「このように、あなたたちは主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩みなさい。彼の中に根ざし、彼にあって建て上げられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるほどに感謝しなさい。」(コロサイ二・六〜七)
この節の中から、「彼の中に根ざし、彼にあって建て上げられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるほどに感謝しなさい」という箇所を用いることにする。この箇所から四つの思想がわかる。第一は、クリスチャンの密かな、目に見えない、隠された命である。第二は、教えられたように確立されることである。第三は、クリスチャンの目に見える、外側に現された生活である。第四は、あふれるほどに感謝することである。
この外側に現された生活は諸々の秘かな力による。実や枝葉で一杯の、雲にまでそびえ立つオークの木を見よ。「皆が知っているように、この木の実際の命は目に見えない」と人は言う。この木の実際の命は地面の下にある。地中深くで、その根が岩や泉に巻き付いているのである。目に見えるものは、隠されているものによる。聖霊はクリスチャン経験のこの事実を知っており、この箇所にそれを記されたのである。外側に現されたクリスチャン生活はみな、神の中にキリストと共に隠されている隠れた命、秘かな命、正しい命にまったく依存しているのである。
もしわれわれが目に見えるものしか持っていないなら、そんなものは無価値である。われわれの外側の生活は良く見えるかもしれないが、もしそれに根がないなら、何の役にも立たない。今日――綿のひもで結ばれた――クリスマス・ツリーの実のようなものを、われわれはたくさん見かける。クリスマス・ツリーは決して成長することがない。根がなく、秘かな目に見えない命に支えられていない。神が御言葉の中ではっきりと教えて下さっているように、正しい、内なる、隠れた命を持つことが極めて大切なのである。
成長して高くなりたい人や、成長して広がりたい人はとても大勢いる。しかし、深く成長するための条件に服する人はほとんどいない。しかし、深く成長しない限り、高く成長するのは安全ではない。安定器がないなら、海で帆を広げることはわれわれにとって滅びを意味する。時流はてっぺんで広がることであり、ほとんどの人は種を蒔きに出かけている。この御言葉は「根ざす」ことから始まっている。頂点や、うわべや、見せかけは十分にある。われわれに必要なのは、基礎を据えることと根ざすことである。われわれは下にある岩や泉をつかむ必要がある。そうするなら、嵐にも耐えられる。
使徒的宣べ伝えに立ち返っていたなら、使徒的認罪が生じ、続いて使徒的回心が生じていただろう。回心者たちは地面に「突き刺される」代わりに植えられていただろう。教会に付け足されたり、加えられたりする代わりに、神の家の中に植えられていただろう。教会に人々を加えることと、人々を主にもたらすこととは、別問題である。教会に加えられた人はとても大勢いる。彼らの名は毎年勘定されているが、彼らは決して主に加えられていないのである。
外側の生活で良く見えるものは、それが正しい内なる命の指標である時だけ、価値を持つ。われわれがどのように見えたとしても、また、われわれが生活の中で何を公言していたとしても、もしそれが神の中にキリストと共に隠されている命の合理的所産ではなく、とこよの岩に根を張っていないなら、無価値であり、無以下である。しっかりと根を張るなら、人々は最初からよく耐えることができる。新約聖書の水準にしたがって生まれた若い回心者たちは、多くの迫害に耐えることができるし、大嵐にも耐えることができる。それだけではない――正しく根を張っているなら、嵐は妨げになるどころか助けになるのである。嵐によってその繊維は強まり、その葉は前よりも青々としたものになるのである。
