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「真理の言葉の正しい切り分け」

Rightly Dividing the Word of Truth

第六章 律法と恵み

Chapter 6 Law and Grace

C. I. スコフィールド
C. I. Scofield



真理の御言葉の最も明白で顕著な区別は、律法と恵みの区別である。まさに、これらの対照的な原則が、二つの極めて重要な経綸を特徴づけている:ユダヤ人の経綸とクリスチャンの経綸である。「律法はモーセによって与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストによって来たからである」(ヨハ一・一七)。

もちろん、モーセの前に律法がなかったわけでも、イエス・キリストの前に恵みや真理がなかったわけでもない。善悪を知る知識の木の実を食べてはならないというアダムへの禁令(創二・一七)は律法だった。また、主なる神は罪を犯した被造物を探して皮の衣を着せて下さったが、これは確かに極めて素晴らしい恵みの現れである。この皮の衣は「私たちのための義となられた」(一コリ一・三〇)キリストの美しい型である。神の御旨を啓示するものとしての律法と、神の優しさを啓示するものとしての恵みとは、常に存在していた。これを聖書は大いに証しする。しかし、聖書でもっとも頻繁に言及されている「その律法(the law)」は、モーセによって与えられ、シナイからカルバリまでの時を支配して特徴付けている。同じように、恵みはカルバリから始まる経綸を支配し、この経綸に独特な性格を与える。そして、この経綸は教会の携挙によって終わることが予示されている。

しかしながら、聖書はどの経綸においても、この二つの原則を混同してはいない。これを見ることが極めて重要である。律法の占める立場が常にあり、恵みとは別に、恵みとはまったく逆に働く。律法では、神は禁止したり、要求したりされる。恵みでは、神は懇願し、授けて下さる。律法は罪定めの務めであり、恵みは赦しの務めである。律法は呪い、恵みはその呪いから贖う。律法は殺し、恵みは生かす。律法は神の御前ですべての口を閉ざし、恵みは口を開いて神を賛美させる。律法は咎のゆえに人と神とを大いに隔てるが、恵みは咎ある人を神に近づけさせる。律法は「目には目を、歯には歯を」と告げるが、恵みは「悪に抵抗してはなりません。あなたの右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」と告げる。律法は「あなたの敵を憎め」と告げるが、恵みは「あなたの敵を愛し、あなたを虐待する者たちを祝福しなさい」と告げる。律法は「行って生きよ」と告げるが、恵みは「信じて生きよ」と告げる。律法には宣べ伝える者が決していなかったが、恵みは全被造物に宣べ伝えられなければならない。律法は最善の人間ですら徹底的に罪に定めるが、恵みは無代価で極悪人さえも義とする(ルカ二三・四三、ロマ五・八、一テモ一・一五、一コリ六・九〜一一)。律法は保護観察の体系であり、恵みは好意的な体系である。律法は姦婦を石で打つが、恵みは「私もあなたを罪に定めない。行って、もう罪を犯してはいけません」と言う。律法の下では羊が羊飼いのために死ぬが、恵みの下では羊飼いなる御方が羊のために死んで下さる。

聖書は至る所で、律法と恵みとを鮮明な対比のうちに示す。今日流行している教えの大部分は両者を混同しているが、これは両方とも損なうものである。なぜなら、律法からはその恐ろしさを、恵みからはその無代価である点を除き去るからである。

新約聖書において「律法」はモーセによって与えられた律法を意味することを、生徒は見なければならない(ロマ七・二三は例外である)。律法全体(道徳に関する律法や十戒、儀式に関する律法)を意味する場合、戒めだけを意味する場合、祭儀の律法だけを意味する場合がある。第一の部類の御言葉の例としては、ロマ六・一四、ガラ二・一六、三・二がある。第二の部類の例は、ロマ三・一九と七・七〜一二である。第三の部類の例はコロ二・一四〜一七である。

