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「十字架のキリストの勝利」

The Triumph of the Crucified

第四部 世界の完成と天のエルサレム

第二章 新しいエルサレム

エーリッヒ・ザウアー
Erich Sauer



目標は達成された。究極的完成が訪れた。天のエルサレムが地に下る。天の首都が地の首都になり、天のエルサレム――地のエルサレムの原型である――が「新しい」エルサレムとなり、地のエルサレムを栄化したものになり、この世界における天となる。

「天の」エルサレムという呼称は、「新しい」エルサレムという呼称と区別するべきである。両方とも同じ「都」のことだし、(最終的には)住人も同じである。しかし「天の」エルサレムは、天の首都、教会の「母」、地のエルサレムの原型としての神の都のことであり、この宇宙が栄化されるまでである(ヘブ一二・二二、ガラ四・二六)。「新しい」エルサレムは、パレスチナの「古い」エルサレムと対照をなすものである。新しいエルサレムは、古いエルサレムの目標であり、それを完成させたものであり、新しい地でそれを栄化したものである(黙三・一二、二一・二)。「新しい」エルサレムとして、「天の」エルサレムは地に下る。

「荒野」からヨハネは遊女である大バビロンを見(黙一七・一〜三)、「大きな高い山」から花嫁である新しいエルサレムを見た(黙二一・九〜一〇)。「ここに来なさい。私は小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう」。聖書は三重の描写を与えている:

天から下る新しいエルサレムとして、
完成された神の都、実際的な永遠の至聖所として(黙二一・一五〜一六、二一・二二)、
栄化されたパラダイス、原初の歴史の超歴史的完成として(黙二二・一〜五)。

聖書はこの三つのうちの最初のものを壮大な絵図で描写する。聖書は、(1)その栄光、(2)その土台、(3)その碧玉の城壁、(4)その真珠の門、(5)その住人、(6)その都市生活、(7)その大きさを示す。

一.都の栄光

「栄光は聖潔のあらわれである」。聖潔が真の美しさの本質である。真理の輝きであるときだけ、美は美しくなる。

したがって、エルサレムは栄光に満ちている(詩八七・三)。したがって、エルサレムは天の金で輝く。したがって、エルサレムはいわば、陽光に照り輝く透明な水晶宮である(黙二一・一八、二一、二三〜二四)。なぜなら、エルサレムは完全な都、霊化されたパラダイス、照らされて神に満ちている「聖なる都」(黙二一・二、一〇、二七)だからである。

したがって、聖書はこの都を最も輝かしい色彩で描く。したがって、聖書は地で最も貴重なもの――金、真珠、宝石――を選び、それを預言として用いる。さらに尊い天のものの預言として、あらゆる輝きに満ちた原型の預言として、来たるべき神の都の預言として用いているのである。

したがって、聖書は金の通り、宝石の土台、真珠の門、碧玉の城壁、水晶のような命の川について告げる。贖い全体の目標は、聖なる変容だからである。すなわち、聖なる変容を遂げた人類が、聖なる変容を遂げた地の上で、神の栄光の輝きの下で暮らすようになることである。神の栄光の輝きは変容させるものなのである(黙二一・二三〜二七)。

二.都の土台

「また都の城壁には十二の土台石があり、その上には小羊の十二使徒の名があった」。そして、この土台石はあらゆる種類の宝石――碧玉、サファイア、エメラルド、めのう、かんらん石、紫水晶等――で飾られていた。

このような土台があるのはなぜか?小羊の十二使徒の名が刻印されているのはいったいなぜか?

