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「純金の燭台」

A Candlestick All of Gold

第4章 証しの器としての教会

Chapter 4 - The Church as the Vessel of the Testimony

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



前の黙想では、この証しの究極的意義と性質に専念しました。この証しは、神の御旨において主要なものであり、基本的なものですが、教会に関する限り、主はこれに向かって働いておられます――すなわち、キリストの豊満に向かって働いておられます。

さて、この問題に関する次の点に取り組むことにします。この点は、もちろん、これまでずっと見てきたものであり、述べてきたものです。しかし、この黙想で私たちがまず最初に望んだのは、キリストご自身にすべてを覆ってもらうことでした。さて、これはすでに確立されて理解してもらったので、神が選ばれた器に移ることにします。この器は主イエスの証しをその中に収めて、表現すべきものです――今のこの経綸においては、教会は主の証しの器なのです。もちろん、これはキリストの豊満と同じ道筋を辿ります。覚えておられると思いますが、キリストの豊満について述べた時、今も昔もキリストはまったく神から成っておられることを見ました。神の豊かさと霊的豊かさがキリストの中に集約されており、すべて神から成っています。次にキリストがおられる場所に関しては(聖所における燭台の場所と同じように、地と天の間です)、一方において、すべての民族が抱えているあらゆる種類の必要や、極貧の状態にある人から人々の間で最も卓越している人に至るまで、あらゆる地位や生活水準にある人々のあらゆる種類の必要が、キリストに集中しました。すべての諸国民、あらゆる階級の人々、人類が送っているこの世の生活のどの局面にある人も、キリストこそ自分たちの必要を完全に満たして下さる方であることを見いだしました。神は主イエスに心から完全に満足されました。天と地に対するキリストの豊満の普遍性を見ました。

さて、教会は主イエスと同じ道筋を辿ります。この証しの器は、彼が歩まれたのと同じ道を進みます。彼は、ご自分の教会の核をなす弟子たちに、「私に従いなさい」と言われました。しかし、弟子たちは後で理解するようになったのですが、それは彼の行かれる所に地上でついて歩く以上のことを意味したのです。それはとても深遠なことでした。「私に従いなさい」。ああ、何という内容を伴っていることか!彼の証しの器としての教会の霊的歴史は、このさらに深長な意味において、キリストに従うことなのです。キリストが地上におられた時、その生活の一つ一つの歩みや段階には霊的意義がありましたが、教会はその霊的意義にしたがってキリストに従うのです。

聖霊から生まれる

まず第一に、キリストは生まれるとき、聖霊から生まれました。イエスの証しの器も聖霊なる神から生まれなければなりません。ただし、その器はいま述べている意味の器であり、金の燭台という象徴で神が示しておられる意味の器です。この証しは人が造り出したり、一まとめにしたりできるものではありませんし、組織したり案配したりできるものでもありません。また、人々の決意によって得られるものでもありません――「主の奉仕のために何かを形成して設立しましょう」――このようなものではまったくありません。この証しは生まれるべきものであり、キリストが生まれたのと同じように生まれるべきものです――聖霊から生まれるべきものです。まさに神から出なければならないのです。もし主イエスの誕生を他の誕生と同じものと見なして、まったく超自然的で奇跡的な要素をそれから取り除くなら、天的務めに関する神の観念を台無しにしてしまいます。たとえこれに似せて何かを自分で造り上げたとしても、その中に天の炎が宿る保証はまったくありません。これは生まれなければならないのです。それを複製することはできません。もちろん、これには大きな意味があります。さしあたって、「これには口で説明できる以上のずっと大きな意味があります」としておきましょう。神のどの働きにも言えることですが、本物を複製したり殖やすことはできません。これを覚えておきましょう。本物は神からであり、人からではありません。神からのものはみな、このように生まれなければならないのです。人からではなく、肉の意志からでもなく、神からです。これは最初の一歩にすぎませんが、大いに革新的な一歩です。出て行って、「自分たちのいる所にこのようなものを造りましょう」と言ってはなりません。「自分が良いと思うものは何でも、どこにでも複製することができる」と考えてはなりません。神がそうなさらない限り、たとえそれを試みたとしても落胆するだけです。

