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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第十章 恩師バックストン先生について
柘植不知人
Fujito Tsuge
この町に神の人あり(サムエル上九・六)。
私は大正二年九月二十一に救われて以来教会の教養を受け、遂に同年十一月九日水のバプテスマを受けることになった。然るに日本伝道隊の総理バックストン師は帰英中であったが、ちょうどその前日神戸に帰着せられ、未だ面会したこともなかったが、私のバプテスマの時に同師の献げられた祈りを聞いたのが師を知る初めであった。その祈りは実に荘厳を極め恰も天よりの声に触れたるが如く感じ、水のバプテスマよりも師の祈りによりて霊のバプテスマを受けたるが如き心地した。
爾来同師の温容に触れ、或いは説教を聞き、又共に祈りに導かれ、教師に交わる毎に何ものか新しき恩恵を受け、又同師に会う時は恰もキリスト御自身に会うが如く感じ、いよいよ師を慕うこと切になった。
私は未信者時代には多くの世的に高潔なる人物に会い、或いは一大人格者に触れ、或いは儒教に養われた人々に接した。かかる気風に養われた私は救われても日尚浅く霊肉の区別を弁える智識なきため、キリスト教教師等を見るにその人格に気骨のなきことを何となく物足らぬ感じを抱き、その理由を尋ね探らんと求めつつあった折柄、バックストン師の人格に接し、一面柔和謙遜にして温容下垂るが如き中にも一種侵すべからざる神徳備わり、そこに神の尊厳と慈愛は自ずから輝き出で、接すれば接するほどその奥深きを悟るに至った。霊眼開けずして活けるキリストを拝すること能わざる者ら肉眼を以てキリストの御姿を斯かる人の人格を通して認むるに至り、キリスト教に対する疑惑も氷解した。その後同師の勧告によって日本伝道隊の学校に入ることとなり、爾来同師の聖書講義を聴き、或いは祈られ、或いは説教会聖別会などに出で、師の教えを受くること恰も弟子等が主イエスより直接教えられしが如くしてその教えらるる所は悉く肉碑に刻まれ、これが血となり肉となりて成長するに至った。中にも警監ミッションの働きを受け持ちいたため時々その集会に師を煩わし、又私は年長者であったから他の同期の人々よりも同師に接する機会多く、折にふれ、時ある毎に何事か将来の奉仕に肝要なる点につき特別なる指導を受け、又私は秩序的教育を受けおらざるため人一倍苦心していることを認められ、私を愛せらるること父がその子に於けるが如く又私の師を慕うことも子の親に於けるが如く一種の交通ありて直接間接霊によれる師の指導を受けたことは幸いであった。
旅行の時など常に語られたることは、この自然界は活ける神の聖書にしてこの凡ての造られし物は神の能力と厳かと愛を顕し居るものである、故に我等は黙示の聖書を読むと共にこの活ける聖書によりて教えられなければならぬとて見ゆる所の何物かを指して聖書の真理を語られたことは、私の信仰修養に助けとなったことが多くある。
そして師の一度神の道について語らるるや姿勢を正し、語を改め、敬虔の態度を保たれ、又共に食し、或いは運動をなす時はまるで小児の如く如何に師が神の言と敬虔の態度を重んぜられたかは私に深き印象となった。或る時隊員等と舞子の濱に一日の清遊をなした時のことであるが、同師は集まった子供と共に遊戯をなしおられしとき、私は何心なく教師に一つの事を質問した所が、師は直ぐに姿勢を正し、語を改め、厳かな語調を以て答えられた。この時私は教師が一面には小児の如くなると共にいざ神に関わる事については如何に重きを置かれ、神を崇めらるるかを教えられた。これは私の終生忘るることの出来ぬ印象である。かくの如くにして一面には教師の言葉に接し一面にはその活ける人格に触れ、更に師の隠れたる生涯の様子を時々伺い、これが一ツ一ツ私の活ける智識となり、生涯の土台となり、働きの原動力となるに至った。
尚教師が私に注意して語られしことは純福音を信ずる者でもパリサイにはともすれば為り易いから絶えず恩恵に感じ、御血潮の中におりて御名を畏るることを忘れてはならぬと教えられた。これは師が重ね重ね語られた短き言であるが、その後進めば進むほどパリサイにはなり易い傾向あるを悟り、教師のこの一言は私を絶えず恩恵に導いたものである。
又或る時警監ミッションの集会に師の講演を依頼した所が、集まる者が僅か二人にして斯かる大家を煩わすことは恐縮に思い御詫びを申し上げた時、師は私を慰めて、この集会は決して小さき集会にあらず、例え大きな伝道館に於いて何の飢え渇きもなく何百の聴衆集まりたるよりも、ここに真に道を求め来られた二人は真に貴き魂にして、神は一人の魂の救わるることは全世界よりも貴いと申されたれば、この集会は大いなる集会です、私は喜んで御用を致しますと申され、滔々一時間に亘る大説教をせられたるが如きは如何に師が一人の魂を重んじられたか、又その使命に忠実なるかを深く印象せられ、爾来私の奉仕の上に一大助けとなった。
私は時々聖潔の問題、聖霊のバプテスマについて行き悩み、多くの問題を引っ提げ是非とも解決を求めんと師を訪問したことがある。師の許に近づくや、直ちに臨在に感じ、師の祈りによりて凡ての問題は自ずから氷解し、又語る必要なくして去ったこと度々であった。これは師が絶えず臨在の内におられたため解決者は師にあらずして師と共に在す主イエス御自身であることを感じた。
大正五年十月十日、聖霊のバプテスマを受けた後、様々世の誤解や、罵り嘲りを受け、それがため従来の信仰の友より離れざるを得ざるに至った。例え全世界の人が偽りだと言うても私に印せられた確信は動かすことの出来ぬものであったが、あまりにも多くの人々より反対攻撃を受くるについては万一自分の経験に間違いがあっては一大事と考え、これを一度バックストン師の前にその順序を悉く話して裏書きを求めたいと思いて、或る時師の許に伺った。恰度その時は師の令息欧州戦争のため戦死せられた時の事とて一週間全く一室に籠もり、窓を閉じて静まりおられたときで、私の行った日はその終わりの日であった。師はカーテンを一ツあげて一つの窓のみ明け師の室に迎えられた。その時師の顔は輝きて臨在その室に充ちおりたればその栄光に打たれ、しばらくは伏したるまま何事も語る能わず、只畏れおののき、血潮を崇めおる内、漸く自由を与えられ、聖霊のバプテスマを受けたる前後の模様を具に語った所が、師は痛く喜ばれ、その通りです間違いはありません、しかしその証をいたしますなら必ず迫害が起こります、御聖霊の働き給う時は又悪魔も必ず働きますから充分慎まねばなりませんと、警戒せられ、祈りを求めた所が教師は神を崇め御血を讃めて感謝せられ、「日本に斯くの如きあなたの僕を起こし給いましたことを感謝し奉る、願わくはこの僕の上に恩恵と祝福を常に注ぎ給わんことを」と祈られ、私の頭の上に手を置きて祝された。
その時教師の眼には涙をたたえ、声も震い、いとも厳かな語調を以て私を祝しくれたことは此の聖霊のバプテスマの経験の裏書きとなると共に将来奉仕の一大力の確信を与えられた。そして師の日本を去って英国に帰らるるとき最後に残された言は「我が愛におれ」であった。
私が救われて間もなく師の来朝となり、私の修養中滞在せられ、私がいよいよ上よりの能力を授けられて間もなく帰英せられたことは私に取って誠に幸いの至りである、これも神の大いなる摂理であったことを思うて感謝に堪えん次第である。