小羊がこの天の都の土台だからである。古いエルサレムで十字架に付けられた御方こそ、新しいエルサレムで栄冠を受けている御方だからである。小羊についての使徒たちのメッセージが、天のすべての栄光をもって輝く宝石をちりばめられた土台だからである(エペ二・二〇を参照)。

新しいエルサレムを描写するにあたって、ヨハネは七回「小羊」という名を用いている(黙二一・一〜二七、二二・一〜二一)。この言葉は文字通りには「小さい小羊」である。黙示録全体にわたってそうであり、二十九回現れる。この言葉は、十字架に付けられた御方の外見上の弱さを、その勝利と対比させることによって浮かびあがらせる。ヨハネにとって小羊は:

1.土台である――小羊の十二使徒の名がその土台の上にあるからである(二一・一四)。

2.守衛である――小羊の命の書に名が書かれている者たちだけが、この都に入ることを許されるからである(二一・二七)。

3.命の泉である――命の川が神と小羊の御座から流れ出るからである。

4.である――小羊はその光であり、碧玉のように、水晶のように澄んでいるからである(二一・二三、一一、イザ六〇・一九)。

5.愛すべき方である――この都は小羊の妻であり、花婿のために飾られた花嫁として整えられているからである(二一・九、二。なお、二コリ一一・二〜三、エペ五・三一〜三二を参照)。

6.である――全能者と小羊がその宮だからである。したがって、その中に他の宮はない(二一・二二)。

7.である――神と小羊の御座がその都の中にあるからである。その僕たちは王に仕える(二二・三)。

三.碧玉の城壁

「それには大きな、高い城壁があった。(中略)また城壁を測ると、百四十四キュビト(二百五十フィート)であった。これは人間の尺度によるものであり、この尺度は御使いの尺度でもあった」(二一・一二、一七)。

1.その高さ。この城壁は大きくて高く、約二百五十フィートあり、大都市の通常の現代家屋の約四倍の高さである。この数字は象徴として解釈するのが自然である。ヨハネの時代の文明世界の状況を考えると、この象徴の意味は、この城壁を人間的努力で決して測ってはならない、ということである。人間的進歩、文明の向上、人の精神の高揚、人自身の力による自己救済では、誰も天のエルサレムに入ることはできない。この城壁はあまりにも高い。真珠の門を通って入らなければならない。しかし、真珠の門は御使いたちによって警護されている。神に贖われた者だけが入ることができる。

2.その低さ。しかし、都そのものと較べると、城壁は低い。約二百五十フィートに対して、約千五百マイルである。例えば、ある大きな町に六十五フィートの高さの家があったとすると、その周囲に十四分の一インチの柵があるようなものである。しかし、これが示しているのは、エルサレムは実に安全であるということである!どんな敵もこれを掻き乱すことはできない。どんな反対者もその平穏さを破ることはできない。完全にすべての敵を、十字架に付けられた方は征服された。「開かれた」都のように、エルサレムには住人が住む。一日中、その門は開かれている(黙二一・二五)。「救い」の城壁と「とこよの岩」の城塞との間に、贖われた者は安全に住む(イザ二六・一〜四、詩一二二・七)。主御自身が城壁であり(ゼカ二・五、詩一二五・二)、誰も主を襲うことはできない。「父は何ものにもまして偉大である」(ヨハ一〇・二九、詩四六・六、四八・一四)。

3.その建造材。「城壁は碧玉で出来ていた」。そのおかげで、栄光の光が透過することができる。新しいエルサレムは全地に光を放つ。その光をしまいこんでおかない。他の人々もそれにあずかる。神の栄光が万民のために定められている。小羊がその太陽である都(二一・二三)は、それ自体が一つの太陽となる(マタ五・一四)。

4.その貴さ。城壁のどの側面も一万二千ファーロング、すなわち千五百マイルの長さであり、すべて碧玉で出来ている。したがって、城壁は六千マイルの長さの碧玉であり、その高さはどこも二百五十フィートである。地上の宝石をすべて合わせても、これとは比較にならない。今までに知られているダイヤモンドの中で最も大きなものは、ボルネオ産で、重さ三百六十七カラット(2.5オンス)である。コヒヌール(光の山)は、何世紀も前から有名である。これは今では、イギリス国王の王冠にはめられている宝石の一つである。その重さは百六カラット(一オンス弱)である。昔、ロシアの皇帝たちの笏の頭につけてあったダイヤモンドであるオルローは、百九十五カラット(約1.5オンス)の重さである。しかしここにあるのは、全長約六千マイル、高さ二百五十フィートの、すべて宝石からなる城壁なのである!本当に、地のものはみな、天のものを前にして色を失い、無にすぎなくなる。無意味になる。事実、この世の苦しみだけでなく、その栄光もまた、われわれに啓示されようとしている栄光と比べると、まったく取るに足りない(ロマ八・一八)。したがって、主はこう仰せられる、「苦しみを受け、嵐にもてあそばれ、慰めを得ない者よ!見よ、私はアンチモニーであなたの石を据え、サファイアであなたの基を置き、ルビーであなたの尖塔を造り、ざくろ石であなたの門を造り、宝石であなたの城壁を造る」(イザ五四・一一〜一二)。

