「全体的裁き」という表現が宗教的な文献の中に頻出するが、そのような表現は聖書の中には見あたらない。さらに重要なことに、この表現が伝える観念も聖書の中には見あたらない。
ペンテコステ博士はこれを見事に述べている。「この有害な慣習により、裁きをこの世の終わりに起きる一度きりの大事件であると述べるよう、キリスト教世界は導かれてきた。その時、すべての人、聖徒、罪人、ユダヤ人と異邦人、生者と死者が、大きな白い御座の前に立って、そこで裁かれるというのである。聖書の教えでこれほど広まっているものはない」。
聖書は五つの裁きについて述べている。これらの裁きは四つの大まかな点で異なる:裁きの対象、裁きの場所、裁きの時、裁きの結果である。
信者に関する裁き
信者たちの罪は裁かれた。 時:A.D.三十年 場所:十字架 結果:キリストの死:信者の義認
「イエスは自分の十字架を負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に進んで行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた」(ヨハ一九・一七〜一八)。
「この方はみずから木の上で私たちの罪をその身に負われたのである」(一ペテ二・二四)。
「キリストもまた罪のために苦しまれた。義なる方が不義なる者のために苦しまれたのである。それは私たちを神にもたらすためであった」(ガラ三・一三)。
「なぜなら彼(神)は、罪を知らない方(キリスト)を私たちのために罪とされたからである。それは私たちが彼にあって神の義とされるためであった」(二コリ五・二一)。
「しかし今、世の終わりに、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、彼は一度だけ現れたのである」(ヘブ九・二六)。
「私たちの罪の清めをご自身でなし終えて」(ヘブ一・三)。
「それゆえ今や、キリスト・イエスにある者たち、肉にしたがってではなく御霊にしたがって歩む者たちが、罪に定められることはない」(ロマ八・一)。
信者の罪の裁き
時:いつでも 場所:どこでも 結果:われわれが自分自身を裁かないなら、主によって懲らしめを受ける
「もし私たちが自分自身を裁くなら、裁かれることはない。しかし、私たちが裁かれるのは、主によって懲らしめられることであって、この世と共に罪に定められないためである」(一コリ一一・三一〜三二)。
「懲らしめを耐え忍びなさい。神はあなたたちを息子として取り扱っておられるのである。父親に懲らしめられない息子がいるだろうか?」(ヘブ一二・七)
(一ペテ四・一七、一コリ五・五、二サム七・一四〜一五、二サム一二・一三〜一四、一テモ一・二〇も見よ。)
信者の行いや働きは裁かれる
時:キリストが来臨される時 場所:「空中」 信者に対する結果:「報い」か「損失」。「しかし自分自身は救われる」。
キリストはわれわれの罪を木の上でその身に負われ、神は「もはや罪を思い出すことをしない」という契約を我々と結ばれたが(ヘブ一〇・一七)、すべての働きが裁かれなければならない。これは厳粛なことである。信者の生活、働きが主によって精査されなければならない。
「このゆえに、私たちは労苦している。それは、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、彼に受け入れてもらうためである。なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの座の前に出なければならないからである。それは、善であれ悪であれ、自分の行ったことにしたがって、自分の身で行ったものをそれぞれ受けるためである」(二コリ五・九〜一〇)。
「それなのに、なぜあなたは自分の兄弟を裁くのか?なぜあなたは自分の兄弟を軽んじるのか?私たちはみな、キリストの裁きの座の前に立つのである」(ロマ一四・一〇)。
これらの節は両方とも信者に限られていることが文脈からわかる。まず第一に、使徒はわれわれのことを、二つの状態のうちのどちらかにある者として述べている:体を宿としていて主から離れている状態と、体から離れて主と共にある状態である――未信者に対してこのような言葉遣いをすることはできない。「それゆえ」主に喜ばれることを「私たちは目標としている」「私たちはみな、明らかにされなければならないからである」(二コリ五・八〜九)。
この他の節では、「私たち」「兄弟」という言葉が、またもやこれを信者に限定している。聖霊は、救われた者と救われていない者とを決してまぜこぜにされない。次に、血によって清められた聖徒でも裁かれるおそれがあることが、信じがたいことのように思われないようにするために、聖霊はイザヤ書から引用して「すべての膝がかがむ」ことを示し、「ですから、私たちはみな、神に申し開きをすることになるのである」と付け加えておられる。
