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「隠れたキリスト」

The Hidden Christ

4.私たちの果たすべき務め

The Task before US

クリストフ・ブルームハルト
Christoph Blumhardt



人々とあたたかい関係を築いて、その信頼を勝ち取るまで、決して説教してはならない。よそよそしくあってはならない。「ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようになりました。それは幾人かでも勝ち取るためです」(一コリント九・二〇)。そうしてはじめて、説教すべきである。しかし、それでも注意が必要である。なぜなら、人々に光を与えるのは私たちの説教ではなく、私たちの生活でなければならないからである。私たちに必要なのは、さらに多くの説教者ではなく、さらに多くの御霊だけである。

人々が神の王国の証拠を見る前に、私たちがそれについて述べたところで、どうして人々は理解できよう?今まで人々が目にしてきた「王国」といえば、たんなる偽善、暴力、抑圧にすぎない。もしあなたが別の仕方で生活して、民衆自身の水準に立って人々と会うのでなければ、人々は神について何も理解しないだろう。

これを心に留めて、国民的慣習を性急に退けてはならない。結局のところ、私たちヨーロッパのクリスチャンがクリスマス・ツリーを飾ったり、子供の墓でロウソクをともし、そこに何時間も座って、死者を偲ぶのは、慣習以外の何ものだろう?キリストにある新しい信者は、何らかの文化的慣習を差し控えて他の人々を怒らせる前に、まず神の愛によって、自分が神の子供であることを証明するべきである。

これは、もちろん、クリスチャンの慣行とは対照的である。御霊と愛に基づいて建て上げる代わりに、クリスチャンの諸教会は世間の慣習に反対することに力を費やしている。しかし、キリストの使徒たちは宮に入り、初代の多くのクリスチャンは偶像に献げられた食物を食べたのではないだろうか?御霊がすべてに浸透するときはじめて、このような慣行はやむだろう――そしてこれはもともと、慣習や習慣を少しばかり拒む党派を設立することよりも、はるかに困難なことなのである。

それゆえ、人々と肩を並べて立て。たとえ、異端者と見なされる危険を犯しても。心の正しい人々は、それでもあなたのもとに来るだろう。

今日、どうすれば非キリスト教国の間で足場を得ることができるのだろう?確かに、宣教団体が言うところの「宣教基地」を設立することによってではない。そんなことをすれば、イエスのメッセージは「外国」のもの、他所から輸入されたものであって、自国の土壌から生じたものではないと見られてしまうだろう(実は自国の土壌から生じているにもかかわらず)。たとえば、あなたの場合、人を募集しようとするなら、その結果、あなたの召しを人間的基礎の上に据えてしまうだろう。そして、中国におけるキリストの将来を脅かすだろう。

神がそう望まれるなら、どこかささやかな場所から、御霊と御言葉を送り出すことができる。あなたが一度にあらゆる場所にいる必要は確かにない。神の御思いや御旨は、一個人から波紋のように拡がることができる。また、牧師や宣教士が常に背後に控えていなくても、人々は自分自身で新たな思想や行いに到達することができる。宣教士の普通の思考法に従うなら、あなたはどこに行けばいいのか分からないだろう。その場合、諸教会、特にアメリカの諸教会が、千名の宣教士を中国に遣わして、十年以内に人々を回心させようと願うのは、正しいことになろう。しかし、そんなことはまったく馬鹿げている。それゆえ、神が用いることのできない人々の助けに頼るよう、あなたを導く諸々の活動に、巻き込まれすぎないよう注意せよ。

もう一度言う。イエスが多くの人々を癒された時にそうだったように、あなたが人々と共にある時だけ、神の御霊は働くことができる。神学に基づく抽象的な信仰は無力である。

私たち自身が神の愛と真理の体現者でなければならないし、生活の外側の環境の中に命と光をもたらすよう努めなければならない。しかし、神がこの件で勝利するのをあなたが望むなら、今日見られるより遥かに多くの神の力が必要である。人間的精神があまりにも多く活発に働いており、めいめいが「自分の助言が一番である」と主張しているのである。

