「われわれのうち、誰が焼き尽くす火の中にいることができよう。われわれのうち、誰がとこしえの燃える炎の中にいることができよう?義しく歩む者、正しく語る者、しいたげて得た利を蔑む者、手を振って、賄賂を取らない者、耳をふさいで血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪を見ない者。このような人は高い所に住み、堅い岩はそのその砦となり、そのパンは与えられ、その水は絶えることがない。」(イザヤ三十三・十四〜十六)
聖書は物語の本や、かつて書かれた最高の愛の物語であるだけでなく、絵本でもある。聖書は絵図に満ちている。神の絵図や天の絵図、悪魔と地獄の絵図、聖徒と罪人の絵図、この世とその運命の絵図がある。われわれは絵図が好きである。ほとんどの人は自分の肖像画を好む。肖像画の見栄えがいい時は特にそうである。しかし、神の御言葉の絵図の中には、もともとわれわれが好きでないものもある。
ローマ人への手紙の第三章を読んだことのある人はほとんどいない。ローマ人への手紙の第三章の部分が汚れている聖書をあなたが見たことがあるのか、私には疑問である。説教者がこの章から引用するのはきわめてまれである。この章にわれわれは自分の肖像を見る。あえて推測すると、われわれがこの肖像を好まない理由は、それがあまりにもわれわれに似ているからである。しわやしみが取り除かれていないのである。
神の御言葉の中からあなたたちに読んだこの言葉に、われわれは聖徒像を見る。この像を好まないとても多くの人々がいる。あまりにも違いが大きすぎて、この御言葉によって罪に定められてしまうからである。しかし、後で真実を知るよりは、いま知った方がいい。あなたも私も、どこかでこの真実に触れるようになる。真実の姿に直面するようになる。私は、死の喘ぎ声をあげる時にこの事実に直面するよりは、むしろいま直面したい。自分の実際の姿と、実際の必要と、神の実際の治療法を知るのを、この世が火に包まれる時まで先延ばしにしたくはない。今、知りたいのである。
私はあなたの注意をこの肖像に向けさせたい。なぜなら、神がこの肖像を描かれたのであり、この肖像は良いものだからである。御言葉は「義しく歩む者」と述べている。これはもっぱら、この人のこの世に対する関係、この世との交流と関係しているにちがいない。この人は頼りになる人であり、その言葉は債権のように確かである。「やる」と言えば、必ずやる。特定の日に代金を払うことに同意するなら、その時に代金を払うし、払えない場合は、その場に来てその理由を説明する。一ドルに対して百セント払うだけでなく、一ポンドに対して十六オンス、一ヤードに対して三十六インチ、きちんと払う。商売で詐欺を働かない。商売において実直で正しいだけでなく、遊びや教会の仕事でもそうである。この人は曲がった道を造らない。「義しく歩む者」。この人は前を見て、まっすぐ前に進む。さて、この説教の中には、あなたが叫ばなくてもいい箇所もある。しかし、「何よりも義を叫び求める地点に私をもたらして下さい」と私は神に求めている。
もしわれわれの歩みが義しくないなら、叫んでもあまり効き目はない。義を叫び求めることができるようにならない限り、叫ぶのをやめたとしても、たいして損失にはならない。自分の負債を払わず、払おうともしない人々、食料品のつけを目一杯溜め込んで、小銭を持ってよその店に行って買い物をし、何週間も信じて支払いを待っている店主に背を向けている人々よ。あなたたちは、義しく歩めるよう救われるまで、叫ぶのをやめるべきである。
御言葉に出て来るこの人は、電車が混んでいて、車掌が自分に気づかなかったからといって、「ただで電車に乗ろう」とは決して思わない。車掌が切符を回収しなかったからといって、同じ切符で電車に二度乗ろうとは決して思わない。この人は車掌を見つけて自分の切符を渡す。「義しく歩む者」。このような人がどこかにいる。この人の肖像を私は持っているからである。私はこの人を捜している。神がこの人の肖像画を私に下さったのである。神はこのような人を造り上げることができると、私は信じる。
この聖徒について私が気づいた次の点は、この人の話しぶりである。「正しく語る者」。つまり、この人はうそをつくのをやめたのである。話す時は必ず、真実を語る。真実だけを語る。常に真実を語る。この人が説教者なら、この人はうそをつかない。祭壇にはほとんど二十名もいなかったのに、「四十名いた」などとは言わない。この人が説教者なら、この人はうそを書かない。二百二十五名以下の出席者しかいなかったのに、「集会には六百人から七百人参加した」などとは言わない。この人が編集者なら、そのようなうそは決して出版しない。この人が編集者だったのかどうか、私にはわからない。この人が何者だったのか、私は知らない。しかし、私はこの人の肖像画を持っている。それに聖書は、この人は「正しく語る者」であると述べている。
今日、神がわれわれを誇張や嘘から救って下さいますように!リバイバルや、多くの人が続々と救われているのを聞くと、私はいつも嬉しい。しかし、私は嘘の報告を聞いても嬉しくない。三百人から四百人の人々が回心したという報告を聞いて、三十日たってからその場所に行ってみると、回心者が十数名も見つからないのである。この人は報告を歪めるような人ではない。「正しく語る者」である。愛する人よ、人生のほとんどは言葉から成っていることを、あなたはご存じだろうか?聖書の記者の一人が「言葉で過ちを犯さない人は完全な人である」と述べたのを、あなたはご存じだろうか?口で正しく述べることが極めて重要であることを、あなたはご存じだろうか?「おしゃべり」の罪からの救いが極めて重要であることを、あなたはご存じだろうか?
