この世で、あなたたちは困難に遭うでしょう。しかし、勇気を出しなさい。私はこの世に打ち勝ったのです。(ヨハネ一六・三三)
私たちが抱いている最も強く、最も自然な願望は、苦難や病からできるだけ速やかに解放されたい、という願望である。「この苦しみを取り除いて下さい。幸福な日々を与えて下さい。再び万事順調になりますように!」と、祈ってばかりいることに私たちは気づく。しかし、神は幸福な日々ばかり与えることはできない。この世で私たちは困難に遭う。また、次の事はさらに重要である。すなわち、イエスが必要としている人々は、この世の不幸を担う助けとなる人々、苦しみや苦難から退かない人々なのである。
救い主ご自身が、神とその栄光のために、ご自分の十字架を負って、この道を導いて下さる。イエスがこの世の諸々の罪――私たちの諸々の罪――を清らかな身に負って、ご自身の身によって、私たちはみなどれほど惨めで神に見捨てられた者になってしまったのか、そして、私たちはどれほど死と滅びに翻弄されているのかを、公に示される時、神は栄光をお受けになる。こういうわけで、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」(マタイ二七・四六)と叫ぶことを、救い主は嫌がらない。この反逆的な世は神から見捨てられているが、イエスとは違って、この世は自分の道を進んでいる――これは私たちにとって最大の悲しみとならなければならない。
このために私たちは悩んでいるだろうか?私たちの中の誰が、神に向かって溜め息をついているだろう?私たちが行った害悪、神とその御旨に対して行い続けている害悪によって、誰が痛みを感じているだろう?たしかに、私たちは溜め息をつきつつ祈っている。しかし、ほとんどの場合、自分自身や自分の必要のためだけに、溜め息をついて祈っているのではないだろうか?私たちは神のことをほとんど思っていない。しかし、私たちはこれによって痛みを覚えるべきである。私たちの唯一の望みは、救い主がそうされたように、神に誉れを帰すこと、苦難の中でそうすることでなければならない。これが可能になる唯一の道は、救い主の苦難と死に浸ること、そして、救い主のように、この世の罪や欠乏を自分の内に感じることである。
この世のために嘆き悲しんで、自分を神の御手の中に置く時、私たちは真に信仰の中で行動できるようになる。このような信仰は実を結ぶ。まず自分のために実を結ぶのではなく、神とその王国のために実を結ぶのである。そして、神は偉大な数々の奇跡を行えるようになる。そして、しかるべき時に、私たちもまた、自分が獲得したものを目にするのである。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト
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