敬虔な人々の心も、神の王国についてまったく理解していない。それゆえ、神の王国が活動しているのを見ることを、彼らの多くは嫌がりさえする。神の王国があなたの周りで働いているので、そのような人々はきっと怒るだろう。気にするな。ただ進み続けよ。そして、自分の行いに弁護させよ。イエスが生ける現実であって、数百万の行為を生み出しているのでないなら、彼は他のどの教師にも優るものではない。しかし、イエスは生きておられる――彼はその上に私たちが立っている岩である――そして、彼の霊から生じた諸々の行いは、世の過ちを粉砕する岩々となるだろう。

私はしばしばあなたの状況を思い巡らすし、どうすればキリストが中国の人々にもたらされるのかを思い巡らす。正面からのアプローチは不毛であるように私には思われる。私はむしろ、言わば、キリストは人々の背後から現れなければならない、と言う。私は感じているのだが、キリストを通して神が今日支配される方法は、「これはキリストからのものです」と私たちが指摘できないような方法による。最後になってはじめて、達成された善はみな、キリストとその霊によることがわかるだろう。

神は中国ですでに莫大な人々を得ておられることは確かである。あなたの任務はこの偉大な土地にとどまって、真の福音を代表することである。あなたがいるのは青島だけではない――この国全体にいるのである。なぜなら、キリストはある特定の場所におられるだけでなく、この国全体におられるからである。あなたは教会をもたらしているのではなく、福音をもたらしているのである。それゆえ、さしあたって、あなたが何をするかはあまり大事ではない――大事なのは、あなたがそこにいることである。あなたの命はキリストの中に隠されている。それゆえ、諸教会と張り合おうとしてはならない。

あなたはきっと、そこにいるヨーロッパ人とやりとりするだろう。しかし、霊においては、あなたは中国にいるのであり、その人民の群衆の中にいるのである。貧しい者は幸いである――彼らは天の王国を受け継ぐ(ルカ六・二十)。もしあなたがこのように語り、神の愛について語るなら、ドイツの兵士たちですら理解するだろう。これはきっと、教理問答書よりもずっと、彼らの興味を引くだろう。あなたの言葉は塩気のきいたものとなり、あなたの宣べ伝えは万民にとって意義あるものとなるだろう。

あなたの周りにいる人々の日常の出来事と接触を保つこと、ただこれだけを喜びとせよ。彼らと「宗教的」接触を持とうとしてはならない。彼らは最初にクリスチャンになる必要はないし――おそらく決してないだろう。何回も述べてきたように、彼らは自分をクリスチャンと称することは決してないかもしれないが、単純に神の子供と称するようになるだろう。

喜べ、あなたの無力さゆえに、扉があなたに対して開かれるのである。中国人を「啓蒙」して、あれこれ指図する人が少なければ少ないほど良い。神の御霊は、中国人自身のただ中から到来して、あなたに会わなければならない。これが起きるだろう。なぜなら、これが神の道だからである。あなたは見張り人にすぎない。人々は御霊を通してキリストを認識するようになるだろう。そして、ヨーロッパ的キリスト教ではなく、真の神聖なキリスト教が彼らのものとなるだろう。

中国への今日の宣教士たちは重大な過ちを犯している。彼らは生徒を教える教授のように振る舞っている。それと同時に、諸教会やキリスト教の諸々の協会は、実業家のように運営していて、すべてを「成功」という尺度で測っている。私たちは別のやり方をしなければならないし、誰と会うときも、その人と同等の立場で、批判せずに、会わなければならない。私たちの任務は神の愛を放射すること、模範によって教えること、人類同士としてすべての人を敬うことである。これには時間と、多くの忍耐強い祈りが必要である。しかし、救い主は、復活した御方として、扉を開いて下さるだろう。

再び言うが、静かに待て。自分のなすべきことは、すぐに明らかになるだろう。真のキリストが到来しなければならない。キリストは人生の諸問題に取り組んで下さる。真の宣教士は、イエスの御名の中に生きて、宗教的議論ではなく、命をもたらさなければならない。本物の信仰は、神によって生かされている人々に基づいて築かれるのであって、その逆ではない。

