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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第一章 成長期と逆境
柘植不知人
Fujito Tsuge
我が母の胎を出でし時より我を選びおき恵みを以て我を召し給いし神……(ガラテヤ一・十五)
私の父は島根県邑智郡原村医師柘植東景の三男でやはり医師と成って後広島県狩小川村字深川(広島市の川上)という所に開業した。そして仝村乃美政次郎の長女と結婚し、私は明治六年十二月十二日その長男として生まれたのである。父は代々医家の感化を受け、仁術ということを極端に重んじ、儒教を嗜み、医者のかたわら山陽学舎と称する塾を開き、多くの子弟を教養していたが之より仁術を重んずる結果、世の財宝を求めず、名誉地位を更に顧みず、一意専心病者の救済に努めていた。元来儒教の感化により清貧を貴ぶ風があって、一向経済的の考えなく常に赤貧洗うが如しという有様であった。
母は生来蒲柳の質で家政を助くることが困難であった。然るに私が六才の時、弟が母の乳房を噛み切ったのが元で、遂に大患になり、病床にあること三年家政ますます困難に陥り、私は子供ながらも父母の苦痛を見るに忍びず、その当時より何とかして父母の困難を助けたいとの考えが起こった。母は尚静養の必要あって山道一里を隔てた実家に移って静養していたが母は身体痩せ衰え頭髪は剃っていた。ところが宅に残した四人の子供の事が気に懸かり、家人の隙を窺い我家に帰らんとすることしばしばであった。或る夜私が裏口を開けると病体の母が戸外に立ちている。『お母さんどうしたんですか』と言ったら『いやお前達の事が心配で見に来たのだ』と答えた。私はその時初めて親が子供を愛する愛というものは如何に深いものであるか、将来必ず恩に報いたいと決心した。これが親の愛に感じた第一の印象であった。
遂に三年有半にして母は全快し、帰宅したが同時に又も父が大患にかかり、病床にあること五ヵ年、家政の困難はいよいよ烈しく名状すべくもあらず、私は子供ながらもそれを救う道なきかと日夜心を痛めその道を求めていた。ところが私が十三才の時深川から三里の南原という所に大森林の討伐が始まり、その運搬に行けば男女老幼にかかわらず金が儲かると聞き、父母には親戚に行くと告げて家を出で南原山に行き、労働者の中に加わり、木材運搬車の後押しをすることになった。その時の賃金は一日四五十銭位のもので食事や小遣いを除けば余り多く残らない。何とかして少しでも多く母に送りたい考えから弁当の代わりに豆腐を一丁づつ食うて飢えをしのぎ、遂には自分一人で車を引き、一日一円五十銭より二円の金を得て、母の許に送った。十四才の時父も全快して業務に服したから一先ず家に帰った。
私の七才の時初めて現在の小学校が出来、同年輩の者は皆登校するが私は家貧しく両親の病気で兄弟の子守などをするため学校に行くことが出来なかった。十三才頃になってから益々勉強の必要を感ずるに至ったが家の事情はこれを許さず、然るに世はいよいよ知識に進み、そのままにては将来世に立つ能わざることを深く感じ、自ら志を立て、冒険にも十五才の時東京に飛び出したが、元より学費もなく、素養もなく、何の学校にも入ることもできぬ、下宿に居って独学を始めた。私の家は代々医者であるから何とかして医術を学びたいと思ったが何れの学校も資格のない者は入れない。ただ濟生学舎だけは無試験で聴講を許さるので、ここに医学を学ぶこと二ヵ年、多少前途の曙光を認め、専心一意勉学に努めていた。
十七才の時母方の親戚で地方屈指の資産家某家に相続人として養子に遣ると両親で定め、突然呼び帰され、不本意ながらも私は行くことになった。その家は農家で地方の習慣でもあるが朝苅というて朝食前に草を刈る、その荷が軽ければ老人に恥じしめらる、夜は夜業がある、その上に老人の肩を揉ませらる、慣れぬ体に堪えられぬ苦痛であった。尚その上に実家が困っているので養家へは広島に行って放蕩したと称し、実家へは私の自由になる金だと言って五六百円の金を貢いだ。私には言うに言われぬ苦しみであった。私の本志は学問をして立派な人間になりたい、財産などは欲しくないので二十才の時遂に帰ってしまった。
これより先、私が十四才の時母と共にその養家となった家に行ったことがあった。母は先に帰り、私は一人残され、正月には迎いに来る約束であったが私は家が恋しくて堪えられなかった。六日には道連れがあるから待てというのにこれが待ち切れず、三日に一人で二十二里の道を歩んで帰った。途中にある親戚で一泊する筈であったが、何分心は家を慕う思いで充ちているので無茶苦茶に歩み通したがいよいよ疲れ切って一休みしている内に眠ってしまった。醒めてみれば夜中過ぎである。立ち上がって疲れた足を運んで村に着いたのは夜明け前であった。ところが驚いたことに時ならぬ時刻に母が門前に立ちている。『お母さんどうしたのですか』と尋ねたら『お前の事が気になって眠られず、お前の行っている方角を眺めて待っていた』と言うた。これが私の親の愛を深く感じた第二の印象である。