以下の節は、働きの裁きの基礎を与える:「なぜなら、すでに据えられている土台以外のものを据えることは、誰にもできないからである。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、わら、刈り株を用いて建てるならば、それぞれの働きは明らかにされる。すなわち、かの日がそれを明らかにする。なぜなら、それは火によって示されるからである。そして、この火が、それぞれの仕事がいかなるものかを試すであろう。もしある人の建てたものが残るなら、その人は報いを受けるが、その働きが焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(一コリ三・一一〜一五)。
以下の節は、この裁きの時を確定する:「人の子は、その御使いたちと共に、父の栄光のうちに来る。その時、各自の働きに応じて各々に報いる」(マタ一六・二七)。「あなたたちはさいわいである。彼らはあなたに返礼することができないからである。義人の復活の時に、あなたたちは返礼を受けるであろう」(ルカ一四・一四)。(一コリ一五・二二〜二三を見よ。)「だから、主が来られるまで、何事についても、先走って裁いてはならない。主は暗闇の中に隠れていることを明るみに出し、心のはかりごとをあらわにされるであろう。その時、神からそれぞれほまれを受けるであろう」(一コリ四・五)。
われわれの貧弱な働きは必ず精密な取り調べを受けることになる。この事実に照らして見るとき、彼は忍耐強い愛によって、今、われわれを導き、われわれの内で働いて下さり、かの日、われわれを褒めることのできるものを見いだせるようにして下さるということは、何と慰めに満ちていることか。
「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各自に働きに応じて与える」(黙二二・一二)。
「今から後、義の冠が私のために備えられている。かの日には、義なる審判者である主が、それを私に授けて下さるであろう」(二テモ四・九)。
この裁きの場所については、一テサ四・一七とマタ二五・二四〜三〇を見よ。
諸国民の裁き
時:キリストの栄光の出現(マタ二五・三一〜三二、マタ一三・四〇〜四一)。 場所:ヨシャパテの谷(ヨエ三・一〜二、一二〜一四)。 結果:ある者は救われ、ある者は失われる(マタ二五・四六)。
基礎:ここでキリストが「私の兄弟たち」と呼んでいる者たちに対する取り扱い(マタ二五・四〇〜四五、ヨエ三・三、六〜七)。この「兄弟たち」は「大艱難」の間に自分たちのメシヤであるイエスに立ち返るユダヤ人のレムナントであるとわれわれは信じる。大艱難は、教会が取り去られた後に続き、われわれの主の栄光の出現で終わる(マタ二四・二一〜二二、黙七・一四、二テサ二・三〜九)。その証拠はあまりにも多すぎて、ここで示すことはできない。しかし、明らかに、この「兄弟たち」はこの経綸の信者たちではありえない。なぜなら、信者たちに優しくする働きは、実際にはイエスご自身に対する奉仕であることすら知らない、かなり多くの無知なクリスチャンを見つけるのは、不可能だろうからである。
生きている諸国民に対するこの裁きは、黙示録二〇・一一の大きな白い御座の裁きと混同されることがしばしばある。したがって、この二つの光景の対比を以下に示す方がいいだろう。
この生きている諸国民の特徴は以下の通りである:復活はない:生きている諸国民が裁かれる:地上で:いかなる本も開かれない:羊、山羊、「兄弟たち」の三種類の人々:時は、キリスト出現の時である。大きな白い御座の特徴は以下の通りである:復活が一回ある:「死者」が裁かれる:天と地は逃げ去った:「諸々の本が開かれた」:一種類の人々のみ:キリストが千年間統治した後。
この裁きのとき、聖徒たちはキリストと共にいる。したがって、聖徒たちがこの裁きを受けることはありえない。(一コリ六・二、ダニ七・二二、ユダ一四〜一五を見よ。)
実は、大きな白い御座の裁きと生きている諸国民の裁きとの間には、共通点が一つしかない:どちらも裁きであるという点である。
死んだ悪人の裁き
時:千年期の後の、ある決まった日(使一七・三一、黙二〇・五、七)。 場所:大きな白い御座の前(黙二〇・一一)。 結果:黙二〇・一五。
使徒一七・三一やローマ二・一六のような節の中で用いられている「日」という言葉に、困難を覚える人もいるかもしれない。「日」がある長さの期間を意味する以下の節を見よ:二ペテ三・八、二コリ六・二、ヨハ八・五六。ヨハネ五・二五の「時」は、今ではもう千八百年以上続いている。
聖書はまた、御使いの裁きについても述べている(一コリ六・三、ユダ六、二ペテ二・四)。ルカ二二・三〇は、審判者たちのことを、おそらく神政政治の下にある者として述べている――司法職ではなく行政職のことを言っているのである。(イザ一・二六を見よ。)