「そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノを選んだ。」(使徒六・五)
これがステパノに対する最初の紹介である。彼の出生地や幼少期、系図や学歴について、われわれは何も知らない。彼の政治的・社会的・経済的立場は何も告げられていない。彼の出身が五番街なのか、それとも、ボワリー街の外れなのかわからないし、スラム街なのか山の手なのかもわからない。彼のクリスチャン経験がただちに紹介されているわけではない。このことから私が思うのは、天が人の内に御覧になる最も重要なものはクリスチャン経験ではないということである。ただちに告げられているのは、ステパノは「信仰と聖霊に満ちていた」ということである。したがって、これが人を測る神の規準であるにちがいない。人々は自分の基準を持っている。彼らは自分で自分を測り、互いに比較し合う。しかし、神には神の規準がある。そして、人が神の測量線に沿って立つ時、人は自分が遠く及ばないことを見いだす。ある小さな少年が母親に「自分の身長は六フィート(feet)だ」と言ったので、母親は少年の発言に疑問を持った。そこで、少年は母親に「自分の小さな足(feet)ではかったんだもん」と断言した。人の自己評価はこのようなものである。これが人々が互いに評価し合うやり方である。自分自身の尺度にしたがって評価しているのである。しかし、神には一つの尺度がある。そして、われわれが神の尺度によって測られる時、われわれはまったく遠く及ばないのである。神には人に基準を満たさせる一つの方法がある。もし今晩、あなたが自分のクリスチャン経験に不足を感じているなら、嬉しいことに私はあなたに「神は一つの計画を持っておられる」と告げることができる。その計画により、あなたの不足は補われ、「神が自分を仕上げて満たして下さったので、神聖な期待にかなう者になった」という意識があなたの魂の中に芽生えるのである。
ステパノには二倍の割り当てがあったことがわかる。彼は二倍満ちていたのである。ほとんどの人は一倍満ちてさえいない。しかし、ステパノは「信仰と聖霊に満ちて」いた。信仰に満ちることと御霊に満ちることとをほとんど同一視するのは構わない。しかし他方で、間違いなくあるとき聖霊を受けたにもかかわらず、あまり信仰に満ちていないとても多くの人々がいる。ここにも、本来持っているべき信仰を持っていない人々がいる。
疑いや不信仰を口にするのをやめない限り、われわれは決して今以上の信仰を持つことはない。なぜなら、疑いを口にするなら、疑うようになるからである。不信仰を口にすれば、不信仰は手の上で成長していくからである。しかし、信仰を養うなら、信仰を励ますなら、ふんだんに信仰を持つようになる。信仰は神の賜物であるだけでなく、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による」。われわれはイエス・キリストを信じる満ち満ちた信仰を持つべきである。さらに大きなものを求めて信じるべきである。信仰により、われわれを脅かす最大の妨げの彼方を仰ぎ見るべきである。なぜなら、「信じる者に対して」「神には何でもすることができる」からである。
祝福を得るのは信じる人々である。主題は何でも構わない。例えば、救いが主題の場合、頭を掻きむしって疑う人々は決して祝福されない。聖めの問題の場合、境界線のあたりをうろついて、「自分はこれを信じない。あれを信じない」という人々は、大いに幸せになることは決してない。そのような人々がまったく無我夢中になって献身的愛情に満たされるのを、あなたが目にすることは決してない。神癒の問題の場合、「自分は信じない」と言ってばかりいる人々が、神癒から大きな益を受けることはない。祝福されるのは信じる人々なのである。
愛する人よ、あなたも私も信仰に富むべきである。不信仰を口にするべきではない。あるいは、神が御言葉の中で約束して下さったものに疑いを差し挟んではならない。
