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「十字架のキリストの勝利」

The Triumph of the Crucified

第三部 来たるべき神の王国

第二課 可視的なキリストの王国

第三章 世の滅びと世の裁き

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



一.世の不完全さ

そのあらゆる栄光にもかかわらず、千年王国はひとまず恐ろしい結末に至る。地上における可視的な平和の王国でさえも、完全な究極的完成ではない。罪と死が依然としてそこにあり、咎ある者は呪われるおそれがある(イザ六五・二〇)。実に、諸国民の群れ全体が国家的不従順に陥るおそれがあるのである(ゼカ一四・一七〜一八)。義がまさに地上を支配するが、義はまだ完全に宿っているわけではない。義が完全に宿るようになるのは、むしろ新しい地においてである(二ペテ三・一三、黙二一・三)。

それにもかかわらずサタンは縛られており、それによりその力は抹消されている(黙二〇・二〜三)。一方において、これは人の運命を楽なものにする。罪を犯さないようにすることがもはや困難ではなくなるからである。他方において、それにもかかわらず人が罪を犯すなら、人の責任は前よりも重くなることをこれは意味する。したがってまた、来たるべき神の王国では、裁きも厳しくなる。神はもはや以前のように罪を耐え忍ばず(マタ五・四五、一三・三〇、創八・二一、ロマ三・二五、九・二二、二ペテ三・九、三・一五)、容赦なく裁かれる。従わない諸国民は鉄の杖をもって牧され、抵抗する者たちは陶器師の器のように粉々にされ(詩二・八〜九、黙一九・一五、一二・五、二・二六〜二七)、不法の者は主の御口の息をもって主に殺される(イザ一一・四)。従順か滅びか――まさに王国開始時と同じように、これがすべての人に与えられた選択肢である。偽預言者はみな殺され(ゼカ一三・三)、礼拝しない民はみな旱魃に見舞われ(ゼカ一四・一七〜一九)、反逆する国はどれも地に打ち倒される(ミカ五・七〜八、オバ一・一八、ゼカ一二・六)。

二.世の反逆

しかし最後に、サタンは解かれなければならない。サタンが再び惑わすためである(黙二〇・三、七〜八)。「完全に熟す前に不義を断つことを、神の義は許さない」(黙一四・一五を参照。[創一五・一六])。これが神の規則であり、この規則はサタン自身の場合にも当てはまる。千年王国でさえも試されて、判定が下されなければならない。栄光の王国の諸国民にも、自分たちの自由意志で決断を下す機会が与えられなければならない。サタンの配下にある軍勢に加わる自由を、何人も妨げられることはないであろう。永遠において、いやいや主に仕える人はいないであろう。人類史のこの輝かしい期間も、罪人の生来のかたくなさを砕くことはできないことが、示されなければならない

千年間のこのあらゆる栄光と祝福の結果は、実際のところ何か?極めて広範な地域にわたる諸国民の反逆である。地の果てから彼らはエルサレムに敵対して集まる。その人々の群れは海の砂のようであり、ゴグとマゴグがその最高司令官である(黙二〇・八〜九、エゼ三八・三九、創一〇・一〜二)。

これは歴史上最後の反逆であり、諸国民の最後の宗教戦争であり、至高者に対する人の反逆の最後の必死の試みである。これにより罪は満ちる。人類は神たる方の目に見える主権さえも拒絶した。彼らは極めて尊大な忘恩的態度で、この方の最大の祝福さえもさげすみ、この方の個人的栄光を足の下に踏みにじった。

彼らは何を選んだのか?神の指導権のかわりに、サタンに誘惑されることを選んだのである。合一と平和のかわりに、謀略と反乱を選んだのである。天のキリストのかわりに、その大敵である悪魔を選んだのである。

これには一つの答しかありえない:破壊と滅亡である。しかし、その前に戦いがあり、天から火が下って彼らを焼き尽くし、彼らを欺いた悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれる。そこに獣と偽預言者もいる(黙二〇・九〜一〇)。地獄の三位一体の三者のうちで、サタンが最後に裁かれる。これにはそれ相応の内的理由がある。