かつて私は西部で材木業に携わっていた。とても重たい材木を扱ったものだった。私は木の年輪を数えることにずっと興味を抱いてきた。コロンブスがアメリカを発見した時に五十歳や百歳だった木を見つけたことも時々ある――五百年の夏期のサイクロンや、凍えるような寒さや、五百年の冬期の寒い北風に耐えた木である。しかし、その木の主根は深く潜って水に届いていたのである。その根はずっと下まで伸びて、下にある岩や泉に根を張っていたのである。だから、嵐がやって来ても、少しだけ岩をしっかりとつかむだけで済んだのである。
台車の材料の棒が欲しいことが時々あったのだが、私はそれをどこに探しに行ったか?森の中心まで行ったことは一度もない――自分の周囲の木に同情を寄せて保護していた木を取ったことは一度もない。私は森の端に行った。さらに望ましいのは、開けた野原で育った木を選ぶことだった。開けた野原では、木は自分のことだけを顧みていたからである。そこで私は最も頑丈な枝を見つけたのである。私が目撃したようにあなたも目撃していたなら、その木の頑丈さにあなたは驚いただろう。その木は、枝が地面につきそうになるくらいしなった後、元通り真っ直ぐになったのである。その木は暴風雨にさらされるとしなり、しかし、サイクロンが過ぎ去ると元通り真っ直ぐになったのである。それによって、嵐の前よりも木繊維は強くなり、葉は青々としたものになったのであった。
私は正しく根を下ろしている一人の善良な人を知っている。暴風雨がその人を打つのを私は見た。その人がしなるのを私は見た。批判者たちが「彼は倒れるだろう」と言うのを私は聞いた。「それみたことか」と人々が言う用意をしているのを私は見た。しかし、彼は回復したのである。暴風雨にさらされると、またしなり、人々は「彼はおしまいだ」と言う。しかし、嵐が過ぎ去ると、この人は元通りまっすぐになって、前よりもクリスチャン繊維が強まり、葉は青々としたものになって、麗しい信仰を持つようになるのである。あなたが正しく根を張るなら、嵐があなたを傷つけることはない――むしろ益になる。有益な昔ながらの健全な迫害は、自分がどこにいるのかを見いだすよう、われわれの民を促してくれる。健全な迫害という有益な嵐に耐えられていたなら、あなたは自分がどの場所にいるのかを地理的に特定できていただろう。
ああ、根を下ろしている人々が必要である!今の時代、人々は頭でっかちで、学校は頭に知識を詰め込むばかりで心を飢えさせており、人は利口さによって評価されている。また、話術や雄弁さが求められており、話を聞いてもらうには流暢な言葉使いと美辞麗句が必要である――このような時代にあって、われわれが必要としているのは、神の事柄に根ざした堅固な基盤である。
ダニエルは根を張っていた。彼は環境に服して、地中深く成長した。それで地獄の嵐に耐えられたのである。彼は地獄の砲撃の打撃に耐えることができた。彼は立つことができた。地獄の軍勢に抵抗できただけでなく、不法の潮流を跳ね返すことができた。神は常にこのような人を数名持っておられる。どうか神がその数を増やして下さいますように!愛する者よ、もしあなたが根を下ろしているなら、誰かがあなたを非難するたびに、萎れた葉っぱのように「縮こまる」ことはないだろう。誰かがあなたを批判するたびに、しおれることはないだろう。そうではなく、前よりも少しばかり大きな声で叫び、歌うだろう。試練がわれわれの益となる地点に、主なる神はわれわれをもたらして下さるのである!