試みを経て完成される

次に、生まれた後、この証しの器はキリストと同じように、試みの段階に置かれなければなりません――試みを経て完成されるのです。主イエスの場合、罪のための余地があったわけではありません。事実、聖書が明確に述べているように、キリストは苦難によって完成されました(ヘブル二・一〇)。「彼は子でしたが、受けた苦難によって従順を学ばれたのです」(ヘブル五・八)――これはキリストの性質の中に罪があったということではありません。これが意味するのはただ、キリストは人の水準に置かれたということ、そして私たちが通らなければならない試練を典型的な方法で通られたということです。キリストに罪はありませんでしたが、私たちの内側には罪があります。その原則は、「何が支配するのか?」ということでした。それは意志の向きに関する試みだったのです。「私の意志ではなく、あなたの意志がなされますように」。考えうるありとあらゆる手段で――地獄の極悪な悪魔的創意工夫の限りを尽くして、人の知恵よりも深い蛇の能力や狡猾さの限りを尽くして――キリストは意志の領域で攻撃を受けました。御父の意志から髪の毛一筋ほどでも逸らされるのかどうか、そのようなことがありえるのかどうか、攻撃を受けたのです。魅惑、誘い、賄賂、褒美の提供、難問、酷い攻撃、裏切り――ああ、ありとあらゆるものがキリストを誘惑するために用いられました!しかし、キリストの意志は堅く御父の意志に従い続けました。この立場に基づいて、キリストは試みられました。私たちもまったく同じ方法で試みを受けています。教会はこの試みの道を辿って完成に至らなければなりません。キリストの場合、彼が完成されたというのは、彼がこの堅固さを完成させたこと、逸れたり失ったりすることなく、この忠信さを最後まで貫かれたことをまさに意味します。

さて、神の恵みにより、内なる神の御霊の力により、神は私たちに次のことを理解するよう要求しておられます。すなわち、神に矛盾はありませんし、この領域に矛盾はないのです。神は人類に最も神聖な賜物である意志の自由を与えて下さいました――選択する自由、決定する自由を与えて下さいました。これは神の神聖な賜物です。神はこれに大いに期待しており、それを行使することを常に要求しておられます。この賜物を行使して決定や選択を行うことに将来がかかっています。神の最も神聖なこの賜物を神は重視しておられ、これにより人は道徳的に責任ある者となります。「今や私たちは主に属しているので、主が私たちのために決定を下して下さるのを待ちましょう。私たちは何も言わずに、主が何かを行って、私たちに関するこの問題全体に決着をつけて下さるのを待ちましょう」という姿勢を取るなら、それは矛盾です。神は矛盾していることになるでしょう――私たちの意志に期待を寄せておきながら、それにもかかわらず、それとは無関係に働くことになるからです。神が介入して行動される時や問題はない、と言っているのではありません。ただ、そういうことは普通ではないのです。通常、神は私たちの意志をご自分の意志に協力させようとされます。時として、これは私たち自身の意志を大いに排斥することを意味します。また時として、これは大いなる意志決定の行い――通常それは、いわゆる神の意志に関する転機の焦点です――を意味します。これは受動的なことではなく、能動的なことです。

ですから、私たちは試みの場所に置かれているのです。この器はこのような方法で完成されなければなりません。ああ、この神の真の奉仕に王道はありません。すべてを主に手渡して、主にすべてを行ってもらい、自分はその問題について何も心配したり述べたりしない――そのような安易な道はありません。そうだったらとても楽だったでしょうが、それは主の道ではありません。この罠に注意して下さい。

神の証言

試みを通して、証明されます。私は信じていますが、主イエスのバプテスマは彼が神に完全に明け渡しておられたことを表しています。それは葬りと復活を予表していました――これに続いて直ちに神の証言がありました、「これは私の愛する子、私の喜ぶ者である」。これは、彼の献身からその死に至るまでの全生涯を予表するものであり、要約するものでした。ですから、天からの神のこの証言は、次のような根拠に基づいていたのです。その根拠とは、彼は死に至るまで忠信であり、神の意志に明け渡して、自分自身の意志――つまり、神の意志とは別の意志、独立した意志、神から離れた意志――に対して完全に死んでいたということです。要は、神は完全にご自分から成っているものに注目された、ということです。人自身や、働き自体は、たとえそれが神のためだったとしても、神はそのようなものに決して注目することはありません。神が注目されるのは全く神ご自身から成っているものであり、神は最初から最後まで御子に注目して、「見よ、見つめよ、眺めよ!」と言うことができました。イエスの証しを持つようになる器は、それが個人であれ団体であれ、このようなものです――神は常にそれを求めておられます。それはその器の中で働いて、こう言えるようになるためです、「ここに私がいます。これが私の求めているものです。こちらを見なさい、あちらを見なさい、そうすれば私が見つかります」。これは物や人々やそのような水準のものに栄光を帰すことではなく、主ご自身から成っているものに注意を引くことです。主が教会を増し加えようとされる場合、こう確信できます。すなわち、主を完全には表していない、主ご自身から成っていないものを、主が建造されることはないのです。教会が聖霊に満ちていて、そのただ中でキリストが支配しておられた時、主は教会を増し加えて下さいました。「私はこれと共に進むことができ、その正しさを証明することができ、これを増し加えることができ、これを建造することができます」と言えるほど、その中に御子を含んでいるものを神が獲得されること――これが成長の秘訣であり、リバイバルの秘訣です。試みによって証明され、よしとされるのです。