また、次の点も覚えておかなければならない。祭儀に関する律法の中には、素晴らしい数々の型――祭司及びいけにえとしての主イエスのパースンと御業の美しい予表――が含まれている。例えば、幕屋(出二五〜三〇章)や、レビのいけにえ(レビ一〜七章)のように。これらの予表は、霊的な心の持ち主にとって、尽きない驚きと喜びになるにちがいない。

詩篇の中には、「石に彫りつけた文字による死の務め」(二コリ三・七)について理解しない限り説明不可能な数々の表現があるが、それらの表現をキリストあるいは贖われた者を示すものとして見る時、その意味が明らかになる。「その人は主の律法を喜びとし、昼も夜もその律法を思い巡らす」(詩一・二)。「ああ、私はあなたの律法を何と愛していることか!私はひねもすこれを深く思います」(詩一一九・九七)。

三つの誤謬が、律法が恵みに対して持つ正しい関係に関して、教会を悩ませてきた。

1.反律法主義――信者の生活を支配する規則をすべて否定し、人は神の無代価の恵みによって救われるのだから、聖い生活を送る必要はないと主張すること。「彼らは神を知っていると口では言うが、行いでは神を否定している。彼らは忌むべき者、不従順な者、いっさいの良いわざに関しては失格者である」(テト一・一六)。

「そのわけは、ある人々が気づかぬうちに忍び込んできたからである。彼らは、このような裁きを受けるよう昔から定められていた者たちであり、不敬虔な者たちである。彼らは私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の主なる神、私たちの主イエス・キリストを否んでいる」(ユダ四)。

2.儀式主義――レビの慣例を守るよう信者に要求すること。この誤謬の現代の形は、「クリスチャンの数々の慣例を守ることが救いに必要である」いう教えである。

「そして、ユダヤから下って来たある人々が兄弟たちに『あなたたちも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない』と、説いていた」(使一五・一)。

3.ガラテヤ主義――律法と恵みとを混同すること。「義認は一部は恵みにより、一部は律法による」「恵みが与えられるのは、そうでなければ無力な罪人に、律法を守らせるためである」という教え。あらゆる誤謬の中で最も広まっているこの誤謬に対して、「ガラテヤ人への手紙は神の決定的答えである」という厳粛な警告、反論不能な論理が与えられており、強調されている。

「私は、ただこの一つの事を、あなたたちに聞きたい。あなたたちが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも信仰を聞いたからか?あなたたちは、そんなにも愚かなのか?御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか?」(ガラ三・二〜三)。

「あなたたちがこんなにも早く、あなたたちをキリストの恵みの中に招いて下さった方から離れて、別の福音(別の福音などありえないのだが)に移っていくのが、私には不思議でならない。ただ、ある人々がいてあなたたちをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているのである。しかし、たとえ私たちであろうと、天からの御使いであろうと、私たちがあなたたちに宣べ伝えたのと異なる福音をあなたたちに宣べ伝えるなら、その者は呪われるべきである」(ガラ一・六〜八)。

この重要な主題について教えている聖書の教えの概要として、以下のものが助けになるかもしれない。引用した御言葉が言及しているのは、ただ道徳に関する律法のみである。

律法とは何か

「このようなわけで、律法は聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ロマ七・一二)。

「私たちは、律法は霊的なものであることを知っているからである。しかし、私は肉的なものであって、罪の下に売られているのである」(ロマ七・一四)。

「すなわち、私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるからである」(ロマ七・二二)。

「私たちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである」(一テモ一・八)。

「律法は信仰から出ているものではない」(ガラ三・一二)。

律法の合法的使用

「それでは、私たちは何と言おうか?律法は罪なのか?断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、私はむさぼりなるものを知らなかったであろう」(ロマ七・七。一三節も見よ)。