この御言葉で次に気づいた点は、確立する恵みである。「確立されて」。さて、ギリシャ語学者は私に告げる――私はギリシャ語学者ではなく、私が修得した言語は「カナンの言語」だけである――しかし、ギリシャ語学者が言うには、この「確立する」という言葉は「聖化する」と同じ意味である。私はこれについては定かではないが、私は自分の知っていることをあなたに告げよう。「聖化する」ことは「確立する」ことなのである。聖化は確立する恵みであり、人々を堅固にする恵みである。聖化は人々から落ち着きのなさを取り除く祝福であり、心の中から奇癖を取り除き、人々から不公平を取り除く。
確立されることは、あなたの疑問に答えてくれる祝福を得ることである。そのため、駆け回って伝道者に質問することはなくなる。聖霊があなたの疑問に答えて下さる。聖霊は、あなたが人々から聞こうとしていることを、あなたにすべて教えて下さる。そして、聖霊があなたに教えて下さることは何でも、どういうわけかそれが真実であることをあなたは感じるようになるのである。
われわれは確立されなければならない。海に浮かぶ船は暗礁のせいで転覆する。神聖な恵みの中に確立されないなら、誤謬で満たされた強固な頭脳の持ち主たちに出会う時、あなたはその人々のせいで転覆するだろう。われわれに正しい道を教えて、人々や悪魔をわれわれのために転覆させてくれる経験が存在するのである。
この祝福を得る時、あなたはまっすぐ前を進むようになる。あなたは王の大路の真ん中を進み続けるようになる。悪魔の全軍勢のただ中で道を切り開かなければならなくても、進み通すようになる。神が共にいて下さるなら、悪魔の軍勢にいったい何ができよう?ああ、われわれには神がおられることを知っていれば!神は死んでおられないことを知っていれば!チョッキのポケットの偶像や、われわれが頭を下げている教会の神々を、われわれが投げ棄てていれば!われわれが持つべきは生ける神、唯一の真の神である。神はキリストやパウロの時代と同じように今も生きておられることを、われわれは知るべきである。
ああ、神に感謝せよ、神は生きておられる!人々は御子を殺したが、墓は御子をとどめておくことができなかった。御子は床を蹴って墓から出られた。したがって、死にも南側、暖かな面、温和な面があるのである。あなたたち、宗教の北側の周りに座して、歯をガタガタ鳴らしている人々よ、あなたたちは陽光の周りに移るべきである。われわれを確立してくれるものが必要である。もし確かな確信がないなら、もしこの恐ろしい時代にあって、われわれの救いの将である方に無限の信頼を寄せていないなら、われわれは不名誉にも降伏することになるだろう。神に感謝せよ、常に新たな力を得て、決して敗北することなく、失敗することが到底あり得なくなる経験が存在するのである。われわれの若者たちにはこの祝福が必要である。ある若い宣教士の女性がいた。彼女の知性や敬虔さは並以上だった。彼女が宣教の働きを行って、貧しい者たちの間でトラクトを配っていた時、彼女はあるカトリックの家庭を訪問した。ある日、その家庭でたまたま一人の司祭に出会い、「私はあなたに自分の教理を宣べ伝えているのではない」と彼女は言った。すると、司祭は微笑んで、「あなたの教義とおぼしきものを私に告げて、祈って下さい」と答えた。しかし、彼女は自分の教義が何か知らない様子だった。彼女は確立されていなかったのである。その結果、数週間後、その司祭が彼女をカトリック教会に迎え入れたのである。私はあなたたちに言いたい。もしわれわれの若者たちが確立されないなら、彼らは真理を知らないまま、あちこちに吹き散らされるであろう。悪魔は、今日吹き荒れている教義の風によって、彼らを良き船であるシオンの港から一掃してしまうであろう。
われわれはもっとよく知らなければならない。われわれは自分の宗教を知らなければならない。そうするなら、不信心者の両目をまっすぐ見据えて、自分の知っていることを告げることができる。たんなる教義は何の役にも立たない。宗教についての学識は何の役にも立たない。しかし、自分の知っていることを懐疑論者に告げるなら、それは懐疑論者がなすすべを知らない武器でその人を攻撃することになるのである。懐疑論者は、あなたの議論に応じることができ、あなたと同じだけ論理的だが、あなたの経験には答えることができない。それについて知っている経験をあなたがする時、それは懐疑論者の口を閉ざして、敵の銃を封じるのである。