この人は噂話をするような人ではない。私は噂話を口にすることができないが、噂話というと人々はすぐに女性のことを思い浮かべる。しかし、私が知っている最大の噂話のいくつかは男性によるものである。この人は、面と向かって言えないことを、人々の背後で話すようなことをしなかった。しかり、そんなことはしなかったのである。あなたはそうしているが、この人はしなかった。面と向かっては話しにくいことを、あなたは人々の背後で話してきた。しかしここに、公正、厳格、誠実で、「正しく語る者」がいる。
近頃、軽口がとても多い。私は言いたい。軽口や、中身のない軽薄な話や、暖炉や食卓での陰口が、この国の霊性を損なっている。神があなたを祝福して下さいますように。近頃流行っている中身のない軽口に耽るよりは、古風なクエーカーのように黙っている方がいい。人々の絶え間ないおしゃべりには、むかつくし、気分が悪くなるし、うんざりである。多くのお茶会や親睦会の会話を記録してみよ。そうするなら、その会話の恐ろしさが紙面上で明らかになるだろう。
神がわれわれを屑から、中身のない会話から救って下さり、浅薄な馬鹿げた軽口から救って下さいますように!説教者たちも時としてこれに耽ることがある。今日、人々は隊列を組んで地獄に向かって行進している。冗談を言ったり、悪ふざけをしたり、馬鹿笑いをしている時間は説教者にはない。野外集会や特別集会である人々がしているように、グループ毎に陣形を組んで座って、面白い小話をする時間はない。あなたたちに言う。笑う代わりに泣く預言者や説教者がもっとたくさん必要な時が来ている。当世の陰口や噂話を扱う代わりに正しく語る預言者や説教者が必要である。あなたが中身のない話をするのは、あなたに中身がないからである。あるいは、あなたに中身があったとしても、中身のない話をしばらくするなら、あなたは中身のない者になってしまうだろう。あなたが中身のない話を読むのは、あなたに中身がないからである。あるいは、あなたに中身があったとしても、中身のない話をしばらく読むなら、あなたは中身のない者になってしまうだろう。今日、軽薄なものがあまりにも多い。神がわれわれを助けて下さいますように!「正しく語る」人!ああ、真実を告げてくれる人のゆえに、その言葉が頼りになって重みがある人のゆえに、神に感謝せよ。
また、この人は「耳をふさいで血なまぐさいことを聞かない者」であることがわかる。この人は殺人小説を読まなかった。御言葉がそう述べており、私は御言葉から説教している。私が聖書を書いたわけではないし、その責任が私にあるわけでもない。しかし神が、「耳をふさいで血なまぐさいことを聞かない」人の肖像を私に与えて下さったのである。この人は明らかに、戦争の話や、殺人裁判や、姦淫事件に対する嗜好を失っていた。この人は耳をふさいで、そのような話を聞こうとしなかったのである。
あなたはわかっておられるだろうか?この国の新聞が、あなたの客間の応接机を下水槽に変えるようなことがあってはならないし、今のように地獄からの嘔吐物を吐き出すようなことがあってはならないのである。あなたは自分の娘たちや家族を清く保たなければならない。あなたがこれに噛みついても噛みつかなくても、私は気にしない。実のところ、われわれは新聞の形で人々を家族の中に迎え入れて、応接机に座らせているのである。その人々は、われわれの清らかな娘たちと他のいかなる方法でも関わらせたくないような連中なのにである。われわれのみだらな都市の通りを歩いている極悪人が、われわれの家の中に入って来て、家族に嘲りの言葉を浴びせている。あなたがそのようなものに耽った結果、あなたの息子たちや娘たちはあなたの指から滑り落ちて、不法の下水槽に陥ってしまう。その時になって、あなたは伝道者である私のところにやって来て、「子供たちが救い出されるよう祈って下さい」などと言うのである!
