しかし、まことにまことにあなたたちに言う。私が去って行くのは、あなたたちにとって益なのです。もし私が去って行かないなら、あなたちのところに助け主は来ません。(ヨハネ一六・七)
イエスは去って行って、天の御父のもとに行かなければならなかった。信頼してすべてを放棄してご自分に従ってきた弟子たちから離れなければならなかった。彼は去って行かなければならなかった。そうでなければ、真の助け主である聖霊を弟子たちに送ることはできなかったのである。これについて少し考えてみるなら、弟子たちにとって、イエスとの個人的関係を深めることよりも、「助け主」を受けることの方が重要だったことがわかる。神の御心通りの者になるには、弟子たちは主なしでやっていかなければならなかったのである。
これは私たちにも同じようにあてはまる。イエスとの個人的接触は素晴らしいが、人の心を動かすことになると、彼だけに頼るわけにはいかない。パウロは、「キリストと共にいるために、むしろ死を望む」と記した。しかし、生きながらえて兄弟たちのために働く必要性を彼は自覚していた(ピリピ一・二三〜二四)。困難な状況になると、私たちの大多数は天に飛んで行くことを願う。しかし、私たちは自分のことしか考えておらず、主とその王国のためになおもなされるべきことについては考えていないのである。
キリストと共に天の故郷にいることは、最重要事ではない。いま居る所で戦って、キリストの喜ばしいおとずれを国々にもたらす覚悟をしなければならない。諦めて主のもとに行くことを望むのではなく、むしろ、弱さの中で新たな力を、病の中で新たな活力を、誘惑の中で新たな勝利を求めて祈らなければならない。なぜなら、私たちが弱いときこそ、主は最大の力を発揮されるからである(二コリント一二・七〜一〇)。それゆえ、私たちが行う最も小さなことにも大きな意義がある。いつの日か、主がご自分の民の忠信さを――特に弱いときの忠信さを――どれほど高く評価しておられるのか知って、私たちは驚くであろう。
それゆえ、地上から早々と去ることを心から望むかわりに、むしろ恵みの時を求めて、御業を求めて、天からの大きな力を求めて祈ろうではないか。主に抵抗せずに、できるだけそうしようではないか。そうするなら、去る時が来る時、私たちはいっそう喜びに満ちて主のもとに行く用意が整っているだろう。
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト
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