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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」

第十一章 いよいよ奉仕の生涯

柘植不知人
Fujito Tsuge



このゆえに汝等ゆきて万国の民にバプテスマを施しこれを父と子と聖霊の名に入れて弟子としつ我がすべて汝等に命ぜしことばを守れと彼等に教えよ(マタイ二十八・十九、二十)。

一、備準の粉濱

私は聖霊のバプテスマを受けて後、なお神戸にとどまっていたが、昔より純福音を大胆に伝うる者に迫害なくして済んだためしがない。その例に漏れずして私も火を受けない時は穏やかであったが、火を受けた後、サタンの妬む所となった。その結果は大正七年七月一じつ大阪市外粉濱こはまに移ることとなった。しかるに主の側に於いては一ツも無駄なことはない筈である。何のためにここに遣わされたか、主のみむねを伺った所が、これはやがて公に立ち上がるべき時の準備時代として必要なりと示され、いよいよ将来の使命について祈り求むる内に大迫害の異象まぼろしを見せられた。これは必ずリバイバルと共に起こるべきことを示され、この使命をまっとうするには殉教の一あるのみと覚悟した。更に祈り続けている時主の再臨の異象まぼろしを見せられた。この時の光景は実に物凄き状態にて、いよいよ福音宣伝の急務なることを黙示せられ、将来の確信の上に一大いちだいちからを受けた。

二、初めて有馬に招かる

くしているうち大正八年八月に至り、有馬ありま修養会の招きを受けて先輩がたと共に初めて大修養会の御用を始めた。その準備祈り会に於いて示された標語は『神を信ぜよ』とのことばであった。之を準備委員祈り会に於いて公にするやたちまち一同信仰に充たされ、一切の問題は解決せられ、一同勝利の確信と喜びに満たされ、遂にその年の修養会には神のくすしき栄光を拝するに至った。

三、銚子修養会

大正八年九月銚子修養会に初めて臨み、主が私の身に為し給えるくすしき御行みわざあかしした時、会衆一同全く砕かれ、溶かされ、神の摂理と御慈愛のたえなることを悟り、又すべてのことはことごとく働いて益となる事実を知って、今日までの誤れる信仰と神に対する態度とを悔い改め、神は善にして善を行い給う、最早もはや神の為し給うことに人間の容喙ようかいすべきものにあらず、たとえ理解してもせぬとも神の旨に従うことはすべてが恩恵めぐみであることを信じ、会衆ことごとちりはいに伏し、感涙と共に悔い改め、主に絶対無条件のもとに服従せんと告白した時、聖霊のおん働きはいよいよ著しく、その光景物凄くなり、おごそかを極め、誰一人ことばを発するものなく、時間の経過するに拘わらず、ややしばらく臨在のもとに泣き伏した。閉会後にも臨在は著しく一同に止まり、集会と集会の間に於いても宿所しゅくしょに止まる者なく、三三、五五別れて祈り、或いは海岸に或いは山に祈りに行くものあり、或いは断食する者あり、或いは徹夜をなす者あり、夜昼祈りの声絶ゆることなく、最後には直接献身をなすもの多く起こり、かる集会は日本に於いてこれまで見たことなしと一同語り合い、主の御名とおん血は高らかに崇められ、銚子修養会も面目を一新し、従来集まる者極めて少数なりしも翌年より一大修養会の一つに数えらるるに至ったという。

四、九州修養会

同年九月九州二日市ふつかいちの修養会に行った。初夜の歓迎会は何分なにぶんにも空気重く、其の夜天拜山てんぱいざんの中腹にて数人の者と共に祈っていると、夜半にその歓迎会の司会者であった兄弟が突然来たって加わった。証を聞けば一つの罪を示され、恐れてこの祈り会にも出で得ず、宿に帰って寝るには苦しく、行きつ戻りつ往来していた時、他の一教師に会い、遂にこの祈り会に出で見れば、臨在おごそかにして堪え切れず、遂にその罪を告白したる時、更に神の臨在はいよいよ厳かになり、聖霊のおん働きは著しく、七八名のもの誰一人声を出し得る者なく、笹藪の中に頭を伏し、ただ『血』と云う一言のみを発し、おん血潮とも血を信ずるとも言うことあたわざるまで臨在の圧迫を感じ、ただ一同御血おんちの中に飛び入った時、一同勝利を得て、修養会の戦いは大勝利の確信を与えられ、山を下った。