ああ、神は常にわれわれと共におられることを知るなら、成功は確実である!リバイバルが起きうるかどうかを見るために試してみる必要はないし、どこにも行く必要は無い。二年半の間、私がリバイバルを得ていない限り、私はどこにも出かけたことはない。「神は神であり、神の他に神はいない」。われわれは自分が主の側にいることを知っている。参戦する前に、われわれは勝利を得ているのである。
南北戦争のとき、ウィンチェスターの戦いは激戦であった。連合軍は勇敢な人々から成っていたが、数時間の激戦の後、彼らは撤退した。一度も戦いを経験したことのない彼らの将軍は、二十マイル離れた所にいた。大砲の轟音から彼は戦いの様子を知り、馬を駆って、撤退中の自分の軍隊に駆けつけた。自分に続くよう彼は兵士たちに叫び、前進した。兵士たちは持ち直し、決定的勝利を得たのだった。将軍は増援物資を持ってきたわけではなかった。兵士たちは前の戦いと同じように勇ましく戦ったが、将軍に対する信頼により敗北は勝利に変わったのである。われわれの将軍である御方に信頼する時、われわれの神はわれわれの味方であることを知る時、われわれは撤退することはなくなる。むしろ、何があろうと突き進むようになるのである。
神と共にある一人の人は、神と共にいない千人の人よりも価値がある。神はあなたを祝福して下さる。剣を鞘から抜いて手に持っている一人の人は、千人の臆病者よりも価値がある。いま述べているこの祝福は、あなたをそのような人にする。この祝福は、われわれの救いの将は常に臨在しておられ、常に勝利しておられることを、あなたに教える。彼は荒野で勝利し、ゲッセマネで勝利し、カルバリで勝利し、地獄の全ての悪魔の抵抗にもかかわらず天に上って行かれた。そして、彼は永遠にわたって支配するのである。復活したキリストのゆえに、神に栄光あれ。キリストは今日、ご自分の民と共に生きておられ、ご自分に明け渡す者たちをみな勝利者にして下さるのである!
この祝福を得る時、あなたは自分を征服者のように感じるようになる。そして、「征服者の足取りで前進する」ようになる。あなたは足を強く踏みしめるようになるので、地獄の悪鬼どもはその衝撃を感じるようになる。あなたは救いを得る。その救いにより、御使いたちは驚き、悪魔は狼狽する。それだけでなく、あなたが輝かしい勝利を得て邁進している間、あなたの昔の大敵は真っ青になる。敵は地獄の灰の中に座して、あなたを標的にした新しい方法を企てることに最善を尽くすようになる。
この祝福を得る時、あなたはクリスチャンの外側の目に見える生活について話し始められるようになる。至る所で、人々は根を持たずに、良い始まりを持たずに、クリスチャン的性格を建て上げようとしている。しかし、内側の命が正常なら、クリスチャンの外側の生活は、口笛を吹くのと同じくらい容易である。良い木から悪い実は採れない。人々はクリスチャン的性格を建て上げることについて語る。まるで、キリスト教は家を建てるのと同じように、自分で建て上げられるもののようである。しかし、私が述べているクリスチャン生活は、木が成長するように成長するものなのである――つまり、内側から成長するのである。ほとんどの人は、物を掻き集めてそれで家を建てようとしている。自分自身のうちに材料があることを忘れているのである。神はわれわれを天の土地に植えることを願っておられる。それは、われわれが成長して、清い聖なる生活の結果であるキリスト教を生み出すためである。このような経験をあなたが得る時、神に仕えることは容易になる。
教会の中で働いて、労している人々がいる。教会は、この人々が目標を恐れている限り、成功することはない。すると、人々は別の協会を組織して、それでうまく行くと思い込むのである。われわれに必要なのは、神の火が車輪の中に宿って人々を進ませることである。最上の人々がボストンに集まって特別集会を開いた。酒場ですら、「ようこそ、熱心なクリスチャンたち」という看板を出した。この五千名の人々は一週間ボストンにとどまったが、一人も回心者が得られなかったのである!火でバプテスマされた五千人のクリスチャンをボストンに配置せよ。そうするなら、ボストンに大変革が起きるであろう。われわれは規則や、形式や、儀式に偏りすぎている。われわれに必要なのは、顔を神の方に向けることである。