ステパノの「信仰」は知的に言っても、経験的に言っても、実践的に言っても正しいものだったことがわかる。さて、信仰が知的に正しいことには幾らかの価値がある。「誠実で正直である限り、何を信じても違いはない」とあなたたちに言う人々を私は知っている。正しい理解をもたずに聖化の中に転がり込む人々がいることを私は認める。しかし、心が正しくあり続けるなら、すぐに正しい理解が得られるようになる。真理を頭に入れておくことは価値のあることである。
この誤謬の時代、嵐のような時代、あなたも私も真理に根ざすことが大事である。そして、聖書を学んで、神の救いはわれわれの必要を満たせるほど大きなものなのかどうか、その治療法はわれわれの病を癒せるほど偉大なものなのかどうかを知る必要がある。人々は至る所で「そんなことはない」とわれわれに告げる。人々は至る所で「われわれに持てる最善のものは、罪を支配して屈服させる力である」とわれわれに告げる。しかし、すべての罪から救ってもらえることを聖書から見いだせさえするなら、われわれは幸先のよい始まりをしたことになる。これは価値あることである。
しかし、特にメソジストやクエーカーの中には、聖潔の問題に関して正しい理解を持っているにもかかわらず、その心が正しくない人々もいる。しかし、われわれの心を正せる一つの方法を神は持っておられる。ステパノは神の計画を見いだして、この祝福を見いだしたのである。われわれの中にも、神の計画を見いだして、ステパノと同じ祝福を受けた人々がいる。神の計画はあなたの心を正しくする。これは極めて重要である。なぜなら、心はあなたの家であり、あなたの住まいだからである。自分の台所や家や炉端周辺で正しい生き方ができるなら、そういう人々は一般的に言って、連れがいる時も行儀良く振る舞えるのである。
また、ステパノは実践面でも正しかった。彼は評判のいい人だった。歩みの正しい人だった。彼の頭の中に入ったものは心の中に収められた。彼は自分が宣べ伝えていることを実践した。近頃、人々は簡単に約束を破り、とても些細なことのために自分の言葉を守らない風潮があるが、どうかステパノに倣えるよう神がわれわれを助けて下さいますように!どうか神が信仰を実践できるようにして下さいますように!と私は祈る。
ステパノは聖霊に満ちていた。彼は人々の間で力強い業や奇跡を行った。彼には反対者が抵抗できない力があった。このような力が今日大いに必要である。彼には奇跡を行う力があっただけでなく、人々の口をとざす力、悪魔の鉄砲を止める力もあった。今日、このような力が必要である。神に感謝すべきことに、神はこの力を授けて下さる。われわれが指一本あげるまでもなく、神は悪魔の陣営を混乱に陥れる力をわれわれに与えておられる。われわれがなすべきことはただ、上って行って戦利品を取ることだけである。
ああ、愛する人よ、あなたが聖霊と火のバプテスマを得る時、それはあなたの頭を正すだけでなく、あなの生活をも正す。あなたを圧倒的で無敵な者にする力をあなたに与える。そしてこれこそ、説教者たちや助祭たちや聖職者たちが好まないものなのである。なぜなら、連中は扱いやすい民を望んでいるからである。「今いる権力者たち」は、管理しづらい祝福を受けている人々を見いだすと、ひどく狼狽してしまうのである。
ステパノの祝福に関して気づいた次の点は、当時、この祝福によって彼は教会の公的地位から締め出されず、かえってその職務が確立されたことである。彼が選ばれたのは、彼が「信仰と聖霊に満ちた」人だったからである。さて、このことから私はこう思う。もし今日の教会が、奉仕者を選ぶときにペンテコステの教会に従っていたなら、聖霊に満ちた人々を選んでいたであろう。聖霊と信仰に満ちた人々を選んでいたであろう。しかし今日、われわれの諸教会の当局や権力者たちは、ステパノの祝福を受けている人を、その咎のゆえに大いに軽視している。これを知らない人が誰かいるだろうか?あなたたちに言いたい。完全な救いの証し人や擁護者が教会の中で不評を被り続ける時、何かが根本的に間違っていて、改革が必要である。今日、ステパノの祝福を受けた多くの人が、奉仕に入る代わりに、奉仕から出て行っている。ステパノの祝福を得たために、多くの女性が婦人救済協会の会長職を失った。もはや教会の皿を乾かすことができなくなって、出て行かざるをえなかったのである。また、多くの男性が日曜学校の監督や聖書の授業の教師の地位を追われた。ステパノの祝福を得たからである。また、多くの哀れな説教者が森や不毛な土地の周辺に行かなければならなかった。ステパノの祝福を受けていたために有罪を宣告されたからである。そのせいで私の心は悲しい。この説教者のことを思うと私は嬉しい。それがこの人にとって益であることを私は知っているからである。しかし、民衆のことを思うと私は悲しい。民衆にとってこれは酷いことだからである。