「それゆえ、律法を行うことによっては、肉なる者は神の目に義とせられない。律法によって、罪の自覚が生じるからである」(ロマ三・二〇)。

「それでは、律法は何であるか?それは違反のゆえに付け加えられたのである」(ガラ三・一九)。

「さて、私たちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神の前に有罪となるためである」(ロマ三・一九)。律法には一つの言葉しかない:「すべて律法の言うところは」とある通りである。律法が言うのは、ただ罪に定めるためなのである。

「なぜなら、律法の行いによる者はみな、呪いの下にあるからである。『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、みな呪われる』と書いてあるからである」(ガラ三・一〇)。

「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点でも破るなら、全体を犯したことになるからである」(ヤコ二・一〇)。

「石に彫りつけた文字による死の務め」(二コリ三・九)。

「私はかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、私は死んだ」(ロマ七・九)。

「罪の力は律法である」(一コリ一五・五六)。

それゆえ、次のことは明らかである。人類が二千五百年律法を持たずに存続してきた後に、神が律法をお与えになった目的は(ヨハ一・一七、ガラ三・一七)、まず咎ある人に自分の罪を知らせ、次に、神の義なる要求に照らして見たとき、人はまったく無力であることを知らせるためだったのである。律法の務めは、完全にただ罪定めと死の務めである。

律法のなしえないこと

「それゆえ、律法を行うことによっては、肉なる者は神の目に義とせられない。律法によって、罪の自覚が生じるからである」(ロマ三・二〇)。

「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によることを知って、私たちもイエス・キリストを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、肉なる者は決して義とされないからである」(ガラ二・一六)。

「私は神の恵みを無にしない。もし、義が律法によって得られるなら、キリストの死は無駄だったことになる」(ガラ二・二一)。

「しかし、律法によっては、神の目に義とされる人は誰もいないことが、明らかである。なぜなら、義人は信仰によって生きるからである」(ガラ三・一一)。

「律法が肉により弱くなっているために成しえなかった事を、神は成し遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のゆえに遣わし、肉において罪を罰せられたのである」(ロマ八・三)。

「そして、モーセの律法によっては義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はみな、イエスによって義とされるのである」(使一三・三九)。

「律法は何事も全うしなかったからである。他方では、さらに優れた望みが現れてきて、私たちはそれにより神に近づくのである」(ヘブ七・一九)。

信者は律法の下にない

ローマ六章はまず、キリストの死による信者のキリストとの一体化について告げる。バプテスマはキリストの死を象徴するものである(一〜一〇節)。その後、一一節から、信者の歩みを支配すべき諸々の原則について告げ始める――信者の生活規則を告げ始める。これが残りの十二節の主題である。一四節は信者の解放の大原則を与えている。この解放は罪の過ちからの解放ではない。それはキリストの血によって対処される。この解放は罪の支配――罪の下の束縛――からの解放である。「なぜなら、罪はあなたたちを支配することはないからである。あなたたちは律法の下にではなく、恵みの下にあるからである」。

この御言葉が、「だから、敬虔な生活は重要ではない」と述べる恐ろしい反律法主義に導くことがないようにするために、御霊はただちに「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、私たちは罪を犯すべきであろうか?断じてそうではない」と付け加えておられる。新しくされた心はみな、きっとこれに「アーメン」と答えるにちがいない。

次に、ローマ七章は、律法からの解放の別の原則を導入する。「それゆえ、私の兄弟たちよ、あなたたちも、キリストの体により、律法に対して死んだのである。それは、あなたたちが他の方、すなわち、死者の中からよみがえられた方に嫁いで、こうして、私たちが神のために実を結ぶためである。というのは、私たちが肉にあった時には、律法による罪の活動が、死へと至る実を結ばせようと、私たちの肢体の中に働いていた。しかし今は、私たちをつないでいたものに対して死んだので、私たちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」(ロマ七・四〜六)(これは祭儀律法のことを言っているのではない。七節を見よ。)

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死んだ」(ガラ二・一九)。

「しかし、信仰が現れる前は、私たちは律法の下に保たれ、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となったのである。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいない」(ガラ三・二三〜二五)。

「しかし、私たちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。律法は正しい人のために設けられたのではなく」(一テモ一・八〜九)。

信者の生活規則は何か?