主イエスは「三日目に完成」されたと述べられています(ルカ一三・三二)。主イエスは苦難を通して完成され、完成されたからこそ、栄光の中に迎え入れられたのです。完成されていないものは何であれ、栄光の中に迎え入れられたことはかつてありません。「栄光とはたんなる場所にすぎない」とは思わないで下さい。栄光は場所かもしれませんが、状態でもあるのです。栄光の状態です。栄化された状態です。イエスは試みを受けて証明された後、栄化されました。彼の証しの器である教会は、この同じ道筋で彼に従うことにより、栄化されることができます。なぜなら、そうすることによって完成されるからです。完成とはまさに、主から成っていないものがすべてなくなって、そこにあるものはみな主から成っているものになることを意味します。主の聖徒たちの間で栄化される方は主です。それは主の栄光であって、私たちの栄光ではないのです。

この世と相容れない

これはとても単純ですが、これがこの性質であることがわかります。この器、この道具、この燭台は、神から成っていないあらゆるもの、神に反するあらゆるものとは、全く相容れないものとして立たなければなりません。これはこの世とは全く相容れないことを意味します。この世という言葉は何を意味するのでしょう。聖書に述べられているこの世を二つの言葉で要約することができると思います――利得と自己の栄光です。ここでいう栄光とは神の栄光ではない栄光のことです。この世の精神は利得である、というのはそうではないでしょうか?利得というこの言葉をおいて、この世の物事を説明・解釈することがどうしてできるでしょう?獲得すること――それが縄張り、富、知識、他の何であれ――どの方面においても、目標は獲得すること、所有すること、優位に立つことであり、こうして獲得することにより自分自身の栄光に達することなのです。これはとても巧妙であり、私たち全員の内に働いています。私たちはこの世のことを思い浮かべるかもしれませんが、ある地位に着いて満足することや、高い位や影響力や権力の座や財産を得て自己満足することは、私たちの心の問題なのです。このようなことはこの世の精神であり、今やそれはまったく神に反しています。キリストはこの精神とはまったく相容れませんでした。キリストの教会、証しの器であるこの燭台は、この相反性の化身でなければなりません――この世の精神や原則とは反対のものでなければなりません。獲得するのではなく、与えなければなりません。自分自身に栄光を帰すのではなく、あらゆることでキリストに栄光を帰さなければなりません。主イエスは自分自身の栄光ではなく、自分を遣わされた方の栄光を求めました。彼は言われました、「私は自分の栄光を求めているのではありません」(ヨハネ八・五〇)。文脈によると、これは彼の周りにいる人々――宗教的指導者たちをも含みます――に対する非難の言葉でした。彼らは財産や地位等によって栄光を求めていたのです。そうです、これは精神においても原則においても、こうした事柄全般とは相容れないものなのです。

サタンの働きと相容れない

これはサタンの働きとは全く相容れません。サタンの働きを一語で要約することは可能でしょうか?可能だと思います。その一語とは自我です。聖書の中でサタンの歴史を辿ってみて下さい。過去に遡るなら、彼が神の敵になったのは自我を追い求めたからであることがわかります。サタンは自分が陥った悲劇にアダムを巻き込みましたが、それは同じ自我の精神をアダムに植え付けることによってでした。「あなたは・・・なるでしょう」(創世記三・五)。自我、自己中心性――これが生まれつき私たちの内にあります。最年少の子供の中にもこれを見ることができます――子供は注目の的になることが何と好きなことか。この精神がそこにあり、私たち全員の内にあります。人や、人々からなる団体や、その類のものが中心になっている所には、真のイエスの証しはありえません。ああ、神にとって大いに貴いものとなっていたはずのものを、サタンはどれほど台無しにしてきたことでしょう。サタンはある個人を全体の中心とし、その個人を中心にすべてがまわるようにしてしまったのです。あるいは、その事柄、その道具自身(たとえそれが何であったとしても)を大いに重んじさせて、それに注意を引くことにより、巧妙かつ狡猾なことに、主から注意を逸らしてしまったのです。人々はあまりにも簡単に事物や、働きや、道具に夢中になってしまうのです。