この理由により、人々について調べてはならない。彼らに対して自然体で子供のようであれ。彼らをありのまま受け入れよ。しかし、それと同時に、彼らから悪影響を受けてはならない。いかなる計略も図ってはならない。私たち人の努力や判断はみな、物事を複雑にするだけである。喜びに満ちた、思い煩いのない、一途な若者であれ。霊の中で自由であれ、神の中で自由であれ。人の意見から自由であれ。神が人々をあなたに導かれる時、それが誰であったとしても、人々と一つになれ。九十九人の義人は砂漠に残らなければならないだろう。なぜなら、救い主は一人の失われた羊を求めておられるからである。キリストは来て、肉体をまとわれた。それゆえ、この世はこれを経験するだろう。それゆえ、主人ではなく、僕となれ。

他の宣教士たちに巻き込まれてはならないし、彼らに反対して働いてもいけない。あなた自身の方法で宣べ伝え、語れ。あなたの人々が他の人の集会に出席しているかどうかを調べてはならない。誠実な人々は何が真実かを悟るものである。そして、言葉や行いを尽くした末に、人々が信頼するものはこれである。キリストの霊があなたの内に生きておられることを確かめよ。特に、過ちに導かれているクリスチャンたちの間にいる時は。そうするなら、彼らがいかなる種類の民なのかがわかるだろう。彼らは祈りに打ち込んで熱狂状態に陥る。なぜなら、彼らにとって、これが、今しているように宣教の働きを遂行する唯一の方法だからである。普通、理性的な人には常識があるので、とてもそんなことはできない。

宣べ伝えで頭が一杯の人々は、実際のところ、知識を恐れている。それゆえ、あまり早まって公に語ってはならない。さもないと、龍の中に駆け込むことになるだろう。あなたが遂には、中国人には中国人となり、未信者に神を指し示すなら、神はしかるべき時に扉を開いて下さるだろう。いま大事なのは、そこのクリスチャン団体の中にいる人々が自分たちの霊的貧しさを悟るまで、内的に持ちこたえることである。なぜなら、天の王国は貧しい者のところにのみ訪れるからである。教義に関する喧嘩を一つたりとも許してはならない――教義が会話の話題であってはならない。教会の福音ではなく、神の王国の福音を宣べ伝えよ。

キリストの福音は永遠に新しい。「主に新しい歌を歌え」。イエスは人として私たちのもとに来られる。私たちはイエスを示さなければならない。私たちがイエスと一つになるときはじめて、私たちの内に御業が始まる。それゆえ、まったき単純さをもって、中国人に対する救助者たれ。愛の力によって一つにされ、「いま生きている命は自分の命ではなく、キリストが自分の内で生きておられる命である」(ガラテヤ二・二〇)ことを意識せよ。クリスチャンを自称している者たちは、仲間のクリスチャンしか敬わない傾向がある。彼らは、人々を自分たちの団体に受け入れる前に、人々を自分たちの一員にすることを望んでいる。しかし、イエスは罪人の友であり、それ以外のことはみな天の父に任せておられるのである。

あなたは神の御前に立っており、あなたと神との間に中国人世界が横たわっている。あなたの信仰を通して、現存するあらゆる混乱のただ中で神に働いてもらうようにせよ。あなた自身は乗り切れないし、何もすることができない。しかし、牧者のいない羊の間にちゃんと立つなら、神が前進する道を拓いて下さるだろう。イエスが「収穫の働き人たち」(マタイ九・三六〜三八)について語られる時、それは宣教士ではなく、神の軍勢のことである――御使いたち、聖霊、そういった類のものである。神に対する奉仕で使徒たちが行ったのは、ただ束を受け取って、それを手渡したことだけである。

あなたは自分の使命をこのように理解しなければならない。神に心を整えられた未信者が、あなたのもとに来るだろう。忍耐と愛をもって彼らを受け入れよ。彼らは依然として、真理を悟るには長い道のりを行かなければならないだろう。なぜなら、自分が受け入れられたことを実感するときはじめて、真理を悟ることができるようになるからである。彼らが「自分は受け入れられた」と感じるようになるのは、神の御名の中で、「この人々は神に属しています。たとえまだ神について分かっていなくても、私のもとに来たのですから」とあなたが見なす時である。