「『彼の中に住んでいる』と言う者は、彼が歩まれたように、その人自身も歩むべきである」(一ヨハ二・六)。

「彼は私たちのために命を捨てて下さった。それによって、私たちは神の愛を知った。私たちもまた、兄弟たちのために命を捨てるべきである」(一ヨハ三・一六)。

「親愛なる愛する者たちよ、私はあなたたちに勧める。あなたたちは旅人であり巡礼者であるから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(一ペテ二・一一。一二〜二三節も見よ。)

「それゆえ、主の囚人である私は、あなたたちに勧める。あなたたちが召されたその召しにふさわしく歩み、謙虚と柔和の限りを尽くし、忍耐をもって、愛によって互いに忍びあいなさい」(エペ四・一〜二)。

「それゆえ、あなたたちは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩みなさい。キリストもあなたたちを愛して、私たちのためにご自身をささげて下さったのである」(エペ五・一〜二)。

「あなたたちは、かつては闇であったが、今は主にあって光となっている。光の子として歩みなさい」(エペ五・八)。

「そこで、あなたたちの歩み方によく注意して、愚か者のようにではなく、賢い者のように歩み、時を贖いなさい。今は悪い時代だからである」(エペ五・一五〜一六)。

「私は命じる、御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲を満たすことはない」(ガラ五・一六)。

「私があなたたちにしたとおりに、あなたたちもするように、私は手本を示したのです」(ヨハ一三・一五)。

「もし私の戒めを守るなら、あなたたちは私の愛のうちにとどまる。それは私が父の戒めを守ったので、その愛のうちにとどまっているのと同じである」(ヨハ一五・一〇)。

「私の戒めはこれである。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(ヨハ一五・一二)。

「私の戒めを抱いてこれを守る者は、私を愛する者である」(ヨハ一四・二一)。

「そして、願い求めるものは、何でも彼からいただけるのである。それは、私たちが彼の戒めを守り、御目にかなうことを行っているからである。その戒めとはこれである。すなわち、御子イエス・キリストの御名を信じ、私たちに命じられたように、互いに愛し合うべきことである」(一ヨハ三・二二〜二三)。

「私が、それらの日の後、彼らと結ぶ契約はこれであると、主は言われる。私は私の律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書き付けよう」(ヘブ一〇・一六)。

この原則の美しい絵図を、子供を愛する母親の愛の中に見ることができる。律法は親に自分の子孫を世話するよう命じ、それを故意に無視するなら罰を下すことを宣告する。しかし、その土地は幸福な母親たちでいっぱいである。この母親たちは優しく子供を世話していて、そのような法律があるとは露知らない。律法が母親たちの心のうちにあるのである。

これに関連して、律法の石板のために神が定められた場所は証しの箱の内側だったことを思い出すと、ためになる。律法の石板と一緒に「マナの入った金の壺と、つぼみをつけたアロンの杖」もそこにあった(これらは型である。一方は、荒野におけるわれわれのパンであるキリストの型であり、他方は復活の型である。両方とも恵みを物語っている)。これらのものは、贖いの血を振りかけられた金の恵みの座によって、見えないように覆われていた。破られた律法を神が御覧になるのは、ただこの血を通してであった。この血が完全に神の義を示して、神の怒りを宥めたのである(ヘブ九・四〜五)。

これらの聖なるものであり、かつ正しいものである、しかし恐るべき律法の石板を、恵みの座と贖いの血の下から引き出して、それをクリスチャン生活の規則として、クリスチャンの諸教会のうちに打ち立てる役割は、現代主義者たちのために用意されていたのである。

恵みとは何か?