自我は神の働きにおいて、多くの巧妙な方法で姿を現します。神のための多くの働きが陥ってきた悲劇は、間違いなく、人々が働きの中で自分自身を誇示してきたことであり、自分のために誉れ、名声、地位、感謝、肩書きを得てきたこと、あるいは得ようとしてきたことです。こうしたものが気づかぬうちに入り込んでしまい、主イエスは人々や物事の陰に隠されてしまっています。そうであってはなりません、この器は全く神から成っていなければなりません。この証しは本質的にサタンのあらゆる働きとは相容れないものでなければなりません。

分裂の問題を再び取り上げることにしましょう。分裂、分派、争い、党派、派閥を生じさせることは、サタンの深刻な働きの一つではないでしょうか?ああ、サタンの働きには何と長い恐るべき歴史があることでしょう。サタンは神の民を分裂させて、バラバラの個人にしてしまうまで、何があっても決してやめようとしてこなかったのです。二人の人が共に霊的交わりの中にとどまることすら、サタンは可能な限り許そうとしてこなかったのです!霊的一体性のための戦いは、サタンとその霊の全軍勢に対する真の戦いです。しかし、この燭台はひとまとまりです。それは複合体ではありません。それは多くの部品を打ち叩いて一緒にし、中心の茎に組み込んだものではありませんでした。燭台は一体となるべきものであり、すべては一つの材料から鋳造されなければなりませんでした。燭台に継ぎ目はありません。「この箇所で一つの部分が終わり、別の部分が始まります。もしこれを分解するなら、ここから分解しなければなりません」と言える箇所はありません。隙間や割れ目や継ぎ目をこれに見つけることはできません。燭台は完全に一体であり、火とハンマーによって造られたのです。これはサタンの分裂の働きとは全く相容れません。分裂はサタンの働きです――これを理解しようではありませんか。イエスの証しは分裂とは相容れません。イエスの証しは神の偉大な愛の一体性です。このようなわけで、独立――私たちの独立した決定や進路や生活――はとても有害で危険で損害を与えるものではないでしょうか?

もしかすると、主イエスがご自分の友人たちを選ばれたことについて、まさにこの文脈から光を投じることができるかもしれません。「私はあなたたちを友と呼びました」(ヨハネ一五・一五)、「私があなたたちを選んだのです」(ヨハネ一五・一六)、「彼は一二人を任命された。それは彼らを自分と共にいさせるためであった」(マルコ三・一四)。「・・・・・・この世にいるご自分の者たちを愛し、最後まで愛し通された」(ヨハネ一三・一)。彼ら抜きでひとりで進んだ方が、多くの面で主にとってはよほど楽だったのではないでしょうか?この人々を選ぶことがどういうことかを完全に知っていたにもかかわらず、主はどうして熟慮の上でそうされたのでしょう?主はそうする前に祈りつつ一夜を過ごされました。それは明らかに、導きを求めてのことだけではなく、恵みを求めてのことでもあった、と言わないわけにはいきません。なぜでしょう?人間生活をバラバラにするこの悪魔の働きを滅ぼさなければならなかったからです。主はいつでも自分の弟子たちの一、二名を放棄することができました。弟子たちと手を切ることができました。しかし、主は彼らを最後まで愛し通されたのです。主が忍耐と辛抱と愛の限りを尽くされたおかげで、弟子たちは最後まで無傷のまま保たれました――ひとりの例外がありましたが、その人は実は最初から全体に不可欠な一員ではなかったのです――そこで主は言うことができました、「私は彼らをあなたの御名の中に保ちました・・・・・・彼らのうち一人も滅びることなく、ただ滅びの子だけが滅びました」(ヨハネ一七・一二)。悪魔の働きは滅ぼされました。これには、主は最後まである種の友愛を保たれたということ以上に、何か深い意味があります。これがイエスの証しです。それは悪魔の分裂の働きとは相容れないものであり、神はそのような道具、器を望んでおられます――この証しを維持するための燭台を望んでおられます。これは心を深く探る事柄です。

