クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルトは、クリスチャンたちにとって厄介者であり、クリスチャンでない者たちにとってもそうだった。ドイツのバド・ボールでルター派の牧師をしていたが、教会でも俗世間でも落ち着いてはいなかった。彼の見解はすべての人を挑発して動揺させるように思われた。それでも、神の歴史に対する、ある奇妙な伝染性の確信を、彼は持っていた。
リチャード・ウィルヘルムは、ブルームハルトの燃えるような確信の影響を大いに受けた多くの人々の一人であった。神の王国は――今ここで現実に――至る所で優位に立たなければならない、という確信の影響を受けたのである。中国で宣教士になるという困難な道をウィルヘルムが歩み始めた時、彼はすでにブルームハルトと親密な関係になっていた。ボールで副牧師として短い期間奉仕している間、ウィルヘルムはこの御霊に満たされた信仰の人に深く感動し、そのとりこになった。そして、ブルームハルトの娘のサロメと結婚した。それゆえ、ウィルヘルムと自分の娘が中国に遣わされたことは、ブルームハルトにとって特別に意義深いことだった。彼にとって、二人は何よりもまず神の王国の使者だったのである――これは宣教士の通常の目的よりも遥かに偉大な目的である。
一八九九年五月、(極東)総合福音プロテスタント宣教協会は、中国黄海の膠州湾の地域にウィルヘルムを任命した。欧州の圧力の下、中国はこの地域を九九年間ドイツの租借地とすることを余儀なくされた。(植民都市として急速に栄えつつあった)青島の宣教団牧師として、ウィルヘルムに三つの任務が課せられた。牧師たること、キリスト教を中国人に広めること、中国とドイツの相互理解を深めることである。
しかし、ブルームハルトの影響のおかげで、ウィルヘルムは以前自分が所属していた宣教協会を、神の王国のより高度な目的に仕える外面的道具にすぎないと見なした。伝統的使命にも、ドイツを代表することにも、彼は関心がなかった。彼は全く新しい何かを欲していたのである。
かたやブルームハルトの方は、明らかに自分の影響を受けている義理の息子の働きに対して、特別な責任を感じていた。これが動機となって、一八九八年から一九一四年にかけて、ブルームハルトはウィルヘルムに多くの手紙を書いた――全部で一二三通の手紙を書いたのである。以下のページは、これらの手紙からの抜粋を主題別に並べたものである。ブルームハルトの言葉は、心からの温かさに満ちており、父親の気遣いがありありと伺われるだけでなく、真のクリスチャンの証し人に味方するときの声でもある。
万物の主である生けるキリストを信じるブルームハルトの揺るぎない信仰が、これらの手紙に一貫している縦糸である。ブルームハルトが見たように、イエスは全世界をご自分のものとして要求しておられ、これはキリスト教世界に限ったことではない。キリストから切り離されている人は誰もいない――「教会に属していない人」や「異教徒」もキリストから切り離されてはおらず、抑圧されている人はなおさらである。それどころか、正義を求める一般人の願望や決意、クリスチャンでない人々の洞察や望みは、神ご自身の御旨に由来するのである。
それでは、ウィルヘルムの中国での任務はどうなのだろう?その任務はこの世界に、特にクリスチャンではない人々の世界に、「キリスト教の福音ではなく、イエス・キリストの福音」をもたらすことである。
以下のページを読めば、読者はこの二つの福音の違いがもっとはっきりとわかるだろう。「キリスト教の福音」はキリストの使信とはほとんど関係ないか、あるいは全く関係ない、と言えば十分である。イエスが来られたのは、教理や祭儀によって特徴付けられた数々の教会を設立するためではなく、国々を覆って平和と社会正義に導く御霊の活動を引き起こすためだったのである。ブルームハルトにとって、「イエス・キリストの福音」はキリスト教、仏教、他のいかなる宗教とも無関係である。「もはや宗教同士が敵対しあう時ではなく、正義が罪に、命が死に立ち向かう時である」。
クリスチャンの証し人に関するブルームハルトの理解は、典型的な宣教協会が掲げている使命の目の前を過ぎていった。新たな道を探さなければならなかった。本書に記されている思想は、新たな道を求めるこの探求が直接形になったものである。
彼の言葉は上品さに欠ける。ブルームハルトは明らかに心の情熱にしたがって書いており、言葉遣いや思想の上手なまとめ方をほとんど気にせず書き殴っている。神学的にも、問題視されうる点が多々ある。しかし、「自分の思想は理路整然としている」と、ブルームハルトは決して主張したことはない。事実、多くの中心的主張の間には明確な内的関連がないように思われる。それどころか、顕著な矛盾があるようにさえ思われる。特に、制度的教会、キリストの教会、クリスチャンやそうでない人、言葉による証し、行いによる証しに関する問題ではそうである。
それにもかかわらず、この世の潮流の中で自分の立場に立つことの意味を知っている読者なら、でっちあげの真理や、人為的な思想を見いだすことはないだろう。ブルームハルトにとって、それは信仰によって何かを敢行する問題であり、神の王国を前進させる新しい道を実験する問題、それを見いだす問題だったのである。彼の関心事は、キリストの福音を国々や人々に真にもたらすこと、扉を閉ざす代わりに開けることだったのである。
地上に向かうブルームハルトのメッセージに影響されて、リチャード・ウィルヘルムは中国人の生活水準を向上させることに努力を集中した。これには学校を設立することや、病院を発展させることが含まれていた。宣教協会との摩擦は避けられなかった。仲間たちとは異なり、クリスチャンではない人たちの間に「キリスト教宗教」を広めることに、ウィルヘルムはまったく関心がなかった。ブルームハルトのように、彼は他の諸宗教の気高さを偏見を持たずに見た。神の働きに対する恭しさをもって見ることさえしたのである。
確かにこれは、イエスの真理を多くの宗教的真理の一つにしてしまって、混合主義に至る紛れもない処方箋であるように聞こえる。しかし、彼の手紙から明らかにわかるように、ブルームハルトは王国――神の現れ――の福音を、すべての宗教を成就する真理として強調しているのである。
神の新創造が「表面下で、静かに、隠れた方法で」前進していることを、ブルームハルトは信じた。世界の歴史の嵐や圧迫のただ中でも、この秘められた前進のしるしが常にわかると、彼は信じた。ますます多様性を増しつつある世界にあって、この本のページに含まれている洞察は、私たちを助けて、今日目にする諸々のしるしを見ることができるようにしてくれるだろう――ただしそれには、すすんで自分たちの従来の観念を疑い、視野を広げることが必要である。
編者
二〇〇三年
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