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「天からの火」

Fire from Heaven

第一章 天からの火

Chapter 1 Fire from Heaven

セス・C・リース
Seth C. Rees



「私は悔い改めのために、水であなたたちをバプテスマしている。しかし、私のあとから来る人は私よりも力のある方で、私はそのくつを運ぶ値打ちもない。この方は、聖霊によって、また火によって、あなたたちをバプテスマする。また、箕を手に持って、その打ち場を徹底的に清め、その麦を集めて倉に納められる。しかし、殻は消えない火で焼き尽くされる。」(マタイ三・十一〜十二)

火は、神によって選ばれた神の臨在と栄光の象徴である。旧約の経綸、イスラエルがパロの鉄の支配から解放される前までさかのぼると、神は燃え尽きない柴の燃える炎の象徴によって、ご自分をモーセに啓示された――これは全能の神の燃え輝く清める臨在の顕著な型であった。

この型がイスラエルを広大な砂地の砂漠を通って導くのを、われわれは再び目にする。夜がどれほど暗くても、宿営がどれほど静まりかえっていても、眠れないイスラエル人は、自分の天幕の入口に行って、絶えず臨在している火の柱を一目見るだけで、気持ちを静めて恐れを和らげることができた。

火は諸々の供え物と密接に関係していた。過越の小羊は火で丸焼きにされた。罪のための供え物は宿営の外に運ばれて火で焼かれた。平和のための供え物や肉の供え物は火と関係していた。神は明らかに、何回も示すことにより、この力強い象徴の意義を繰り返し強調することを意図されたのである。聖所での香の供え物では、粉に挽かれて混ぜ合わされ、金の香炉の中に置かれた甘い香料が、順番に燃やされた。甘い香りを主の御前に立ち上らせるためである。

神聖な予型論者が火を選ばれたのには、多くの理由がある。火は物質界の中で最も印象的で力強い要素の一つだからである。火には常に、奇妙な説明のつかない神秘がある。火にすっかり慣れてしまったため、もはやあまり驚きを感じなくなる、ということは決してない。科学は炎の仕組みを解明しようとしてきたが失敗してきた。巨大なホテルや商売の区画が大火になると、あらゆる階級の人々の関心や注意を引き付ける。大群衆が、その顔に恐れに満ちた真面目な表情を浮かべて、安全な距離から、恐るべき敵が人の業を破壊するのを見つめる。

異教の国々の間では、火は常に迷信の対象であった。古代ギリシャとローマでは、聖なる火を極めて注意深く警護した。その火を燃え続けさせる職務のために、人々が割り当てられた。聖別された祭司たちやウェスタの巫女たちが、祭壇から聖なる光が消えないように、細心の注意を払った。何らかの災害でこの火が消えようものなら、その火が再び灯るまで、すべての国家行事が延期になった。その火を灯す方法は、ある人々が信じるところによると、天からの稲妻か、太陽からの聖なる光か、摩擦による火花であった。異国の大使は、国の議会に立ち入ることを許される前に、聖なる火の近くを歩かなければならなかった。花嫁は、新しい家に入る前に、聖なる火の前でおじぎをしなければならなかった。レッド・インディアンの酋長のサケムは、勧告を与えたり、公の訪問者を迎えたりする前に、キャンプファイヤの周りを歩いて三周した。ペルシャの火を礼拝する者たちは、太陽と炎を特に聖なるものと見なした。そして、火の中につばきを吐くことや、その前で不作法を働くことを、許されざる冒涜と見なした。今日、インドのパーシ人は畏敬の念をもって火を礼拝している。

この物質宇宙の中で、火ほど価値あるものはない。われわれの太陽系の中心である太陽は、白熱した、炎を発する天体である。その炎は日食のときに見ることができるが、数百マイルの長さである。そして、黒点が現れるときは、たいてい同時に、北極のオーロラが並々ならぬ明るさになる。火は巨大な炭坑の中に貯えられており、産業界の手によって掘り起こされている。火は商業の車輪を回し、世界を巡る船のスクリューを回転させる力である。

爆薬を素早く燃焼させることが、現代のどの戦争兵器でも肝心である。その恐るべき威力は、爆弾、モーゼル弾、殺戮砲からわかる。

電気は火の一つの形態だが、十九世紀の生活にますます広く利用されるようになりつつあり、現代の仕事や活動のすべての方法を変革しつつある。電気が神秘の対象で、よくわからない恐るべきものだった時もあった。天空の稲妻が実際の力であることは分かっていたが、それがいつ誰を打つのかは誰にもわからなかった。だれもあえてそれを制御したり、利用したりしようとしなかった。しかし、フランクリンが凧と引き綱で雷雲からその火花を引き出して以来、科学は天を測るようになった。今では、子供でもこの巨大な力を無傷で利用できる。電気はわれわれの指先まで届いており、われわれの日常生活の中に溶け込んでいる。それを奇妙に思ったり、不思議に思うことはない。電気の火花がわれわれの呼び鈴をならし、時計を回し、コーヒーを挽き、灯し、あたため、車を走らせ、知らせを伝え、銀食器をめっきし、写真を写す。