最長半径1.5インチ未満であり、最大高さは一インチにも満たない。

四.真珠の門

「また、それには十二の門があり、それらの門には十二の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。(中略)十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた」(黙二一・一二、二一)。これらの門は:

1.開かれた門である――十字架がその鍵を開けたからである(ヨハ一・五一、使七・五五、イザ二六・二、六〇・一一、詩一〇〇・四)。その真珠そのものは贖いの象徴である。真珠は、母体の真珠貝の特に強力な分泌作用によって生じる。この分泌作用は、無機物や糸状藻類(海草の繊維)や水ダニ等の侵入による、外界からの傷に対する反応である。こういうわけで、真珠は外界からの傷に対する、傷ついた命の応答である。したがって、天の真珠の門が開くのも、ゴルゴタにおける罪、すなわち、神の御子御自身を殺害するという罪に対する、致命傷を負った贖い主の命の応答なのである。

2.天の全方位に向かう門である――救いはすべての者のためだからである(黙二一・一三、イザ四五・二二。なお、四三・五〜七、エゼ四八・三〇〜三五を参照)。地の四つの方位の各々に向けて三つの門がある。神の栄光(三)が全世界(四)のために定められているからである。

3.ダイヤモンドの閃光ではなく、真珠の穏やかな輝きを放つ門である――これらの門は恵みの門だからである(黙二一・二一、マタ一一・二八〜三〇、エペ二・五、七〜八)。

4.門はそれぞれ、一つの輝かしい真珠でできている――これらの門は栄光へと導くからである(黙二一・二一、イザ六〇・一八を参照)。

5.神の民だけのための門である――門の数は十二であり(イザ三三・二四、黙二一・一三、二七)、この数は神の民の数だからである。

6.御使いたちの聖なる警護の下にある門である――主の御使いたちがこれらの門を警護しているからである(黙二一・一二、詩三四・七、イザ六二・六)。開かれた真珠の門のこれらの御使いの番人は、パラダイスの閉ざされた門のケルビムの番人(創三・二四)と、好対照をなしている。

7.イスラエルの民の名が記された門である――イエス・キリスト御自身が仰せられたように、救いはユダヤ人から来るからである(ヨハ四・二二。なお、ロマ一一・一八、ヘブ一一・一〇を参照)。アブラハムはすべての信者の父である。メシヤの門から入った者だけが、真珠の門に入ることができる。諸国民がこの天の都から益を受けるのは、新しい地で、回心・更新・栄化されたイスラエルに服することによる。ダビデの子であるイエス(マコ一〇・四七、ヨハ一〇・九)は、「私は門である。私を通って入る者はみな救われる」と仰せられる。「狭い門」(マタ七・一三〜一四)を通って入った者だけが、「広く」開かれた門を通って天の王国に入ることができる。「高価な真珠」(マタ一三・四六)を見出した者に対してのみ、天の真珠の門は開かれる。

五.都の住人

誰がこの都に住むのか?