恐ろしいことに、われわれはあまりにも遠くまで漂流してしまったため、人々を認罪の下にもたらせないのである。ああ、「人々を釣り上げる」務めが必要である!神はあなたを祝福して下さる。私が望んでいるのは、あなたの機嫌を良くすることではない。むしろ、あなたたちの多くが気分を害して、食べることも眠ることもできなくなり、最後に二階の部屋に上って鍵をかけ、「ペンテコステが完全に成就するまで」そこにとどまるようになる説教をすることである。その時、あなたの生活は根を張るようになる。神はこれをわれわれ全員に与えて下さる。
また、この御言葉で私が気づいたのは、「内なる、隠れた、密かな命」や「外側に現された生活」だけでなく、「あふれるほどに感謝する」ことである。これはあふれ流れる命である。他のすべてのものを乗り越えて超越する命である。「あふれる命」である。「あふれる」とは何を意味するのか?欲しいものをすべて持つだけでなく、与えるものをも持つことである。どうすればいいのか分からないほどの分け前をふんだんに持つことである。われわれの中にはこれを持っている人もいる。そしてこれこそ、われわれがおとなしくしていられない理由である。昔は、同じ場所に立ったまま、身じろぎもせずに、四十分間説教することができた。しかし、そんなことはやめてしまった。このあふれる命には、はけ口が必要である。あなたがこの命を得る時、あなたは私たちに驚かなくなるだろう。あなたが自分の魂の中に聖なる力の流れを感じるようになる時、あなたはわれわれのことを「立派に振る舞っている」と称賛するようになるだろう。
あなたは午後四時頃、ちょうど教師が生徒を送り出す頃に、田舎の学校の校舎を通りかかったことがあるだろうか?この少年たちが門を出て、空中に帽子を投げ、互いに転げ回りながら叫ぶのを、見たことがあるだろうか?これは何を意味するのか?この少年たちには肉体的に「あふれる命」があったことを意味するのである。少年たちは三時間閉じ込められていたのだが、自分たちが望む以上の命を持っていたのである。
神の民はよく養われるべきである。とてもよく養われているので、「外に出される」時は、よく養われている子牛のように行動するようでなくてはならない。神よ、この命を与えたまえ!あなたはこの命を得て、肩掛けをまとい、足には石鹸石をつけて、隅に座って両手を休めることもできる。人々に仕えてもらって、銀の匙で養ってもらい、二人の牧者に面倒をみてもらうこともできる。命を持つ多くの人がそうしている。しかし、命を持つことと「あふれる命」を持つこととは、別問題である。
ああ、このあふれる命!それはわれわれを赤ん坊にするのではなく成人させる。小人ではなく巨人にする。臆病者ではなく兵士にする。今日、神が望んでおられるのは、十字架の兵士たちである――荒野を突き進む覚悟のある人々、喜んで自分の屍で橋を築く人々である。その橋の上を彼らの仲間たちは行軍して勝利するのである。神が今日望んでおられるのは、悪魔を黙らせる人々、自分の持ち場に着いて、捕虜を捕らえ、神の持ち場にもたらす人々である。神よ、諸教会にはびこっているこの幼稚さからわれわれを救いたまえ!
私は、良い正常な立場に立つ教会の会員であり、追い出されない限り、そこにとどまるつもりである。私は諸教会に反対して話しているのではない。人々を幼稚さから、哺乳瓶から脱却させて、ビーフステーキを食べて神のために立つようになる地点にもたらそうとしているのである。あの母親を見よ!可愛い赤ん坊を乳母車に乗せて、道を歩いている。これは麗しい光景である。赤ん坊はどの家庭にとっても祝福である――常に祝福である。人は赤ん坊を見て微笑む。赤ん坊は微笑み、母親も微笑む。すると、みなが幸せになる。しかし、十年後に戻って来て、もしその赤ん坊がまだ乳母車の中にいたら、微笑む人は誰もいない。とても微笑んでいる場合ではない。何が起きたのか?それは「成長遅延」の症例であると医者は言う。神は、ご自分の幼稚園を御覧になる時、何を御覧になるだろう?今日、神は、われわれの尖塔付きの家々や会堂の中に、何を御覧になっているだろう?おんぶして世話してやらなければならない、十歳、二十歳、五十歳の年老いたたくさんの赤ん坊があたりに座っているのを御覧になっているのである。これは神の御心をどれほど嘆かせていることか。とても微笑んでいる場合ではない。