聖霊の火が神秘の対象の時もあった。時々しか現れず、カルメル山の山頂に飛び火したり、砂漠の後方でびっくりしているモーセの前方の茨に飛び火したりした。それはまた、ともしびや煙る釜として、次に、イスラエルの宿営の中に滅びの炎として現れた。しかし、キリストが栄光を受けてペンテコステが完全に到来して以来、聖霊はわれわれの間に住むことを確かに望んでおられる。信条や階級とは関係なく、はっきりと啓示されているいくつかの条件に基づいて、そうして下さるのである。これらの条件が満たされる時、火が天の胸壁を飛び越えて下り、われわれを照らして清めるだけでなく、人生の道を進ませてくれるのである。

火の働きの最も明らかな効き目は、清めることである。不純物が外側にあるだけなら、多くのものは水で清めることができる。しかし、内側に清めを要するものが混ざり込んでいる場合、それを徹底的に清めるには、火の強力な熱が必要である。貴金属はみな、利用に適したものとなるまで、何度も何度も火の中に入れられる。それで、霊感を受けた筆者は極めて鮮やかな絵図を用いて、ペンテコステの力による聖霊の過激な清めの御業を描写しているのである。精錬業者が貴金属を溶鉱炉の激しい熱にさらすように、聖書が告げるところによると、天の主は信者の心に「上の部屋の溶鉱炉」の清めの課程を通らせるのである。

「ピカピカしているものがすべて金とは限らない」は、イエスの多くの弟子にもあてはまる諺である。金の探求者が輝く雲母や黄鉄鋼に騙されることはあまりない。多くの自称クリスチャンの生活や性格の中には、光輝くものがたくさんあるかもしれないが、それは神や人に対する完全な愛という純金ではない。しかし、火にさらすなら、スズや青銅は損なわれ、銀は失せ去る。騒がしい自称クリスチャンたちの心の中からかなかすがすべてなくなるなら、ほとんど何も残らないであろう。これは紛れもない真実である。御霊の火は、軽くて、籾殻に覆われた、貧弱なものを、すべて焼き尽くす。魂がペンテコステの熱い炎にさらされる時、ぜいたくな読み物に対する欲求は消え去る。その時、人は神の栄光を読むことを喜ぶようになり、新聞などに対する以前の好みが永遠に自分から去ったことを見いだす。

聖霊による火のバブテスマにより、軽口や軽薄な振る舞いに流れる傾向も魂からなくなる。ああ、近頃の無駄口ときたら!ゴシップや馬鹿げた会話ときたら!ペンテコステはこのようなものをすべて滅ぼす。

ペンテコステが常にもたらすもう一つのものは、寛大で寛容な精神である。すべてを共有するよう初期の教会を促した友愛の衝動や感覚が、このような経験を授かる時、今日イエスに従う者たちの中にも注入されて、貧しさの中にある兄弟と最後の一ペニーまで喜んで共有するようになる。この火はわれわれの諸教会の借金を焼き尽くし、われわれの教会の負債をたちまち解消する。聖められた人とケチな人が同一人物であることは決してない。聖められることは、精神の寛大さと寛容さを意味するのである。

地域全体の道徳的雰囲気が霊的病で打ちひしがれている所がいくつもある。黒々とした不健康な沼地、巨大な湿地、果てしない沼沢地で、熱病と病と死の霧を発散している。全教会が「悪寒と熱」に苦しんでおり、少なからぬ説教者がチフスで苦しんでいる。この治療法は何か?天からの火である!