この証しが働きに先立たなければならない

悲しいことに、主の働きが働き人たち自身によって妨げられたり駄目にされたりすることが、実は頻繁にあるのではないでしょうか?言うのも恐ろしいことですが、そうなのです。問題は働きにあるのではなく働き人たちにあることがよくあります。一緒にやって行くこと、一緒に生活することができず、互いに相容れないせいで、一つの領域から他の領域に移らざるを得ないのです。これはどうしてでしょう?「それは彼らの内に十字架の働きがなされていないためです」と、もちろん人は言います。至極もっともなのですが、それと同等の正しさで、「それは働きが証しに先立ってしまったため、あるいは証しに取って代わってしまったためです――証しのためではなく、働きのために出て行ってしまったためです」と言えるのではないでしょうか?働き人たちが立ち止まり――話し合って祈り、こう言ったとしましょう、「ここを見て下さい。これは証しではありません。これはイエスの証しとは相容れないものです。私たちは何のためにここにいるのでしょう?はるばるこの道を進んできて、このようにあらゆる犠牲を払ってきましたが、それは働きをするためだけで、依然として主の証しに欠けているのではないでしょうか?私たちはここにいてこれを行っていますが(あるいはこれを行おうとしていますが)、私たちは主ご自身と真っ向から対立しているのではないでしょうか?」。もしこうするなら、彼らは荷物をまとめて家に帰るか、あるいは、この問題をまったく解決して、「証しは働きに先立ちます。働きは証しから発しなければならないからです。働きは証しと別のものであってはなりません。私たちは一緒にやっていくための立場を、神に栄光を帰す方法で見いださなければなりません」と言うでしょう。私たちは何のためにこの地上にクリスチャンとして存在しているのでしょう?ここにいるのは働きをするためでしょうか、それとも証しのためでしょうか?あまりにも多くの人々が主の働きに関心を寄せており、(彼らが言うには)主の証しに関心を寄せているのですが、彼らは一緒にやって行くのが極めて難しい人々なのです。このような事例に絶えず出くわすため、こう言わざるをえません、「なるほど、彼らは神の働きに大いに関心を寄せています。しかし、彼らに関する限り、彼らが証しに関心を寄せているかどうかはわかりません」。

今、この事実に大いに率直に向き合うことにしましょう。私たちは主の証しに大いに関心を寄せています。イエスの証しは全く無私であることであり、自己中心性と相容れないものであり、あらゆる形の自己や自我と相容れないものです。働きを行うことや教理を教えることではなく、ここでこのようにキリストを表現すること――これがイエスの証しです。しかし、私たちは家にいる時、短気なのではないでしょうか?家や家庭で他の人々が私たちと一緒にやっていくのは困難なのではないでしょうか?私たちは問題や軋轢や争いを起こしてばかりいるのではないでしょうか?これは悪魔の働きであって、証しではありません。クリスチャンがこの地上にいるのは証しのためです。そして、この証しを示す方法は、他の人々と上手くやっていける能力を示すことによってでなければなりません。主イエスと上手くやっていけない人々だけが自己中心的な人々でした――宗教的であろうとなかろうとそうでした。他の人々はみな、主イエスと一緒にやっていくのは素晴らしく容易であることを見いだしました。ああ、この「証し」という言葉は私たちの内に見い出される主ご自身を意味します。これ以外の意味でこの言葉を用いないようにしましょう。証しは、他の人々に与えたいと私たちが願う、真理に属する事柄ではなく、もっぱら主ご自身なのです。