われわれは、神の力について話すべき時に、自分の弱さについて話している。恐るべきことに、われわれは座して自分の両手を休め、足に暖かい石鹸石をつけて、二人または三人の人々に世話してもらっている。しかし本当は、われわれの方が他の誰かの世話をして、祝福をもたらすべきなのである。ある家庭を訪問して、十四歳の少女を母親がまるで十歳のように世話しているのを見たなら、何かおかしいことがわかる。私はあなたたちに言いたい。私が教会に行くと、あたりに十四歳の赤ん坊が座っているのを見かける。この赤ん坊たちは、優しく世話してやらないと、怒って教会を去ってしまう。これは明らかに何かがおかしい。この十四歳の赤ん坊たちは、新しい回心者たちの世話ができなくてはならない。
東部の商人が西部の農民と一緒に西部を旅していた。彼らは貨車の最後の車両の後の荷台に立って、線路を見渡していた。商人は農民に言った、「あちらの線路は潤っていて青々としているのに、われわれが旅しているこの線路は埃っぽくて荒れている理由が分かりますか?」。すると、もう一人は答えた、「われわれ西部の農民はあまりにもたくさんの穀物を生産するので、倉庫に収まりきらないんですよ。それで、東部の市場行きの貨車に穀物を積む時、作業員たちは積み過ぎに注意しないのです。貨車があちらの線路上を東部に向かって進む間、穀物は散らばって、路面で芽を出します。しかし、空の貨車はこちらの線路で戻って行きます。それで、こちらの線路は乾燥していて埃っぽいのです」。これらの貨車の何が問題だったのか?これらの貨車は「第二の祝福」を受けていたのである。「あふれる」豊かさがあったのである。あなたがその豊かさを少しばかり振りまくたびに、穀物が撒き散らされる。誰かがあなたに触れるたびに、あなたは溢れ流れるようになる。これほどの救いを受けることができるのである。人々はもはやあなたに話しかけられないかもしれないが、あなたが「ハレルヤ!」と言うと穀物が撒き散らされるのである。空の貨車は満杯の貨車と同じくらいやかましいが、あたりは乾いて埃っぽいままである。
私は人々に私の家に来てもらって、素晴らしい祝福を与えてもらった。彼らが去った後、天使がそこにいたかのように感じた。私の子供たちは祝福され、この聖徒たちの滞在により私の全家が祝福された。次に、別の人々に私の家に来てもらった。彼らが去った後、私は喜んだ。あなたは満杯の貨車になって、どこに行っても状況をみずみずしくすがすがしいものにすることができる。あるいは、あなたは空っぽの貨車になって、すべてを乾いて荒れ果てたままにしておくこともできる。
このあふれる祝福を持てるよう、神がわれわれを助けて下さいますように!パウロはこの祝福を持っていた。彼は私が話しているものを知っていた。パウロよ、あなたの経験を少しばかりわれわれに与えたまえ。「私がダマスコに行った時、ユダヤ人たちが私を殺すために待ち構えていた。アンテオケに上って行った時、その首長たちは私をその地方から追い出した。ルステラに下って行った時、人々は数々の奇跡を見て、『あなたは神だ』と言い、私は彼らが私を礼拝するのをかろうじてやめさせた。しかし、私が真理を宣べ伝えると、人々は石を取って私を石で打った。私は死ぬほどの目にあった。また、テサロニケに行った時、私は襲われて、夜中までに送り出された。それから、学問の中心であるコリントに行き、そこで私は裁きの間で鞭打たれた。それからエペソに下って行くと、町全体が私のために混乱に陥った」。それでも、パウロは言う、「神に感謝します。神は常に私たちに勝利を得させて下さるのです」と。パウロよ、なぜですか?人々があなたを町から追い出した時でさえ、あなたは常に勝利していたということなのでしょうか?然り、パウロはどんなことの中にも勝利を見ることができたのである。パウロは敗北することのない人だった。彼は神を知っており、神と共に歩んだ。たとえ枷につながれて宣べ伝えなくてはならない時でも、彼はやすやすとやってのけることができたのである。
神よ、このあふれ流れる祝福をわれわれに与えたまえ!望むなら、あなたは今、この祝福を受けることができる。この祝福を求めるべきではないだろうか?今は受け入れてもらえる時、今は救いの日である。
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