少年の頃、私は父が「ガス」の充満した井戸を清めるのをよく見た。父は、鉄のやかんに白熱した燃える木炭を満たして、それを井戸の中に下ろした。汚れたガスが火を消しそうになることも時々あった。そのような時は、やかんを地表まで引き上げて、再び火をつけなければならなかった。しかし、必ず最後には火が勝ったのである。熱病に苦しむ地区や霊的沼地がいかなるものであれ、御霊の火が清めて健全化できないものは一つもない。

火は、活気づけて命を与えるうえで、強力な要素である。人は大いに労苦して温室を造り、炉と暖房の装置を備え付け、多大な費用と労力をかけて数本の花を育てる。しかし神は、凍り付いて不毛な古びた地球を太陽のまわりに回転させ、氷と霜を溶かす契約を発布して、数百万の種を命に芽生えさせ、乾燥した砂漠を美しい園にされる。神は自然界でこのような諸々の奇跡を行えるのだから、どうして霊の世界でも行えないことがあろう?神は冷たい心を溶かして軟らかくし、薔薇のように花咲かせることができる。ああ、神の御霊の優しいあたたかさと輝きよ。神は死んだ霊を命に生き返らせて下さる。初期の世界の空しい水の上を覆われた方は、今日、死せる魂を抱いて命にもたらし、新しい存在にして下さるのである。

聖霊は神聖な命の与え主である。聖霊は説教者たちの説教に命とエネルギーを注入して下さる。そして遂には、それらの説教は輝かしい火と力のメッセージになる。聖霊は教会のまなこに新たな光を、教会の頬に新たな溌剌さを、教会の組織に新鮮な力を与えて下さるので、教会は神の使命の道を勢いよく走るようになる。

火は強力な活気づける力である。神は自然界の途方もない諸々の力を創造された。神は稲妻、炭鉱、空気の潮流の中に、世界中の産業を営むのに十分な力を蓄えて下さった。この同じ神が、御霊のバプテスマの中に、無限の力とエネルギーを備えて下さっている。ここにこそ、神のすべての御業を完全に申し分なく成就するのに十分な備えがある。人の力で神聖な働きに取りかかるのは何と愚かなことか!踏み車で自分の工場を営もうとする製造業者がいるだろうか?しかし、それにもかかわらず、数千のクリスチャンが、自分自身の非力な手で主の働きをしようとしているのである。科学は、ボタンを一押しするだけで、自然の力を起動させる。神の子供たちは、天空の稲妻を活用して、この世界における主の御旨を完全に成就する方法を、学ぶべきではないのか?

アルキメデスは、シラクサ湾の船を焼いて、敵を打ち負かした。物語はこう続く。彼は、燃焼させるレンズを用いて、太陽光を集光して船に照射した。すると、船は炎に包まれたのである。われわれに必要なのは、神の力に人の必要を担ってもらうことだけである。そうするなら、敵の艦隊が灰燼に帰し、われわれの敵対者の諸々の計画が完全に無に帰すのを、われわれは見るであろう。

神の助けがあるなら、どうして人に頼る必要があろう?神がわれわれの戦いを戦って下さるのだから、どうして自分自身で戦う必要があろう?真の働き、何らかの価値がある働きは、神の力の働きがなくなると、やんでしまう。これは事実である。人の活動や人の努力は無価値である。神が退いてしまうなら、大義は失われる。われわれが前進する必要はないし、ましてや、音量や情熱を増す必要もない――そうしたことはどれも、何の意味もない。

野火や狂信から守ってくれるのは、ただ聖なる火だけである。モーセの杖は蛇に変わって、パロの魔術師たちの蛇を呑み込んだ。諸教会は狂信的な者たちで満ちている――霊性や絶対的敬虔さを恐れる、愚かで盲目な者たちで満ちている。

無知なおしゃべり者どもは、「聖潔を宣べ伝えることは狂信の所行である」としばしば言う。むしろ、聖潔を宣べ伝えることは、狂信を正す最大の方法である。聖潔は「愛と健全な思い」に満ちている。真に聖められた人は、素直で、おとなしく、求めにすぐ応じてくれる。

聖なる火だけが、地獄の火から守ってくれる。ある秋のこと、私はインディアンの領地を旅した。その時、この平野で人が身を守る最善の方法はマッチであると私は教わった――大草原で火事が起きた場合、唯一の安全策は迎え火を焚いて前方の草原を焼くことなのだという。一度火に焼かれた所は二度と焼かれることはない、というわけである。ペンテコステのバプテスマは、可燃性の籾殻で覆われたものをすべて焼き尽くし、心を二度目の攻撃から安全にしてくれる。兄弟よ、聖潔か地獄か、聖なる火か地獄の火か、どちらかを選びなさい。

火の柱は、イスラエルにとっては光だったが、エジプト人にとっては暗闇だった。それと同じように聖霊は、光を望む者たちに対しては鮮やかに輝く光であるが、光を拒む者たちに対しては暗闇である。二人の人が同じ会衆席に座っているかもしれないが、一人は説教によって養われ、助けと祝福を受ける一方で、他方は頭を掻いて「わけがわからない」と言うかもしれない。その人にとって説教はちんぷんかんぷんである。御霊はわれわれの道を照らして下さるが、われわれの敵を混乱させて困惑させられるのである。