1.神とその小羊である。「神とその小羊の御座がその中にある」(黙二二・一、三)。「見よ、神の幕屋が人々と共にある!」(二一・三)。

2.無数の御使いたちである。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に、天のエルサレムに、無数の御使いたちの祝いの集まりに来ているのである」(ヘブ一二・二二〜二三、黙二二・三)。

ギリシャ語の paneguris は、祝いの集まりを意味し、ecclesia、会衆、教会以上のものである。

3.イスラエルの贖われた者たちである。イスラエルの十二部族の名が門に記されている(黙二一・一二)。新しいエルサレムには、新契約の時代のイスラエルの「レムナント」だけでなく(ロマ一一・四〜五、黙七・三〜八)、それに先立つ旧約時代の信者たち――彼らはわれわれをほかにして全うされることはない――も住む(ヘブ一一・四〇、ガラ三・九、一四)。それはアブラハムが待ち望んだ都であり、神がその設計者であり建造者である都である(ヘブ一一・一〇)。また、この都のために、「全うされた義人たち」(ヘブ一二・二三)――すなわち、旧約の聖徒たち――は、地上で旅人また寄留者として過ごす覚悟をしていたのである(ヘブ一一・一三)。「だから神は、彼らのことを恥とせず、彼らの神と呼ばれることを恥とされなかったのである。事実、神は彼らのために一つの都を用意しておられたのである」(ヘブ一一・一六)。

4.福音を通して教会の中に召された、この世の諸国民からの者たちである。新しいエルサレムは、われわれ全員の母である(ガラ四・二六)。われわれも天のエルサレムに来ている(ヘブ一二・一一、二三)。われわれにとっても、それはわれわれが求めている都であり、将来の都である(ヘブ一三・一四)。諸国民の間から現れる勝利者たちの上にも、神のこの永遠の都の名が、ある日、記されるであろう(黙三・一二)。

六.都での生活

今や、すべての時代の贖われた者たち、預言者や使徒、殉教者や証し人、遠い者や近い者、それぞれ異なる方法で主を追い求め、各々の場所で主の真理に服した者たちが、そこにいる。今や、彼らは棕櫚を持つ者や琴を奏でる者であり(黙七・九、一五・二)、金の冠を戴き(黙四・四)、白い衣で装われ(黙七・九)、義の婚礼衣装を着せられる(黙一九・八)。彼らは今や、小羊の御座の前に立ち、その僕として彼に仕え、その聖なる者として彼を仰ぎ見、その祭司として彼を礼拝し、彼に永遠の讃美を歌う(黙二二・三〜四、マタ五・八)。彼ご自身がそこにおられる。彼は場面全体を照らす太陽であり(黙二一・二三)、宇宙の中心であり、天の天である。まことに、「主がシオンの捕らわれ人たちを贖われる時、われわれは夢見る者のようであろう。その時、われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は讃美で満たされるであろう」(詩一二六・一〜二)。その時、われわれは金の通り、宝石で飾られた土台、真珠の門、都の黄金の輝き、水晶のような命の川を見る(黙二二・一)。

その時、われわれは無数の御使いたち(ヘブ一二・二二、黙二一・一二)、そこに先だって行った聖徒たち、全うされた義人たち(ヘブ一二・二三)、小羊の血で自分の衣を洗って白くしたすべての者(黙七・一四)を見る。そこでわれわれは、麗しい王(イザ三三・一七)、屠られた小羊、ゴルゴタの勝利者を見る(黙五・五〜一〇)。

これがエルサレムである。エルサレムはまとまった都として建造されている。それは贖いの目標であり、人類が求めてきたものであり、遠くから仰ぎ見られてきたものであり、光に溢れた世界の巡礼の目的地である。それは、聖なる者のために天に蓄えられている嗣業であり(一ペテ一・四、コロ一・五、マタ五・一二)、失われたが再発見されて栄化されたパラダイスである。

贖われた者は以下の祝福を享受する:

1.神の光の中を歩む聖なる歩み。「金」は、言わば、結晶化された太陽光であり、太陽の目に見えるかたちである。「通り」は「歩み」、命の動きや活動の絵図である。「金の通り」は、したがって、太陽の明るさの中に生きる聖なる生活の歩みを意味し、永遠の光の中に生きる、神に促された霊的生活、完成の陽光の中を歩む聖なる歩みを意味する

