あなたたちが罪の奴隷だった時、あなたたちは義の支配から自由でした。
当時、今では恥じている諸々のものから、あなたたちはいかなる益を刈り取ったのでしょう?それらのものの結末は死です!(中略)なぜなら、罪の報酬は死ですが、神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命だからです。(ローマ六・二〇〜二一、二三)
死の問題は、単なる病んだ器官の問題ではない。人の技量はここかしこで役に立ち、最善を尽くすことが私たちの任務である。自分の植物が枯れないように手を尽くす園丁と同じである。しかし、その先を考えない人々は病や死を理解しない。病は死の働きの一部であり、死は究極的には罪の結果なのである。
いかなる種類の滅びも無秩序である。命には属さない。病は自然なものではなく、まったく無益である。過酷なものであり、命の正反対である。分析して得られる最終的結論は、死は刑罰であり、懲罰的力である、ということである。死は敵である――実に、最後の敵なのである!
こういうわけで、死の軍勢に対して戦うよう、イエスは教会を召しておられる。介護院や病院がクリスチャン社会に由来するのも不思議ではない。病気で死にかけている人々を、私たちはあえて諦めようとはしない。私がかつて会ったある医者は、医学の助けを大いに喜んでいた。これに私も喜んだ。なぜならこれは、人間の尊厳や命を育む使命に寄与するものだからである。「自分の生活の出来事を心配してはなりません」とはイエスは言われなかった。イエスは、「私は復活であり、命です」と言っておられる。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きます」(ヨハネ一一・二五)。
それゆえ、生きて、死の霊に抵抗せよ。どれほど苦しまなくてはならなくても、勇気を出せ。死に抵抗せよ。生きることが、あなたの人としての使命である!私たちの人生に対する裁きは、今やキリストを通して取り除かれている。キリストを通して、永続する命が私たちに流れ込むことができる。そして、私たちは自分の堕落した存在に打ち勝つことができる。死によって呪われたこの束の間の生活が圧政を演じる必要はもはやないのである。
地上に存在している間、私たち憐れな人間は死の土地を旅しなければならない。私たちは四方八方から死の毒を吹きかけられる。しかし、イエスが望んでおられるのは、私たちを安全に導いて、死の領域、すぐに恐怖を覚えかねない道をすべてくぐり抜けさせることである。特に、無理解な者たちによって、私たちが中傷され、迫害されている時に、そうすることである。親愛なる友よ、真の戦士になろうではないか。イエスが何かを――誤解されるおそれなく――委ねられる戦士になろうではないか。キリストは最初であり最後である。死んで命によみがえった方である。親愛なる友よ、これにすがれ。救い主は死んで命に復活されたが、あなたもそうなるのである!
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト
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