ですから、主は望みのものを手に入れて、それに御手を置き、それを望みの場所に置けるようになるのが何時なのか、ご存じにちがいありません。キリスト教はそれとは別の体系になってしまいました。人は「自分は主に召されている」と思うと、「さあ、主の働きに備えなければなりません」と言って、訓練のために施設に行きます。そして訓練を終えると、「さあ、用意ができました」と言います。「用意ができた」とはどういう意味でしょう?知的に、神学的に用意ができたということでしょうか?まあ、それでどれだけ先に進めるかはわかりません。いつあなたの用意が整うのかは、主だけがご存じです。あなたは仕事に戻って、「あなたに関する限り、私は自分の望むものを得ました。今、あなたに行って欲しい場所をあなたに示すことにします」と主があなたの召しを確証して下さるのを待った方がずっといいかもしれません。あなたは主に信頼することができます。もし主がその奉仕にあなたを召しておられるのなら、たとえあなたがしばらくのあいだ仕事に戻らなくてはならなかったとしても、遅かれ早かれ、主は必ずその召しを確証して下さいます。この弟子たちは召されましたが、その後、魚釣りに戻って行きました。しかし、主は来て、彼らの召しを確証されたのです。タルソのサウロはダマスコ路で召されましたが、アンテオケに行ってそこで待ちました。そして、遂に主は来て、彼の召しを確証して言われました、「さあ、あなたの用意は整いました。今、私は自分の望むものを得ています。今、その時が来ました」。あなたはこれを恐れているのでしょうか?この問題についてあなたは主を信頼しているでしょうか?結局のところ、主が望んでおられるのは証しなのであって、ことによると、この証しはあなたなら選びそうもない分野や領域で生み出されるものかもしれないのです。「自分が出て行って全時間霊的働きを行った方が、遥かに容易かつ簡単にこの証しを担うことができます」とあなたは思うかもしれません。もしそう思っているなら、あなたは欺かれているのです。今や初心者でも未熟者でもない人の言うことを聞いて下さい。私はあなたに次のように言うことができます。霊的働きには様々な要求が伴いますし、霊的務めには様々な機会や要求が伴うので、到底応じきれないのですが、とりわけ世界で最も困難なのは、この要求に遅れを取らないようにこの証しを保つことなのです。「ここでよく失敗してしまいます」と私たちは告白しなければなりません。私たちが証しと称しているものは、私たちの務め、教え、働き、執筆記事、与えるメッセージのことではありません。そのようなものは証しではありません。もし神が良しとされるものがその背後にないなら、そんなものは何の役にも立ちません。神はたいそう苦労して、私たちの証しが私たちの務めに遅れをとらないようにして下さいます。神はモーセの道に割り込んで――モーセを召した後ですら――彼を殺そうとされました。主はモーセを任命されたのですが、それでも「道中のことであった・・・・・・主はモーセと会って、彼を殺そうとされた」(出エジプト四・二四)とあります。背後で何かが欠けていたのです。それが何だったのかはご存じでしょう。それに対応しなければならなかったのです。それはこの証しの背後にあるものです。それをいつ主が手に入れたのかは、主がご存じです。そして、主は適切な時に、適切な場所で、私たちを用いて下さいます。主は必要に応じる者をあらかじめよその場所で生み出しておかなければなりませんが、私たちがその当人でなければなりません。その必要の所在やその備えの所在は聖霊がご存じであり、この二つを巡り合わせることが聖霊の働きです。バルナバがアンテオケに行った時、そこには明らかに満たすべき必要がありました(使徒一一・二〇〜二六)。そこで、バルナバは聖霊に満たされていたので、「この必要に応じられる人を私は知っています」と言いました。そして、彼はタルソに出かけて行き、サウロをアンテオケに連れて来たのです。

あなたが家にいて、退屈な、つまらない、刺激や興味に欠ける生活を送っている時も、霊感の湧かない諸々の義務に取り囲まれて仕事をしている時も、深い試みの境遇にある時も、主はそれをご存じです。あなたがそこにいるのは、試みの下でよしと認められるためなのです。そして、主があなたのことをよしと認められる時、主は、「来なさい。あなたは私の望む者です。あなたのために別の用事があります。高く上って来なさい」と言われるでしょう。あなたの奉仕についてもこうして下さい。

主は働き以上に証しを求めておられます。すべてはこれを焦点としています。もし働きを証しの代わりにするなら、私たちは混乱するでしょう。私たちがこの地上にいるのは証しのためです。こういうわけで、主の僕たちの中で最も偉大で有用な者といえども、主は働きのゆえに生々しい懲らしめや苦難を免除することを決してお許しにならなかったのです。これは矛盾のように見えます。この働きにはこの人が必要と思われますが、この人は働けません。なぜなら、この人はこのような試みや苦難を経ることになるからです。何という矛盾でしょう!しかし、主がより関心を寄せておられるのは、多くの働きを成し遂げることよりも、この器の霊的度量なのです。

主はこれによって私たちを助けて、これを受け入れる恵みを与えて下さいます。それが容易ではないことを私は知っています。しかし、主は証しのために純金の燭台を求めておられることを、どうか理解して下さい。この燭台は装飾品や、飾り物や、それ自身に注意を引く物ではなく、主ご自身に対する証しなのです。