2.調和のとれた多様性。皆が輝くが、輝き方は異なる。十二の土台は、それぞれ異なる宝石で飾られている(黙二一・一九〜二〇)。十二の真珠の門には、十二の異なる名が刻まれている(二一・一二)。完成された神の王国は、旧約と新約の多様性をことごとく栄化したものである。これは、真珠の門の上に記されているイスラエルの様々な名や、碧玉の土台の上に記されている使徒の様々な名によって示されている。神の栄化の目標は、解消することではなく、贖うことである。抹消することではなく、奉仕に着かせることである。人間性を破棄することではなく、変容させることである。聖潔は同時に顕著な個性となる。それで、「都」の絵図が使われているのである。なぜなら、「都」の理想的な意味は、区別できない人々の集団ではなく、構成員たちの交わり、調和のとれた有機体、合一における多様性であり、無数の個人の力が合わさって遙かに大きな全体的エネルギーとなることだからである。

同時に、イスラエルの十二部族の名は、贖われた者の内的命の栄光の多様性を意味する。

3.幸いな調和。それでも、あらゆる多様性にもかかわらず、素晴らしい一体性が支配する。そのため、神の都は平和の都、エルサレムとも呼ばれる。なぜなら天には、聖なる者の全うされた交わりがあるからである。アブラハム以前の時代の、あの古代東洋の皇子は、自分の住まいをウルサリム、平和の城、平和の都と呼んだが、彼はそうとは知らずに、神の支配の下にあったのである。なぜなら、それ以来、エルサレムは、ただその名のゆえに、幾世紀にもわたって、天にある平和の都の預言であり、栄化された人々の聖なる調和の中にある共同生活の預言であり続けたからである。

これは紀元前一三〇〇年頃の、カナンのエジプト人の「テル・エル・アマルナ書簡」の中に出て来る都の名前である。
ヘブル七・二に記されている、この名のメシヤ的・予型的意義を参照せよ。エルサレムの歴史は、救済史との関連で、七つの期間にわたっている。
(a)天のエルサレム:原型。
(b)古代のセム族のエルサレム:紀元前二三〇〇年〜二〇〇〇年。このセム名が示すように、エルサレムはハム族のカナン人(創一〇・六によると、カナンはハムの息子であった)がその地を占領する前に、セム人によって建設された。したがって、洪水とアブラハムの間のことである。
(c)ハム族のカナン人のエルサレム:紀元前二〇〇〇年〜一〇〇〇年。ハム族のエブス人がシオンの要塞からダビデによって追放されたことをもって終わる。二サム五・六〜九、創一〇・一六。
(d)エルサレムにおけるイスラエル人の神政:紀元前一〇〇〇年〜紀元七〇年。
(e)諸国民の支配下にあるエルサレム。紀元七〇年から千年王国まで(ルカ二一・二四)。この期間に、エルサレムは二十回以上征服された。今日も、ここかしこが九十フィートの瓦礫で覆われている。
(f)千年王国における、メシヤのエルサレム
(g)「新しい」、永遠の、天のエルサレム:新しい地にある。

われわれはそこでも再び互いに見分けがつくだろうか?間違いなくそうである!われわれはこの地上で互いに見分けがついており、きっと天では今より愚かなことはないであろう。あの富める人は、苦しみの中にあっても、以前知らなかったアブラハムのことが分かったし、同様にラザロのことも分かったではないか(ルカ一六・二三)。ペテロは変貌の山の上で、同様に一度も会ったことがないのに、モーセとエリヤのことが分かったではないか(マタ一七・三〜四)。然り。天では、われわれは象形文字の間をさまようことはきっとなく、お互いのことがわかるであろう。然り、魂の奥底まで見抜くであろう。まさに、ある意味において、初めてその人のことが分かるようになるのである。なぜなら地上では、自分の仲間のことを真に「理解した」人は、いまだかつて一人もいないからである。今、われわれが「理解」と称しているものは、体の土の覆いを通して得られるものであり、目・声・行動・顔色・容姿といった五つの門を通して得られるものである。しかしかしこでは、霊から霊へと伝わる知覚によって理解するようになるであろう。つまり、直感によってである。言い逃れや、腹の探り合いや、不透明さは、もはやなくなるであろう。すべては透明な金のように全く透明であり、水晶のように透明な人格の間で稲妻のような知覚が交わされるであろう。