ここに、耳をふさいで血なまぐさいことを聞かない者がいた。この人はそのような類のことに耽らなかった。私が話し終える前に、この人は自分の耳を他のことに用いたのであり、他のことを大事にしていたことがわかるだろう。神の御声を聞きたいなら、この世のありとあらゆる声で自分の耳を汚すことはできない。
膨大な語り声で満ちている時代にわれわれは生きている。快楽の声が私の耳を満たすことを欲している。金銭の声がやって来るし、地位の声が聞いて欲しがっている。この世の声が要求を突き付ける。教会主義の声が私を呼んでいる。カトリック教やそのような類のあらゆるものが、耳を傾けるよう私に求めている。聞くおそれのある声がたくさんある。しかし、神の御声を聞くには、私は耳をふさがなければならない。この人はそうしたのである。
この人について気づいたもう一つの点は、この人は「目を閉じて悪を見ない者」であることである。彼が悪を見ようとしなかった理由は、悪に陥ることを恐れていたからというよりは、むしろ、汚されたくなかったからである。この国の下品な連中がわれわれの都市にやって来て、極めて不愉快な絵を掲示するかもしれない。そして、ほとんどの説教者は抗議の声をあげないかもしれない。その結果、あなたの娘は、下品な絵を見るよう誘惑されずに通りを歩くことがほとんどできなくなるのである。
しかし、こうしたものに目を閉ざす人の肖像を私は持っている。酒場を通る時に何度も目を閉ざした一人の人を私は知っている。この人がそうしたのは、危険だったからではなく、そのようなものを忌み嫌っていたからである。愛する人よ、見えるものすべてに目を留めながらこの世を通行するなら、あなたは間もなく、良いものが何も見えなくなるだろう。太陽を五秒間見つめるなら、どこを見ても太陽が見えるようになる。目を閉じて悪を見るのをやめ、神の御子を見よ。そうするなら、間もなく、あなたはどこを見てもイエスが見えるようになるだろう。この人について気づいたもう一つの点は、この人は「手を振って、賄賂を取らない者」であることである。この人を買収することはできない。この人は賄賂を取らない。この人に袖の下は決して通用しない。彼には確固たる確信があり、自分の確信に従って立つ十分な勇気がある。地上の人々や地獄の悪魔どもといえども、この人に自分の立場を撤回させることはできない。今日、とても多くの人々が買収されている。法廷は買収されており、立法府は買収されており、議会は買収されている。選挙は賄賂によって支配されている。
罪がこの国でまかり通っている。あなたは弱いせいで、それに対して声を上げることができない。しかし、ここに買収できない一人の人がいた。今日、説教者たちは買収されており、聖職者たちも買収されている。そこにはある裕福な人が座っている。この人は酒商売の卸売業に興味を持っていて、自分の金で聖職者や説教者に影響を及ぼしている。そして遂には、この説教者は「ユダヤ人」についての箇所以外から説教するテーマがなくなってしまうのである。この国の十人中九人の聖職者がこのように買収されていて、あえて今日の罪に反対して語ろうとしない。あなたも、説教者も、神も、悪魔もこれを知っている。皆がこれを知っているのである。
しかしここに、買収できない人がいた。人々は「食料を取り上げてやる」と脅して、この人を脅迫したが、真理の宣べ伝えをやめさせることはできなかった。人々がこのように私を脅した時のことを私は思い出す。私はこう言ったのを思い出す、「アサリの貝殻とじゃがいもの皮で生きていかなければならなくなっても、私は真理を宣べ伝える」。
私はあなたに言う。この国には神に対して真実で忠実な人々がいる。この人々は賄賂を受け取らない。金のために働くことをしない。後退した教会の食物なしで生きていける。ここにそのような人がいたのである。神のカラスは死に絶えたわけではないことを、この人は知っていた。神は多くの丘の上に牛を所有しておられること、また、いつか狭苦しい場所に入ることがあっても、神は牛を殺してその後四半身を送ってくれることを、この人は知っていたのである。、
「手を振って、賄賂を取らない者」。誰かに脅迫されても、この人にとっては、それがかえって何よりも好ましい刺激となったのである。誰かに「真理を宣べ伝えるのをやめないなら、『左遷』されてしまうぞ」と言われても、それは彼にとって、むしろ何よりも好ましいことだったのである。そうした脅しは、前にもまして力強く宣べ伝えるよう彼を促したにすぎなかった。ああ、この国の束縛!議会にある輩が座っていたとしよう。その人が、私の頭上で鞭を鳴らし、何を宣べ伝えるべきであり、何を宣べ伝えてはならないかを私に告げて、「従わないなら支援してやらないぞ」と言ったとしたらどうだろう!