あなたたちに言いたい。教会が救いを拒絶するような状態にある時、あなたの時間や金銭を費やして、そのような状況を促している場合ではない。神はあなたを祝福しておられ、あなたが望むなら、あなたはバンカー・ヒルのあたりを大声で行き巡ることもできる。しかし、もう何年も前にこの戦いは終わった。あなたが望むなら、あなたは誰もいない戦場で銃弾を浪費することもできる。しかし、私は最前線に行く。神がおられるところで、神が働いておられるところで、そして、悪魔と敵がいるところで、私は戦う。私は神と手を組む。
ステパノの祝福を得る時、あなたは今日あなたの視界を満たしているものが見えなくなる。そして、永遠のものだけが重要であることを見るようになり、世界が燃え上がっても変わらないものを求めるようになる。天の神は、他のすべてのものが倒れても立ち続けるものを、われわれに与えて下さる。
ステパノの豊かさに関して気づいた次の点は、この祝福が彼に勇気を与えたことである。彼は聖霊に満たされただけでなく、勇気に満たされた。世人の野次や攻撃にあっていたなら、それは英雄的なことだっただろう。しかし、彼と共に立つべき教会から攻撃されること、友たるべき人々に捕らえられること、誤解や曲解にあうことは、恐ろしいことである。しかしそれにもかかわらず、あらゆる種類の反対をものともせず、ステパノは立った。議会の前の彼を見よ!神の御霊が彼の上に臨み、彼は議員たちの良心に訴えて非難し、彼らの恐るべき犯罪を審議して裁いたのである。
神がステパノにお与えになったこのような英雄的資質が、今日大いに必要である。そして、ステパノの祝福を得る時、あなたは人々に立ち向かって、彼らを両目でまっすぐ見据え、全き真理を告げる勇気を得る。誰にも会わないよう通りを横切るような心地はしないであろう。あなたの動機に関する限り、それが公になって人々に知れ渡ることをあなたは望むようになる。あなたの心は天のように清いからである。また、あなたは人々に立ち向かうことを恐れなくなる。第二の祝福だけがそうならせることができる。
愛する人よ、教会を救うのは、この第二の祝福以外にない。世界を救うのはこれしかない。この妥協の時代に、われわれを救ってくれるのはこれしかない。快楽を求めて、決められた時間しか奉仕しない、安楽を好むこの精神――この精神が大部分の人を捕らえている――からわれわれを救ってくれるのは、これしかない。諸教会の中に入り込んでいる無関心と怠惰を殺してくれるのは、これしかない。第二の祝福はわれわれを勇気で満たし、神と共に切り抜けさせてくれるのである!もしこれを得ないなら、われわれはおしまいである。
ステパノの祝福に関して気づいたもう一つの点は、それが彼に大いなる知恵を与えたことである――この世の知恵ではなく、神から、天から来る知恵である。さて、知恵を短く定義すると、「適切に適用する能力を伴う知識」である。これこそステパノが持っていたものであり、人々が一般的に欲しがっているものである。しかし、「適切に適用する能力を伴う知識」――この国全体を見渡しても、これは極めてまれである。今日、人々は大量の知識を持っている。頭は知識で一杯だが、心は飢えているのである。
われわれは知識の適用の仕方を知らない。そのせいで、大量のエネルギーを浪費している。努力してもさっぱり実を結ばない。今日、活動とエネルギーは飛躍的に増加しつつある。しかし、この工場はあまり小麦を製粉していない。われわれの諸教会は、騒音、大騒ぎ、絶え間ない騒動であふれている。しかし、小麦が出て来るはずの所に行っても、何もない。神がわれわれを助けて下さいますように!小麦がまったく得られないなら、機械を動かして何の役に立つというのか?製粉用の穀物が得られないなら、製粉が何の役に立つというのか?利益が得られないなら、お金を投資して何の役に立つというのか?