「ところが、私たちの救い主なる神の慈悲と愛とが現れた時(中略)そのあわれみにしたがって私たちを救って下さったのである」(テト三・四〜五)。「それは、来たるべき代々の時代に、キリスト・イエスを通して私たちに向けられている慈愛の中で、その恵みの卓越した富を示すためであった」(エペ二・七)。

「しかし、私たちがまだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されたのである」(ロマ五・八)。

神の恵みの目的は何か?

「なぜなら、恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたからである。これはあなたたちからでたものではなく、神の賜物である。働きによるのではない。誰も誇ることがないためである」(エペ二・八〜九)。

「なぜなら、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたからである。そして、不敬虔とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、敬虔にこの今の世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神また私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている」(テト二・一一〜一三)。

「無代価で、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである」(ロマ三・二四)。

「私たちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みの中に信仰によって入り」(ロマ五・二)。

「いま私は、兄弟たちよ、神とその恵みの御言葉とに、あなたたちを委ねる。御言葉はあなたたちを建て上げて、聖別されたすべての人々の間で、あなたたちに嗣業を与えることができる」(使二〇・三二)。

「愛する御子によって私たちを受け入れて下さった、その恵みの栄光の賛美へと至るためである。私たちは御子にあって、神の恵みの富にしたがって、その血による贖い、すなわち、罪の赦しを受けたのである」(エペ一・六〜七)。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づこうではないか」(ヘブ四・一六)。

なんと完璧で、すべてを包括していることか!恵みは救い、義とし、建て上げ、受け入れられるようにし、贖い、赦し、嗣業を授け、神の御前における立場を与え、あわれみと助けとを求めて大胆に近づくことのできる恵みの座を備えてくれるのである。恵みは、どのように生きるべきかをわれわれに教え、われわれに祝福に満ちた望みを与えてくれるのである!さらに、これらの様々な原則が混同することはありえないのである。

「そして、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである。しかし、もし行いによるのであれば、もはや恵みではない。そうでないと、行いは行いではなくなるからである」(ロマ一一・六)。

「さて、働く人に対する報酬は、恵みとしてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不敬虔な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ロマ四・四〜五、ガラ三・一六〜一八、四・二一〜三一も見よ)。

「それゆえ、兄弟たちよ、私たちは奴隷女の子ではなく、自由な女の子である」(ガラ四・三一)。

「あなたたちが近づいているのは、手で触ることができ、火が燃え、黒雲や暗闇や嵐につつまれ、また、ラッパの響きや、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉が響いた山ではない。(そこでは、彼らは、『獣であっても、山に触れる者は、石で打ち殺されるか、矢で刺し貫かれる』という命令の言葉に耐えることができなかったのである。その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、『私は大いに恐れおののく』と言ったほどである。)しかし、あなたたちが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の御使いの群れ、天に記されている長子たちの会衆及び教会、万物の審判者なる神、全うされた義人たちの霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも優れたことを告げる注ぎの血である」(ヘブ一二・一八〜二四)。

それゆえこれは、神がシナイ山から語られた御言葉を道徳律法と祭儀律法とに分ける問題ではない――信者がこの山に行くことは決してないからである。

健全な昔のバンヤンが述べた通りである。「信者は今や、主イエスを信じる信仰により、祝福に満ちた完全な義の下に覆われている。そのため、シナイ山のこの響き渡る律法は、信者のうちに間違いや欠点を少しも見いだすことはできない。これがいわゆる、律法によらない神の義である」。

これが未信者の目にとまるなら、その人は、自分が犯した聖にして義なる律法の真の判決を受け入れるよう、愛情のこもった勧めを受けるであろう。「なぜなら、そこには何の差別もないからである。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光に欠けているのである」(ロマ三・二二〜二三)。キリストによって、そのような人は完全な永遠の救いを受けるであろう。こう書き記されている通りである、「あなたが自分の口で主イエスを告白し、神が彼を死者の中からよみがえらせたことを心に信じるなら、あなたは救われる」(ロマ一〇・九)。なぜなら、キリストは「信じるすべての者を義とするために、律法の終わりとなられた」(ロマ一〇・四)からである。