの別物であろう。
しかし、聖書はこれらのとても重大な御言葉をわれわれに与えて、実際的聖さと忠実さ、自己犠牲的な奉仕の必要性を、われわれに印象づけている。救いはまったく確かなものであり、神の御業はまったく効果的なものであるが、「恐れとおののきとをもって、自分自身の救いを成し遂げよ」(ピリ二・一二)というこの御言葉が依然としてあてはまるのである。
5.その基準は、われわれの忠実さ(一コリ四・一〜五、マタ二五・二一、二三)、われわれの人生の総計、われわれの成長の結果である。すなわち、われわれの行いだけでなく可能性も、われわれがいかなる者であるかだけでなく、いかなる者になりえたのかも、基準なのである。また、働きではなく働き人、行いの数ではなくその価値(一サム二・三)が基準なのである。達成したことだけでなく、何を求めて奮闘したのかも基準なのである。われわれの働きの中で、犠牲が最も価値がある。われわれの性質のうち、ただ無私の愛だけが価値がある。われわれの持ち物のうち、奉仕によって得たものだけが価値がある。われわれの諸々の罪に関しては、「われわれが裁いたものを、主は再び裁かれない」(一コリ一一・三一)、「われわれが明らかにしたものを、主は覆って下さる」(一ヨハ一・九、ヘブ八・一二)、「われわれが覆ったものを、主は明らかにされる」(ルカ一二・二)という言葉があてはまる。何事においても、主が最も注意されるのは、極めて内面的な要素、欲求や動機、心のはかりごと、暗闇の中に隠されている魂の秘密である(一コリ四・五、一サム一六・七、ヘブ四・一三、詩一三九・一〜二四)。
6.その結果は様々である。ご自分の民についても、主は「正しい裁き主」(二テモ四・八)である。ある者は、木、草、刈り株で建てた――その働きは燃え尽きる。他の人は、金、銀、宝石で建てた――その働きは火に耐える(一コリ三・一二〜一五)。
ある人々は忠実に仕えた――彼らは天の王国で大いなる者になる(マタ五・一九、二五・二一、ルカ一九・一七)。他の人々は自分の肉に蒔いた――彼らは自分の生涯の働きから腐敗を刈り取る(ガラ六・六〜八)。
ある人々は純粋で、欠点がなく、責められるべきところがない(ピリ一・一〇、一コリ一・八)――彼らは賞を勝ち取る(ピリ三・一四)。他の人々は(霊的に)貧しく(黙三・一七)、失格者である(一コリ九・二七)――彼らは損失を被る(一コリ三・一五、二テモ二・五)。
ある人々は裁きの日に大胆さを持つが(一ヨハ四・一七)、他の人々の分は恥である(一ヨハ二・二八)。
このように、各々は受けるべきものを受け(ヘブ六・一〇、一コリ四・五、二テモ四・八)、えこひいきはない(コロ三・二四〜二五)。救いは信仰に基づき、報いは忠実さに基づく。息子として、われわれは彼の命を受け、僕として、彼の報いを受ける。「見よ、私はすぐに来る。私の報酬は私と共にある」(黙二二・一二)。
しかし最終的に、みなが救われ、みなが輝く。ただし、その栄光や光輝の度合いは異なる(一コリ一五・四〇〜四二)。将来、大きな器も小さな器もあるだろうが、どの器も満たされる。栄光の程度や水準には色々あるだろうが(マタ二五・一四〜三〇)、幸福には違いがない(マタ二〇・一〜一六)。僕や奉仕はたくさんあっても、ただひとりの主がおられるだけである。
しかし、忠実な者には特別に冠が与えられる:
勝利の戦士には―― 義の冠が与えられ(二テモ四・八)、 たゆみない走者には―― 朽ちない冠が与えられ(一コリ九・二五〜二七)、 死に至るまで忠実な者には―― 命の冠が与えられ(黙二・一〇、ヤコ一・一二)、 無私の働き人には―― 誉れの冠が与えられ(一テサ二・一九、三〜六節と比較せよ。ピリ四・一) 群れの模範には―― 栄光の冠が与えられる(一ペテ五・三〜四)。
7.その栄光。これらすべてを通して教会は完成される。「私は大群衆の声、多くの水の音、強力な雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、われわれの神である主、全能者が統治される。われわれは喜び、大いに楽しんで、彼に栄光を帰そう。小羊の婚姻の時が来て、その妻は用意を整えたからである』。(中略)小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」(黙一九・六〜九)。
しかし、同時に大いなる日が始まった。その日、主は、高い天では天の軍勢を、地の上では地の王たちを罰せられる(イザ二四・二一)。また、その日には、力と栄光の大いなる王国を、その「小さな群れ」(ルカ一二・三二)に賜ることを、主はよしとされる。「私は諸々の王座を見た。彼らはそれに座して、裁きを行う権が彼らに与えられた」(黙二〇・四)。「いと高き方の聖徒たちが王国を受けた」(ダニ七・一八、二二)。キリストの裁きの御座で賞を受けるのにふさわしいと見なされた者たちは、世を裁く者とされる。彼らは天の永遠の王国で支配階級となる。
彼らは「一つからだ」であるから、個人が共同体に先んじて栄光を受けることはない。それはみな一つの「光の中にある聖徒たちの嗣業」であり、個人はその中の一部を持つにすぎない(コロ一・一二)。みなが共に、王の領域、王国を成しているのであり(黙一・六、五・一〇)、個人はその中の祭司であり王である。全体が個人よりも上位にある。個人が自分の場所につくのは、全体の全行程の中でである。したがって、個人が個人として完成されることはありえず、ただ完成された共同体との個人的な生き生きとした関係によってのみ完成されるのである。
こういうわけで、眠っている者たちは、将来の世代が完成されるのを待っている(ヘブ一一・四〇、黙六・一〇〜一一)。 こういうわけで、「魂」が来たるべき栄光の体を着ることは(一コリ一五・二三)1死の時にただちに起きるわけではない(黙六・九、ヘブ一二・二三)。こういうわけで、キリストにある死者の復活と、そのとき生きている者が携挙によって「上に着ること」(一テサ四・一五)とは、同時に起きる。なぜなら、全体の目標は一つの有機体だからである。個人の救いだけでなく共同体の栄化も、個人の祝福だけでなく「神の王国」(マタ六・一〇)も、目標だからである。
1 これは「主の来臨の時」に初めて起きる。変容の時にモーセとエリヤが現れたこと(マタ一七・三)、イエスの復活の時に旧約の多くの聖徒が復活したこと(マタ二七・五二・五三)は例外である。一方はイエスの個人的栄光のためであり、他方はゴルゴタにおけるその勝利の御業のためである。
そして今、神の宇宙的な普遍的国家が各地の御使いの君の統治下にあるように(ダニ一〇・一三、二〇)、その時には栄化された聖徒の群れが王として、キリストをかしらとしていただきつつ、諸々の太陽や世界を統治する(黙二二・五。ヘブ二・五を参照)。「聖徒たちがこの世を裁くようになるのを、あなたたちは知らないのか?われわれは御使いたちを裁くようになるのを、あなたたちは知らないのか?」(一コリ六・二〜三)。それゆえ、「勝利を得る者を、私は私の王座に私と共に座らせる。私が勝利を得て、私の父と共にその王座に座したのと同じである」(黙三・二一)。「主人が来るとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さいわいである。まことに、私はあなたたちに言う。主人が帯を締めて僕たちを食卓に着かせ、進み寄って給仕してくれるであろう」(ルカ一二・三七)。これは聖書最大の約束である(J.A.ベンゲル)。