先だって行ったすべての聖徒たちとの交わりを深めることは、何という喜びであろう。アブラハムやモーセ、エリヤやイザヤ、ヨハネやペテロ、アウグスチヌスやルターと交わるのである。神の王国の年代記に載っている大小すべての人と交わるのである。すべての知り合い、われわれが愛した人たちや、われわれを愛してくれた人たちと交わるのである。その名が天に記されているすべての人々と交わるのである(ピリ四・三、ルカ一〇・二〇)。然り、彼ら全員とまみえて、声を一つに合わせて贖い主を讃美することは、何と大きな喜びであろう!

「それでも、各自は自分の大切な琴を持ち寄って、
 自分自身の特別な歌を歌う。」

そして、すべての中心は主御自身となる。

4.聖なる礼拝。ここには特に、天の聖徒たちの栄光を構成する、四つの天の光線がある:

神の威光に関しては――
 聖なる礼拝(黙七・九〜一〇、一五・二〜四)。
神の性質に関しては――
 御子のかたちへの同形化(黙二二・四、ロマ八・二九)。
神の命に関しては――
 被造物が受ける子たる身分(ロマ八・二三)。
神の王国に関しては――
 キリストと共なる支配(黙二二・五)。
[「神のひとり子」の永遠の子たる身分とは異なる、被造物が受けることのできる子たる身分のこと。]

しかし、全てに共通すること、すべての核心は、彼らが御顔を見ることである。「心の清い人々は幸いである。彼らは神を見るからである」(マタ五・八、黙二二・四、一ヨハ三・二)。「彼らの目は麗しい王を見る」(イザ三三・一七)。われわれの救い主であり解放者であるイエスを見ること、愛のしるしである傷跡を帯びた神の小羊である方を見ること――これこそ、すべてを含む幸福であり、祝福中の祝福であり、天の天である!

七.都の大きさ

「私の父の家には多くの住まいがある」(ヨハ一四・二)。天には、すべての者のための場所がある。これは新しいエルサレムの巨大な寸法によって比喩的に表現されている――長さ千五百マイル、幅千五百マイル、高さ千五百マイル、すなわち、全体で三十億立方マイルである。世界中の建物、家屋や会堂、都市や村、二十億の人が今日住んでいる所をすべて足し合わせても、三百立方マイルに満たない。このように、天のエルサレムには数十万もの世代のための場所がある。しかし、聖書の年代記によると、アダムからたった二百世代しかたっていないのである。

しかし、この数字を文字通りに受け取ってはならない。重要なのは、その途方もない巨大さと、神聖な十二という数字の象徴的意味である。霊の具体的表現を堅持する一方で、こう言わなければならない。永遠を映すこの象徴的鏡は、永遠の本質や内容と決して同じものではないのである。ヨハネ自身が証ししているように、御使いの尺度は人の尺度と同じである(黙二一・一七)。すなわち、御使いは無限のものを有限な霊に意識させるために、人の尺度や形体を用いたのである。御使いはヨハネに人間的観念の絵図を用いて語ったのである。しかし、永遠のものそれ自体は、想像を超えたものであり、われわれの認識力を超えたものであって、超地的、超この世的、まったくの「別物」である。したがって、その本質の実体は、文字によるその寸法の記述とはかけ離れているのである。その霊的な具体的表現を示す形体は比喩であるが、霊の具体的表現自体は実際のものである。したがって、この啓示は描写を与えているわけではなく、永遠のものを示唆しているにすぎない。重要なのは形体ではなく、この形体を形造っているものである。究極的なものはその意味であって、その象徴ではない。[こういうわけで、モーセによって造られた幕屋は、天にある実際の真の聖所の複製ではなく、その模型だったのである。重要なのは複製よりも原型である(出二五・四〇、ヘブ八・五)。]