ここにまっすぐ進んだ人がいた。彼はいつもまっすぐに進んだ。彼はまっすぐ歩み、まっすぐ語り、まっすぐ説教し、まっすぐ生き、疑わしいいかなるものとも関わろうとしなかった。彼は全く潔白な人だった。今日、神がわれわれを助けて下さり、三つの世界の中で、われわれが何者なのか、どこにいるのか、どこに属しているのかを、人々が知るように歩ませて下さいますように!私は人々に知ってもらいたい。天にいることを知ってもらいたいし、地獄にいることを知ってもらいたいし、シンシナティにいることを知ってもらいたい。私が「羊皮協会」に属していて「この世はそれにふさわしくない」ことを知ってもらいたい。私は、私の邸宅の用意が整うまで、喜んでテントや穴などに住む。私の邸宅はほとんど用意が整っている。最後の僅かな仕上げを待つばかりである。この人について触れたい次の点は、その住まいである。もし義しく歩み、正しく語り、耳をふさいで血なまぐさいことを聞かず、目を閉じて悪を見ず、あらゆる汚らわしいことから手を洗うなら、そのような人がどこに住むのかを知りたい。この書は、「このような人は高い所に住む」と私に告げる。ああ、神に感謝せよ!このような人は山頂に住んで、山の景色と空気と陽光にあずかるのである。マラリヤや、川煙や、低地の瘴気を足の下にしていたのである。この罪深い世の埃や騒音や大騒ぎを足の下にしていたのである。空が澄んでいてすべてが静穏な所に生きていたのである。この人の足下で雷が轟き、雲が逆巻くこともあるかもしれないが、この人のいる所では常に太陽が輝く。この人がいるのは、決して太陽が沈まないところ、永遠に花が咲いているところ、聖徒が決して死なないところなのである。
「クリスチャン経験の山頂に絶えず生き続けることはできない」と人々は私に言う。しかし、それが出来た人がここにいる。私は信じているが、この人にできたなら、われわれにもできる。「このような人は高い所に住む」。このような人がかりに谷間に降りて来ることがあったとしても、それは他の誰かを連れ上るためだったにちがいない。彼の家は高い所にあった。火の中から誰かを救い出すために降りて来ることも数回あったかもしれない。しかし、その住まいは山頂にあった。ああ、クリスチャンの山頂経験のゆえに神に栄光あれ!
この優れた人に関して気づいた次の点は、この人はこんなに高い所にいたのに全く安全だったことである。「堅い岩はその砦となり」。「高度な経験は危険である。あまり高く上ると落ちてしまう」と人々は言う。第一に、そのように言う人々はこの経験の逆説を理解していない。すなわち、クリスチャン経験においては、落ちるおそれのない高みに至ることができるのである。ただし、これは正しい場所にとどまるならの話である。われわれは下ることによって上る。人が遥か高く上るのは、顔を岩につけている時である。顔を岩につけているなら、落ちるおそれはない。転がることしかできない。危ないのは、顔を岩につけていない人々である。その場所では安全である。なぜなら、「とこよの岩」、かたい岩が砦になってくれるからである。頑丈な人でも安全とは限らない。安全な場所にいるから安全なのである。
私は人生で今ほど弱っていることはなかった。しかし、私は堅固な所にいる。私は宇宙を御力によって保っておられる方に懐かれている。諸々の世界を生じさせた力によって保たれている。今ほど自分の弱さを感じることはなかったが、他方、主が私を天のエンジンにつないで下さっていることも感じている。私が倒れるのは御座が倒れる時だけである。私は信じている。引き返すよりは別の道を進む方が楽な地点に至ることは可能である。「神聖な引力」が私をこの別の道に引き寄せているのを私は感じる。この引力は私を天の港に連れて行くまで働き続けると、私は考えそうになる。ああ、何と安全なことか。自分自身による安全ではまったくない。われわれを保って下さる神の御子イエス・キリストによる安全である!「ウサギはか弱い生き物だが、その巣を岩の上に造る」。ウサギにそうできるなら、間違いなくわれわれも砦のための堅い岩を持つことができる。そして、第二の祝福を受ける時、われわれはこの堅い岩を得るのである。