懸案の関税問題にあなたが関わっているのは良いことである。このようにして、あなたは実際生活の諸問題に取り組むようになるのである。神の王国を心に懸けている人たちは、万民に対する愛と忍耐の礎を政治の中にも持ち込まなければならない。なぜなら、人々が幸福になるか不幸になるか、成長するか没落するかは、政治によって決まるからである。もし神の民が、身近な些細な事柄で、人に仕えることを受け入れないなら、どうして人々の間に宿っておられる御霊を明らかにすることができよう?

忘れてはならない。宣べ伝え自体は狂信という結果になり、世界は永遠に悪の中にとどまることを。これが理由で、神なき人々は生活上の地的諸問題を握りしめているのであり、真理と愛の子供たちは、自分が造った世界の片隅で溜め息をついているのである――彼らは本来、それらの問題に対して影響力を及ぼしてしかるべきなのに。だから、自分自身の経験から得た実際的な助言を添えて、総督に報告書を送れ。そうするなら、事は自然に運ぶだろう。

中国政府が造る新しい法律の多くはクリスチャンに反対するものだが、それはただクリスチャンたちの横柄で恥知らずな振る舞いのせいである。だから、私はあなたに警告する。反対のように見えることを何もしてはならない(一ペテロ二・一二)。もし私たちの心が外側の問題にしか向いていないなら、イエスの道を示していないのである。私たちは霊の中で、そしてこの世を超越した良心の高貴な自由の中で、勝利しなければならない。力づくで得た権利は、御霊の道を押しやってしまう。私たちは神の王国のために生きているのであって、地上の王国のために生きているのではない。

自分が経営している学校から宗教的なものをすべて排除しようとするあなたの顕著な傾向性は、あまりにも原理主義的に聞こえる。それは天に痛みを与えるのではないかと、私は恐れる。(私自身何度も述べてきたように)「福音の宣べ伝えは私たちの行いによる」と言うのは、至極もっともなことである。しかし、私たちが地上でイエスを敬うことを、福音は要求する。もし私たちが黙っているなら、イエスはどうやって敬われるだろう?孔子の知恵をことごとく上回るものがあることを中国人が悟るよう、あなたは助ける必要がある。私たちはイエス・キリストを告白するのであって、他の誰も告白しないことを、機会があるたびに、あなたは宣言して表明しなければならない。

聖書の教えをどれか一つでも与えそこなうなら、何かが足りないことがますます明らかになって行くだろう。確かに、この教えのために、適切な枠組みを造る必要がある。それは、ベールを取り除くようなものでなければならない。聖書の諸々の物語を用いて、地上で神の王国を明らかにするのである。それは、天と地の唯一の神を、特定の個々人の意識に――その人生行路がこの神の啓示に至った人々の意識に――明らかにするものでなければならない。預言者たちは神の栄光を目撃して、それを証しした。私たちは創造から始めて、次に、人類の偶像崇拝や迷信的な思想及び傾向に対する神の戦いに目を転じて、イスラエルの歴史を辿ることができる。律法から預言書までの極めて美しい純粋な御言葉を用いることができる。

次に、イエスにより、さらに親密な神の姿が示され、全能の神が万民の父となる。今や福音は告げる。あなたは偶然の産物ではなく、万物の父である神のものであると。これが愛の新しい律法の基礎である。それは罪の赦しと、万物に対する愛である。それゆえ、あなたがたまたまどんな道徳を教えていたとしても、それはイエスの生涯と結びついていなければならない。イエスの生涯は神の王国のみに焦点づけられていたのである。

歴史に対する好奇心のために聖書を用いてはならない。聖書は意義深いものであって、神と、地に対する神の御旨とを、私たちに告げる。たとえば、旧約聖書にあるイスラエル人の出エジプトの記事を例にあげよう。大事な点は、イスラエルが一つの民となることを可能ならしめた奇跡である。また、彼らの間の特定の預言者たちがどのように神を証ししたかである。この真理を裏付けるために詳細が記されている。あるいは、新約聖書のラザロの事例を例にあげよう。この箇所の中心点は、「私は復活であり、命である」というイエスの主張である。ラザロを取り巻く出来事を構成しているのは、この重大な宣言である。イエスは復活して生きておられるというこの真理こそ、述べるべき核心である。