さて、あなたたち、聖潔の民に言いたい。あなたたちは、患者を助けない医者にお金を払うことはしないし、裁判に勝てない弁護士にお金を払うこともしない。それと同じように、人々を救って聖めない説教者にお金を払うのは馬鹿げたことである。今や、神の民は注意すべき時である。支出に対して、裁きの火に耐えうる見返りが得られるようにするべきである。
(私は海外宣教を信じているが)私の金を海外宣教団に投資できない時が来てしまった。宣教士たちがペンテコステを経験していないのである。金銭を投じても、見返りがえられないのである。たった十パーセントしかえられない。私にはそれ以上必要である――百パーセント必要である。どこに自分の金を投じるのかというこの問題について、あなたは祈るべきである。神はあなたを祝福して下さり、あなたは十ドル投資するたびに一人の人を救うことができる。投資先が分からないなら、私があなたに教えることができる。少しすれば、一つの魂が大いなる価値を持つようになる。金銀が通りで役に立たなくなる時、一つの魂が大いなる輝きで輝くのである。今や、役に立つものに注意を向けざるをえない時が来ている。服装の見た目や役に立たないものに注意を向けてはならない時が来ている。神はあなたを祝福して下さる。私は続々と魚に直面している。私は空っぽの網を持って戻るよりは、むしろ――それで魂が得られるなら――オタマジャクシや、時には嫌な奴でも得たいのである。
ステパノは人々に罪を認めさせる祝福を受けていた。人々の顎に留め金を付けて、いにしえのサンヘドリンを歯ぎしりさせて怒らせる祝福を受けていた。他方、その間、この同じ祝福が彼を優しいままに保ったのである。悪魔を怒らせることと、悪魔を怒らせた後に自分を優しいままに保ってくれる祝福を受けることとは、まったくの別問題である。私はある人々を知っている。彼らは悪魔を怒らせるが、悪魔も彼らを怒らせるのである!
この知恵を受ける方法は、ハーバードやエールといった方法よりは、むしろ神を待ち望むことによる。学びによるよりは、むしろ献身による。ささやかな何も知らない人々、喜んで無知のままでいようとする人々に、この知恵は臨む。大がかりな調査をしてもこの知恵は得られない。この知恵は、時として、子供に啓示される。私は、ある十歳の子供を見たことがあるが、その子供は司教団全員を凌ぐ知恵を持っていた。私は、スラムや居酒屋から連れ出され、聖められて説教者になった人々を知っている。私が不在の間、ペンテコステを経験していない神学博士や法学博士よりも、むしろ彼らに私の働きを導いてもらいたいものである。
私はステパノが好きである。彼に会ったら、そう言うことを心待ちにしている。彼は長生きしなかったが、生きている間に足跡を残した。私は、九百九十九年間不活発で役に立たないままぶらつくよりは、むしろ、三ヶ月間宣べ伝えて死に、それからステパノのように天に行きたい――本当にそうしたいものである。私は神にこう告げた、「平凡なクリスチャン以上の者になれないなら、何にもなりたくありません」と。私は信じているが、神はわれわれに平凡なクリスチャン以上の者になってほしいのである。神聖な性質に満ちた者に、圧倒的な者に、手に負えない者に、悪魔自身でさえどうしようもない者に、小鬼どもの全軍勢と戦って道を切り開き、とにかく勝利を得る者になってほしいのである。
この祝福がステパノに及ぼしたもう一つの影響に注意せよ。この祝福により、彼の顔は輝いたのである。議会の前の彼を見よ!彼の顔はまったく天使のように見えたのである。神がそうなさったのである。神は公の場でご自分の民の顔を輝かせるすべを心得ておられる。あなたたちはこのような民を知っているであろう。その人々は、最初は地味で見栄えが悪いように思われるが、彼らの生活ぶりを知って、彼らの歩みがどれほどイエス・キリストの模範に従ったものであるかを見る時、本当に美しく見えるようになるのである。この輝きは、天が上からステパノを照らしたものであるだけでなく、彼の魂から真理が輝き出たものでもあったのである。