世界情勢の行程全体において、次のことは事実である。すなわち、本物と偽物は最初のうちは混合しているが、世界が発展するにつれて、その本質的要素がますます明らかになっていくのである。これは、光の王国と暗闇の王国という二つの王国にも当てはまる。

こういうわけで、神たる方の啓示の歴史には、神聖な三位のパースンに対応する三つの主要な段階があることがわかる:御霊の御業の時代(教会時代)、御子が目に見える形で王として支配される時代(千年期)、なる神の永遠の王国(究極的完成の状態)である。

しかし、悪魔の自己啓示もまた、対応する三つの段階で完成する。

世の今の時代、サタンは覆いの下で働いている。光の天使を装って(二コリ一一・一四)、不法の「奥義」として(二テサ二・七)、反キリスト主義のとして働いている。かなりの部分で、自分自身の個人的存在すら否定している。しかしその後、数千年にわたって邪悪な欲望や、惑わす宗教や、嘘つきや、欺く者たちを用いて、人類を個人的にも世界史的にも滅びに投げ込んだ後、終わりの時代に、サタンはその反キリストの現れを通して、罪の人の特別な自己啓示を通して(二テサ二・三)、天のキリストに対する悪魔的対抗者を通して、人類に語りかける。しかし最終的に、この不法の者は滅んで火の池の中に投げ込まれ、サタンはその千年後に戦場に進み出て、惑わしの張本人として現れる。しかし、サタン自身も征服されて、火の池の中に投げ込まれる(黙二〇・七〜一〇)。こういうわけで、

教会時代は
神の御霊に対応しており、
悪魔は目に見えないとして活動する(一ヨハ四・三)。
メシヤ王国開始直前の期間は、
神のキリストの出現に対応しており、
悪魔は反キリストとして出現する。
完全な状態が到来する直前の期間は、
なる神の最終的勝利に対応しており、父なる神は神聖な領域全体の頭となられる。
悪魔は悪魔的領域のとして直接的に反逆する。これはサタンの最後の反逆であり、サタンこそ地獄的なあらゆるものの源である。

したがって、悪魔的三位一体の「第一の」者が最後に裁かれなければならない。悪魔的なあらゆるものの源として、サタンは最後になってはじめて、自らを完全に現すからである。御子の出現の時、反御子(反キリスト)が裁かれ、御父の出現の時、したがって神の出現の時、反神である龍が裁かれる。神聖な三位一体の第二のパースンが、悪魔的地獄の三位一体の「第二の」パースンに勝利する。神たる方の第一のパースンが、悪魔たる者の「第一の」パースンに勝利する。「なぜなら、御子に対する御父の姿勢は、反キリストに対するサタンの姿勢だからである。御父の来臨と共に、光の王国の最も深い要素が現される。それと同じように暗闇の王国においても、最も深い要素が明るみに出されて、サタン自身が裁かれなければならないのである」。

このように、ある強力な平行関係がこの宇宙全体に存在することが明らかになる。その内的な因果関係は霊的な法則であり、はっきりと認識されなければならない。この法則は、歴史的にも超歴史的にも発展を遂げて、究極的完成に至るのである。

三.世の滅び

今や、最後の裁きが始まる。宇宙の構造が炎となって燃え上がる。地球は滅びる!星は滅びる!世界は滅びる!天と地は粉砕され(ハガ二・六、ヘブ一二・二六〜二八)、煙のように消え去り、衣のように滅びる(イザ五一・六)。不信心な者はみな、燃える釜の中にあるかのように燃え上がる(マラ四・一)。地球は砕けて粉々になり(イザ二四・一九)、星々は溶け去り(イザ三四・四)、天は巻物のように巻かれる(ヘブ一・一二、詩一〇二・二六)。原子は分解する!諸々の元素は溶解する(二ペテ三・一二、三・七)!宇宙は轟音と共に砕け散る(二ペテ三・一〇)!