聖書最大の真理は、神はイエスを遣わされたということであり、これは今後もそうである。イエスこそ、預言者たちが指し示した方である(一ペテロ一・一〇〜一二)。これが究極的には、あなたの働き――行いによるものであれ、言葉によるものであれ――の焦点でなければならない。イエスその方の中にあるこの神の力について、私たちは黙っていられない。この力は偉大な約束のように私たちの前に立っており、私たちの生活の中に希望をもたらす。聖書全体からイエスの重要性を探り出さなければならない。それは、この世の変わりゆく環境の中で、イエスが中心となるためであり、常に生きている決定的な御方となるためである。

最後に、あなたの任務は、宗教的方法で人々に影響を及ぼすことではない。あなたの友人たちを導いて、自分自身に打ち勝つことを学ばせることにより、その諸問題を克服させて、良い実を生み出すことである。イエスは命――神の下にある本物の命――を与えることを願っておられる。宗教的感情や意見は重要ではない。この世が必要としているのは、命の人々であって、敬虔な偽善者たちではない。

人々に何らかの宗教経験を無理強いするような宣教活動は、まさに大きな失望という結果に終わるだろう。私たちはただ自分の存在――それはできるだけ単純明快でなければならない――を通して手を差し伸べなければならない。神が人々の心を開かれるまで待て。私たちが教え込もうとすることは必ず、地に落ちて粉々になるだろう。できるだけ自分の義務を果たせ――何か偉大なことを成し遂げようとして、やりすぎてはならない――そうするなら、あなたの内面は神の御前で強くなるだろう。

何か壮大なことを行うよう、私たちは求められていない。私たちに任されている任務は、キリストの霊と神の愛という光を、必要を抱えている人の世に、静かに与えることである。どんな嵐もこの光を消すことはできない。この光を暗闇は征服できない。

中国人が抱えている必要を正確に理解すること、そして、その必要に応じる最善の方法と場所を知ることに、力を尽くせ。人々の必要や環境は異なっているが、人々の間の相互理解の原則により、国家的また宗教的な敵対心や嫉妬に終止符が打たれるだろう。今まで、神観念の異なる諸々の宗教が、分裂の源だった。しかし、互いに対する敬意をもたらす信仰が、平和の源となるだろう。これが、宗教的宣伝活動に決して携わってはならない理由である。その代わりに、すべての人を、他の人々や私たちと同じく、神の子供と見なせ。このような方法により、あなたのもとに来る学生や人々によって、真の純粋さが表されるだろう。

このような意味で、聖職者や宣教士の任務からあなたがますます退きつつあるのは、よいことである。そのような職務は神からではなく、人々から出ている。地位の名目で事を行うのは、イエスの御名の中で事を行うのとは、まったく別のことである。それゆえ、改宗活動のパン種に常に注意せよ。万民と同じ水準にとどまれ。人々の心を変えるのは、あなたの仕事ではない。あなたが日常生活の中で神の御前に正しく立ちさえするなら、神の御霊が御旨にしたがってこれを行って下さるだろう。

あなたが宗教的なものを付け加えたり、宗教的な罠をしかけてもいないのに、人々があなたからイエス、神の力なる人を感じ取るようなら、喜べ。然り、彼らはその方法を知らなくても、あなたの働きが及ぼしている影響に身を委ねているがゆえに、神の王国に入ることができる。もちろん、それはあなたの働きではなく、神の霊の働きである。

数百万の人々が溜め息をついている。キリストは彼らのところに来て、天の王国をもたらされるだろう。私たちは、自分の目標はこの世界を自分たちの手ではなく神の御手にもたらすことであることを完全に覚えつつ、神の時を待たなければならない。キリスト以外の何者も、この世界に対する権利を持っておらず、父なる神の栄誉を受ける権利を持っていない。