よく磨くには硬い木が必要である。あなたたちは知っているだろうか?当時、神はスラムに行き、ごろつきどもを得て善良な人々にし、天使や悪魔を驚かせることになる輝きを帯びさせたのである。われわれはフレスコ画の描かれた教会の中でクッション付きの会衆席に座していて、あまりにも善良すぎるせいで、スラムに行って人々をすなどろうとしない。また、自分よりも少し身分の低い人が傍に来ると、身を引いてしまう。しかし、もし神の本当の姿を知っていたなら、神のためにそのような人々を助けられることを感謝するはずである。高慢を焼き尽くす火、争いや自己愛をすべて焼き尽くす火を通ったことがないなら、あなたは良きメソジスト、良きクエーカー、良き新約クリスチャンに達していない。
さて、ステパノの経験の頂点に来ることにする。それは愛の祝福である。天に行く前のステパノについて私が知っている最後のことは、彼が敵のために祈ったことである。石の雨の中で、輝く顔と愛の心とをもって、彼は敵のために神に叫んだ。これは自分を忘れさせる愛であった。石が彼の肩を打ち、頭の横に当たったが、この愛がその傷を忘れさせたのである。この愛は、自分の傷を忘れさせて、自分に石を投げる人々のために祈らせる愛だったのである。
もし幸運にもステパノの祝福を受けるなら、この祝福は特にこの点であなたをステパノのようにする。そのため、人々があなたに反対してありとあらゆることを言ったとしても、あなたは天を見上げて、「神が彼らを祝福して下さいますように」と言えるようになる。そうできない限り、「聖められた」と言っても仕方がない。愛していない人が一人でもいるなら、あなたはステパノの祝福を受けていないのである。話したくない人が一人でもいるなら、あなたはステパノの豊かさを何も知らないのである。あなたのことで嘘をついた人々がいて、その人々のことを快く思わないなら、あなたはステパノの祝福を受けていないのである。この世は、ステパノの祝福を受けている人々を叫び求めている。自分の庭のゼラニウムに近づく際、あなたは許しを得ようなどとは決して思わないであろう。それでも、ゼラニウムはお返しとして、甘い香りをあなたに降り注いでくれる。ああ、善をもって悪に報いることができますように!そうなるとき、人々がわれわれに近づいてわれわれを傷つけても、われわれは天の芳香を彼らに降り注ぐことができる。ステパノはこの祝福を受けていた。われわれも受けるべきである。聖霊と火のバプテスマを受ける時、われわれはこの祝福を受ける。傷ついて怒りを感じる代わりに、たとえすべての人が自分に反対していたとしても、われわれはひたすら祝福を降り注ぐようになるのである。
イエス・キリストがステパノのような人を御足下に引き上げて天に迎えられたのも不思議ではない。キリストが立ち上がってステパノを天空にお迎えになったのも不思議ではない。もしあなたがステパノの祝福を受けて、ステパノの生活を送り、ステパノのように死ぬなら、イエス・キリストは立ち上がってあなたを迎えて下さるであろう。
神は、人がご自分を嘲るようにはなさらなかった。ステパノの祝福に対する願いを心の中に与えておきながら、この祝福を与えることを拒むようなことを、神はなさらない。神は他の人々になさったのと全く同じように、あなたにもして下さる。あなたがその要求と条件を満たすなら、神は今そうして下さるのである。アーメン!
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