したがって、不変的なものが自らを表す方法には変化がある。こういうわけでエホバの御使いは、ある時は炎として(出三・二)、ある時は声として(一サム三・二〜九)、ある時は光の形で、ある時は普通の人として(創一八・一〜八)現れるのである。一般の御使いたちも同様である(ダニ一〇・四〜六、なおヘブ一三・二を参照)。したがってまたケルビムも、ある時は四つの翼を持つ者として(エゼ一・六)、ある時は六つの翼を持つ者として(黙四・八)、ある時は四つの顔を持つ者として(エゼ一・六、一〇)、ある時は一つの顔を持つ者として(黙四・七)現れる。われわれはこれを「矛盾」と思うどころか、むしろ、次のことを示す証拠であると悟る。すなわち、預言的啓示や表現のこの形体は象徴なのである。また、天の物質は形を変えることがあるのである。つまり、霊体では霊は自由なのである。

支配的な基本的数字は十二である:十二の土台、十二の宝石、使徒たちの十二の名、十二の門、十二の御使い、門に刻まれた十二の刻印、十二の十二倍の城壁の高さ、都の四辺の長さの一万二千ファーロングというように。

しかし、なぜ至る所にまさにこの数字が現れるのか?三は神を示す数であり、四は世界を示す数である。三たす四(3+4)は、神とこの世界との間の契約を示す数であり、したがって、七は救済史を示す数である。

この宇宙の四つの「礎石」(数、時間、空間、物質)、天の四方位、一年の四季、四次元(昔の考えによると――長さ、幅、深さ、高さ:エペ三・一八)、四元素(昔の考えによると――火、水、土、空気:ナホ一・三〜六)、四大世界帝国(ダニエルの四匹の獣:神から離れたこの世の生活:ダニ七・一〜二八)、四つのケルビム(エゼキエルの四つの生き物――神に奉仕するこの世の生活:エゼ一・一〇、黙四・一〜一一)、四福音書(全世界のための救いの知らせ)。
そういうわけで、創造の七日(安息日を含む)、七つの封印、七つのラッパ、七つの怒りの鉢、七つの雷、七つの星があるのである。

三かける四(3×4)は、世界を示す数である。ただし、ここで言う世界とは、神によって実り豊かなものにされた世界、神の葡萄園であり耕作地である世界、神の種子であり収穫である世界のことである。地的なもの(四)に天的なもの(三)をかけたものは、創造主によって発達・祝福された被造物を表している。これが意味するのは、十二は神の民を示す数であり、したがって、聖徒の団体を示す数であるということである。こういうわけで、十二部族、十二人の皇子(民一・四四)、十二の星(黙一二・一)、十二の供えのパン、十二使徒、十二の王座(マタ一九・二八)があるのである。こういうわけで、天のエルサレムは数字の十二によって支配されている。そこは贖われた教会の住まいだからである。

しかし、それだけではない。黙示録がこの天の都の寸法として与えている一万二千という数字は、十二にさらに千をかけたものである。すなわち、十を三回かけた結果である(十二かける十かける十かける十)。したがって、一万二千という数字は、聖書の比喩的言い回しによると、神の民を示す数字(十二)に完成と完結を示す数字(十)をかけあわせた結果である。しかも、十を三回もかけるのである(三は神を示す数である)。これが示しているのは、天のエルサレムでは、神の民、教会は、神が定められた目標に達して、まったく栄光に満ちた完全なものになっているということである。永遠に栄化された教会になっているのである。

十は数詞の最後である。したがって、完結を示す数であり、完成された発展と進歩の終わりを示す数である。ノアはアダムから十代目であり、アブラハムはノアから十代目である。四番目の反キリストの帝国は、十の角を持つ王国で終わる(ダニ七・二四)。三と七は神を示す数であり、四と十は世界を示す数である。

また、この都は立方体として示されている。その寸法はどれも(エペ三・一八)、一万二千というこの同じ数によって支配されている(黙二一・一六)。これも同様に、完全の概念を表している。この都はどの面も釣り合っており、そのすべての部分が対称的であり、一つの調和の取れた全体であり、永遠の栄光なのである。