いかなる条件に基づいて、この火はわれわれの上に下るのか?この問いに答えるために、カルメル山におけるエリヤの経験に向かうことにしよう。明確な間違えようのない方法で、ここにその条件が明示されていることがわかる。この預言者は、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシラの預言者が立ち会うべきことをイスラエルに要求した。主なるエホバの権威と神聖さに関する問題に決着をつけるためであった。エリヤは挑発して、自分の供え物を用意した。火をもって答える神を、すべての人が真の神と認めるようになるためであった。

いけにえは一頭丸ごとであった。その雄牛は丸々一頭であった。われわれが自分をまったく神にささげない限り、火による答えは決してありえない。心の中で少しでも保留するなら、この供え物の完全性は損なわれ、聖なる炎が下るのを遅らせることになる。「自分はすべてを祭壇の上に置いた」と多くの者が主張するが、それでも何の答えも受けない。たいてい、そのような場合、祭壇から差し控えたものが何かあるのである。一頭丸ごとの上に火を下すことを、神は約束された。人は、真に救いを欲するなら、その救いをすべて受けることができる。世界中どこでも、人々は自分の真の望みにしたがって神とその恵みを受けている、と言っても差し支えないであろう。

エリヤの供え物は、人に対する依存から、まったくかけ離れていた。人からのいかなる介入も阻止するよう、特に注意が払われた。「摩擦をうまく組み合わせることで、いけにえに火がついたのだ」と、誰にも言わせてはならなかった。分離する水が注ぎ出され、ついにすべてが水で湿ってしまった。次に、すべての人が祭壇から遠ざかって、火が出現した場合、その理由がまったく人によらないことが明らかになるようにした。われわれは、人の支援や助けからまったく離れ、火の到来を求めてまったく神に依り頼みつつ、自分を完全に祭壇の上に置かなければならない。

いけにえは徹底的に神にささげられた。エリヤは引き下がって天を仰ぎ、この件をすべて神に明け渡した。われわれは、お願いや嘆願をする時、徹底的でなければならない。神がわれわれの交渉相手なのである。われわれが望んでいるのは、神に受け入れてもらって、聖霊でバプテスマしてもらうことである。今、われわれは自分を「教会」や「働き」にではなく、神ご自身にささげようとしているのである。神がわれわれを所有し、支配し、用いなければならない。そうでないなら、われわれは神の知恵に最もかなうよう、じっとしていようではないか。

われわれは自分で個人的に求めなければならない。「私たちは(we)」「私たちを(us)」ではなく、「私は(I)」「私を(me)」という代名詞を用いよ。前者は曖昧模糊としていて不明確だが、後者は個人的かつ特別で、優れた効果がある。あなたの銃をすべて持って来て第一級の標的を狙え。弾を国中にばらまいてはならない。

火が下った時、火はいけにえを焼き尽くしただけでなく、人々の間の偏見や疑いをも葬った。火の奔流を見た時、会衆は「主こそ神である」と認めてひれ伏した。これを人々に認めさせるには、神の力の超自然的示威が必要である。敵対的な群衆がわれわれのまわりにいて、エリヤたちを嘲り、神の預言者たちや働き人たちをからかっている。法律の制定、法律、信条、文化、金銭、機械、そのようなものでは、決してこの世を納得させることはできない。火をもって答える神だけが、この祝福に満ちた結果を達成できるのである。

われわれには、講壇や会衆席の暗いろうそくを照らす火が必要である。われわれの総合大学や単科大学にこの神の火が下るなら、これらの学問の中心は燃えるリバイバルの中心になるだろう。その時、われわれの学校は、知識を頭に詰め込むことや悪人を訓練することに多くの時間を費やすかわりに、生徒たちの心を溶かしてキリストに似たものに造り変えることに多くの注意を払うようになるだろう。道徳的弱虫、騒がしい懐疑論者、蜘蛛のような足をした気取り屋やしゃれ男を輩出するかわりに、われわれの施設は内外の世界に魂を勝ち取る成功者の群れを送り出すようになるだろう。

最後に述べたいのは、火は突然下るということである。火は稲妻のように駆け巡って、ささげられた供え物の上に下った。徐々に聖められる人は誰もいない。主はその聖なる宮に突然臨まれる。聖められたことを証しして立つ、言い尽くせないほど多くの人がいるが、成長して聖めに達したとか、徐々に聖めを得たと告白する者は誰もいない。どの事例でも、その御業は瞬間的御業である。なぜなら、神は偉大な神であって、大いなることを一瞬のうちになさるからである。主を賛美せよ。