次に気づくのは、「そのパンは与えられ」ることである。与えられる!パンのために働く必要はなかったのである。ああ、考えてみよ、何と安心なことか!主のために働くなら、主がパンを与えて下さり、しかも注意深くその両面にバターを塗って下さるのである。飢饉に見舞われることはない。熱波が来てもいつ来たのかわからない。ウオール・ストリートの混乱を遥かに超越して生きているので、金が値上がりしても値下がりしても関係ない。必要なものはすべて確保されている。神に感謝せよ。
「その水は絶えることがない」。彼は純粋な燦めく山水を飲む。その井戸は決して干上がることがない。ご存じのように、雨期しか水がないとても多くの人々がいる。彼らの宗教は「雨期の宗教」である。リバイバル真っ盛りの雨期に救いを得るが、乾期の働きが進行している時にはあまり関心を寄せない。その時、彼らの宗教は役に立たない。ここに「その水は絶えることがない」一人の人がいた。彼は毎年三百六十五日、豊かな生活を送った。神から食物を受ける地点にわれわれが達する時、いと高き神は人々を用いてわれわれに供給して下さり、われわれはその供給を神からのものとして受ける。供給が多くても少なくても、われわれはその供給のゆえに感謝する。神が私の魂を聖めて下さった時からこのかた、私は自分が得たものに不平を鳴らしながら集会を去ったことは一度もない。私は切符代を払う金を常に持っていたわけではないが、神に感謝すべきことがいつもふんだんにあったのである。
悪魔はこの国の至る所で「正しいことを行うなら飢えるようになる」と人々に告げている。私の会衆の中にある一人の紳士がいる。彼は自分の店でタバコを売る罪を悟るようになった。悪魔や教会の連中の数人が、「タバコを売るのをやめたら、飢えてしまいますよ」と彼に言った。しかし、彼がタバコを自分の店からなくしたところ、タバコなしでも彼の商売は順調にいっている。神が彼に報いて下さったのである。
妻と私がボストンの特別集会で手伝いをしていた時、一人のパン屋が祭壇にやって来て、まったく聖められた。彼は、土曜日の午後にパンを焼いてそれを日曜日の朝に売ることを常としていた。しかし聖められた時、彼は自分の家に帰って、「もう日曜日にはパンを売らない」と妻に告げた。妻は「あなたは愚か者よ」と言ったが、彼は「私は神と共に歩むつもりだ」と返答して、「日曜日はパンを売りません」という看板を造って掲示した。土曜日に彼は妻に、「自分はこれまでと同じ量のパンを焼くつもりである。神はそれをみな私のために土曜のうちに売って下さると、私は期待している」と言った。すると、土曜の晩にはすっかりパンが売り切れたのである。彼はそのように行い続けた。そして、神は彼のためにパンを売って下さったのである。「キリスト教の諸々の原則に基づいて商売をすることはできない」というのは悪魔の嘘である。商売は可能だし、神と共に歩むことも可能である。正しいことを何でも行うことは可能なのである。
「彼は麗しい王を見る」。この人は後にあるものを見ることを拒んだことを、あなたは覚えているだろう。少し前に彼の目は閉ざされたが、今、彼は麗しい王を見ている。当時、彼は耳をふさいだが、今、神の御声を聞いている。王が彼の視界を満たし、それより暗い光は輝きを失いつつある。彼は世人の頭上の彼方を見つめて、遥か遠くにある国を仰ぎ見たのである。
この人は何という聖徒だったことか!これは何故か?まったく聖められていたからである。ペンテコステを受けていたからである。第二の祝福を受けていたからである。あなたがこれを得る時、これは彼にしたのと同じことをすべてあなたにもしてくれる。あなたの歩みを正し、会話を制御し、耳をふさぎ、目を油塗り、両手を清め、パンと水を確保し、悪魔の近づけない住まいを与えてくれる。キリストと共に神の中に隠されている命!ああ、この命は素晴らしい!あなたもこの隠された命を得ることができる!悪魔から遠く離れて、安全な場所を見つけることができる。あなたは今、この隠された命を欲しくないだろうか?
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