これが、被造物の極めて卑しい反逆に対する全能者の返答である。これが、宇宙で最も地獄的な反逆に対する、諸々の世界の主の反撃である。これが、天と地の罪の舞台全体に対する、神の義なる怒りの最終的啓示である。

しかし次に、この火の裁きの中から、新しい栄光の世界が現れる。殲滅ではなく(黙二〇・一一)変容こそが、神がこの破壊を行う最終目標である(詩一〇二・二六、ヘブ一・一二、一二・二七)。溶解ではなく新創造が、荒廃ではなく変容が、最終目標なのである。天と地が過ぎ去った結果(マタ五・一八、二四・三五)、神の統治の下で、新しい天と新しい地への移行がなされるのである(黙二一・一、二ペテ三・一三)。

四.世の裁き

「そして私は、大きな白い御座とその上に座す御方とを見た。その御顔の前から天と地は逃げ去り、あとかたもなくなった。また、死者が、大いなる者も小さな者も、御座の前に立つのを見た。諸々の書が開かれ、またもう一冊の書が開かれた。それは命の書であった。死者たちはこの諸々の書に記されていることにしたがって、自分のわざに応じて裁かれた」(黙二〇・一一〜一二)。

1.御座。この御座が大きいのは、その威光のためであり、この御座が白いのは、その聖さのためである。地は逃げ去らざるをえない。それは人々の罪と、神の御子の血を流した汚れのためである。天は逃げ去らざるをえない。それは諸霊の罪と天上にいる世の支配者たちの邪悪さのためである。天はこれらの者どもの座だったのである(エペ六・一二、二・二)。こういうわけで、天も地もこの大きな白い御座から逃げ去らざるをえない。そして、罪の舞台は消滅する。

2.裁き主はキリストである。御父はすべての裁きを御子にお委ねになったからである(ヨハ五・二二、二七)。御子は、至高者が義の中で地を裁くために定められた人である(使一七・三一)。「生きている者と死んだ者とを裁くために神が定められた裁き主」(使一〇・四二、二テモ四・八、一ペテ四・五)。この御方が御父にしたがって裁きを行われるのである(ヨハ五・三〇、八・一六)。

3.その基準は神の御言葉である。「私を蔑んで私の言葉を受け入れない者を裁くものがある。私があなたたちに話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのである」(ヨハ一二・四八)。

4.裁かれる者たちは、大いなる者と小さな者の全員である。つまり、あらゆる土地、あらゆる時代の、すべての人々である。ただし、千年王国開始時に復活した者たちは例外である。旧約の聖徒たち、栄化された教会の構成員たち、艱難期に救われた者たちは、メシヤ王国の前の第一の復活ですでによみがえらされている(黙二〇・四〜五)。そうして、キリストの裁きの御座の前にすでに立っており(二コリ五・一〇)、したがって、栄化された霊の体ですでに千年間過ごしているのである(ピリ三・二〇〜二一)。

御子の来臨の時、キリストに属している者たち、したがって、御父の息子である者たちは、よみがえらされる(一コリ一五・二三)。最後の裁きの時、御子の来臨の影響を受けなかった深層の領域が目を覚ます(黙二〇・五、一コリ一五・二四)。最後の復活がこれに続く。この復活には、神の子ではない、神と一般的な関係にある者たちがみな含まれる(黙二〇・一二)。こういうわけで、万人が復活するこの二つの主要な復活の段階は、最終的成就に向かう神の御計画の勝利の行進の二つの段階に対応している。つまり、神の可視的な王国が地上で始まる前の御子の来臨と、変容した宇宙における父なる神の永遠の王国の出現とに対応しているのである。ここでも、この事象の平行関係により、救済史の神聖な行政は、それ自身の内的法則に従うことがわかる。

5.その厳しさ。今、他の者たちはみな、神の裁きの御座の前に現れなければならない。彼らの働き、行い、考え、行動、怠りは、みな「諸々の書」に記録されている(黙二〇・一二)。彼らはすべての無益な言葉について申し開きをしなければならない(マタ一二・三六〜三七)。すべてが明らかにされ、魂の中の最も隠れたことさえも明らかにされる(ヘブ四・一三)。主は一人一人の目を見つめ、各々は主の目を見つめる。裁き主は、炎のまなざしで、個々人の最も内なる部分を直ちに見抜かれる(黙一・一四、ダニ七・九〜一〇を参照)。王なる方は、聖なる容赦なさで、彼らの生活の刹那をすべて完全に光の中に引き出される。

空しいおしゃべりどもは黙ってしまうであろう(ヨブ九・三、マタ二二・一二)。傲慢に自慢する者たちは粉砕されるであろう(ユダ一五節)。人類史における「偉人たち」や「英雄たち」全員の哀れな惨めさが明らかにされるであろう(詩二・一〜五)。

そこでは、支えはすべて崩れる。宗教はすべて崩壊する。自己の義は汚れた衣のように見なされる(イザ六四・六)。欺きはもはや不可能である。隠れ場所は一つも見つからない(詩一三九・一〜一二)。自己欺瞞はすべて失望に終わり、真理によって暴かれる。皆がかがまなければならない(ロマ一四・一一、ピリピ二・一〇)。皆が同意しなければならない(ロマ九・二〇を参照)。皆が、神は正しいことを認めなければならない。

6.その結果。皆が同じものを受けるわけではない。各自は自分の分け前を受ける。その分け前は、多くても少なくても、その人のものである(マタ二四・五一)。天の王国の知らせを拒絶した町々よりも、ソドムやゴモラの方がましである(マタ一〇・一五)。コラジンやベツサイダよりも、ツロやシドンの方がましである(マタ一一・二一〜二二)。ソドムの地の方が、イエスの町であるカペナウムよりもましである(マタ一一・二三〜二四。四・一三を参照)。シバの女王がイエスと同時代の人々を罪に定め(マタ一二・四二)、また、ニネベの人々もそうする(マタ一二・四一)。不当に「クリスチャン」と称されているすべての教師たちに、神は災難を下される(黙二二・一八)。また、一般に、敬虔を装うすべての者や、うなじのこわい者たちに向かって、神は、「お前たち、呪われた者たちよ、私から離れて、悪魔とその使いたちのために備えられている永遠の火の中に入れ」(マタ二五・四一、七・二三)と叫ばれる。

それにもかかわらず、全員が罪に定められるわけではない。大きな白い御座の前に立つ者は一人も救われないという教理は、聖書を超えている。なぜなら黙示録は、「命の書に記されている人は誰もいなかったので、彼らはみな火の池の中に投げ込まれた」とは述べておらず、「命の書に記されていない者はみな、火の池の中に投げ込まれた」(黙二〇・一五)と述べているからである。千年王国で回心した諸国民は前に裁かれたことがないので、大きな白い御座の前に現れなければならない。また、黙示録のこの記事の中で、死者は「各々の働きにしたがって」裁かれたと、さらに述べられているが、信仰自体も「働き」であることを思い出すべきである。信仰は、神がよしとされる働きであり、姿勢である。キリスト御自身、「私を遣わされた方の働きとは、あなたたちがその者を信じることである」云々と告げておられる。この御言葉は、「神の働きを行うには、何をなすべきでしょうか?」(ヨハ六・二八〜二九)という問いに対する返答であった。個々の行いには二種類ある:一つは、再生されていない人の律法の働きである。もちろん、この働きによって神の前に義とされる人は誰もいない(ロマ三・二八)。したがって、このような働きしかしなかった者たちは、火の池の中に投げ込まれる。もう一つは、再生された人の「良い」働き、信仰の働きである。この働きは、聖書によると、また、贖いと恵みにもかかわらず、義とされた人に求められている働きである(テト二・七、二・一四、三・一、八、一四、ヤコ二・二六)。

福音を聞いたことがない、千年期の前の時代の異邦人たちを、神はどのように扱われるのだろうか?聖書はこの問題を完全には取り扱っていない。ローマ二・一〜一六を考慮すべきである。神は正しく行動される、と信仰によって期待するだけで、われわれには十分である。「全地の裁き主は正しいことをなさるはずではないだろうか?」。かつてイエスは、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか?」と尋ねられた時、ごく簡単に、「狭い門を通って入るように努めよ」(ルカ一三・二三〜二四)とお答えになった。裁きが終わる時、受けるべきものを受けたことを、各自は悟るであろう。後のことは神にお任せする(ロマ一一・三四)。

7.第二の復活。ある復活が大きな白い御座と関係している。いわゆる「第二の」復活であり、千年王国の前の「第一の」復活とは異なる(黙二〇・一二。なお五節を参照)。

聖書は、失われた者の肉体的復活を明確に教えている。聖書はそれを、「不義なる者の復活」(使二四・一五)、「裁きに至る復活」(ヨハ五・二九)、「永遠の恥辱と恥に至る復活」(ダニ一二・二)と呼んでいる。これもまた、死者の中から目覚めた方であるキリストによってなされる(一コリ一五・二一〜二二、ヨハ五・二六〜二九)。また、この復活の場合、神は体をも地獄で滅ぼすことのできる方である(マタ一〇・二八)。

この復活と命に至る復活との相違は恐るべきものである。どちらの場合も、新しい体には古い体の性質や本質がある。しかし、完全に成熟した姿で、互いに正反対の方向を向いているのである。贖われた人の場合、地上の体は「聖霊の宮」(一コリ六・一九)であり、その肢体は「義の道具」(ロマ六・一三)であって、その復活の要素は神の種である。したがって、その体はよみがえらされて救いに至る。しかし、失われた人の場合、その体は罪と死の体にすぎず(ロマ六・六、七・二四を参照)、その肢体は「不義の道具」(ロマ六・一三)であって、その復活の要素は悪魔の種である。したがって、その体は今や、暗闇と呪いの体となる。

こうして、すべての「種」が成熟に達する(一コリ一五・四二〜四四)。すべての体が同時に内なる霊の実際を表す。救われた者の体が聖潔の刻印を帯びているように、失われた者の呪われた体も不敬虔の刻印を帯びており、そのせいで「恥と永遠の憎悪の的」(ダニ一二・二)になる。

それでも彼らの復活は、死の中にとどまる必要はなかったことを彼らに示す。なぜなら、彼らの復活もまた、十字架に付けられた方の肉体的復活の結果だからである(ヨハ五・二六〜二九、一コリ一五・二〇〜二二)。命の君であるキリストの復活の力を、彼らは純粋に法的な理由で、今や自分自身の体で経験する。この復活の力は、死のあらゆる形の束縛から他の人たちを解放したのとまさに同じように、彼らをも解放できたであろうに。

しかし今の場合、この種の復活は彼らに何も与えない。それは、聖書が述べているように、「もう一つの死」(黙二〇・一四、二・一一)にすぎない。地獄の前庭から地獄そのものに移ることにすぎず、中間的な場所である「苦しみ」(ルカ一六・二三、一六・二八)の場所から「永遠の火」の中に移ることにすぎない。

これらの失われた者たちの運命について、聖書は恐ろしい絵図を与えている。聖書は「艱難と苦悩」(ロマ二・九)、「咆吼と歯がみ」(マタ二二・一三、二五・三〇)、「永遠の滅び」(二テサ一・九)について述べている。「炉」、「恐怖の場所」[トペテ](マタ一三・四二、一三・五〇、詩二一・九、イザ三〇・三三)、「牢獄」、「アビス」(マタ五・二五、二ペテ二・四、[タルタロス])、「地獄」、「永遠の苦しみ」(マタ二五・四六)について述べている。「死ぬことのない蛆」(マル九・四八)、「消えない火」(マコ九・四三、四八、マタ二五・四一)、「火と硫黄の燃える池」(黙二〇・一五、一〇、一九・二〇)について述べている。聖書は言う、「生ける神の御手に陥るのは恐ろしいことである」(ヘブ一〇・三一)。「その人(例えばユダ)は生まれなかった方が良かったのである」(マタ二六・二四)。「彼らの苦しみの煙は永遠に立ち上る」(黙一四・一一、二〇・一〇)。