その翌日の午後、私の証をなしつついた時、聖霊のおん働き著しく顕れ、会衆は動揺を始め、話の終わった時左のかどから、聖霊のおん働き始まり、あたか火焔ほのおが舐め尽くすが如く会衆は一人一人その場に倒れて悔い改め、或いは血を叫び、或いは聖潔きよめを求め、最早もはや之を制するによしなく、将棋倒しになって泣き叫んだ。その時サタンは妬みを起こし、集会の秩序を保てと言うてとがめるものあるや、火の働きむを見て私は痛く残念に思いつ教えられた。

爾来じらい各地の修養会又は諸教会或いはミッション学校などの要求益々ますます多く、少なくも一じつ三回以上の集会をなし、次から次へと巡回を続け、寝食のいとまもなき有様にてほとんど夜行汽車に乗るのが休息の時間であった状態を続けてその年も終わった。

五、死より生に移さる

大正七年私が大阪粉濱こはまに住んでおった時、世界的悪性感冒は日本全国に流行し、遂に大阪にも襲い来たった。その勢い猛烈を極めほとんど全市を舐めつくす勢いであった。僅か数日の間に父母を失い、又数人の愛子を失い、或いは一家全滅するあり、至る所に大悲劇は演ぜられ、死人山を為し、火葬場は之が処置に困り、人々戦々恐々たる時、十一月二十三日午後十一時頃上住吉かみすみよし光安みつやす師より病人が出来たから来て祈って貰いたいと言うて使いが来た。直ぐに行って見ると一人息子の虔二けんじさんが感冒にかかり高度の熱で苦しんでいる。れど同家は熱心な信者で神癒を信じておらるるので共に心を合わせひたすら祈った。けれども熱は去らず病勢益々険悪となり翌二十四日午前七時半に至り遂に引き付けを起こし、顔色がんしょくは変わり、歯を食い縛り、まなこは釣り上げ、人事不省に陥った。れど死にし者を甦らす神を信ずるは此の時といよいよ心を合わせ堅く信仰に立ち祈っている時、『おそるるなかれただ信ぜよ』と天より声響き、主よ信じますと現場げんじょうを見ずただ死にし者を甦らす神を見上げた時、俄然がぜん正気き引き付けの状態みたるも、熱は更に去らず、とうとう終日祈り通して夜の八時に至り再び引き付けて以前と同じ状態に陥った。その時奥様は子供の苦痛を見るに堪えず二階に上りて祈られ、私は病人のそばにただ一人でひたすら神の憐れみを求め祈っている時、再びおそるるなかれただ信ぜよと御声みこえを聞き、いよいよ甦りの確信は強められなお信じ続け祈り通している時、再び正気き引き付けの状態みたるも熱は依然として去らず、ここに神の深き聖旨みむねある事を示され、家族一同を集め、すべての不信仰、不従順、罪とが、過ちを互いに悔い改め、塵灰に伏してひたすら憐れみを求め、遂に二十六日午前六時に至り三度みたび天より声ありて、神自ら燔祭のこひつじを備え給わん(創二十二・八)との聖声みこえと共に十字架上に我等の病と悲しみととがと不義を負い我等の為に苦しみを受け給いし主の御姿みすがたがありありと示され、病はすでに彼処かしこに負い去られ癒されていると確信せしめられ、驚いて奥様にそのことを伝え感謝せしめ、私も感謝して病人を見るに、熱は去り病は癒されておった。一同神を崇め聖名みなめたたえた。

しかるにその日又哲子てつこさんが発熱し、その翌二十七日朝清子きよこ姉が又発熱して熱はいよいよ高く、更に信仰をもて戦いおるうち、またその翌二十八日朝に至り和恵かずえ姉が発病し口も手足も利かず重態に陥った時、また洛子よくこさんが発病して、遂に五人の子供さんは枕を並べ四人はまだ高度の熱に冒されうわごとを言い苦しんでいるその有様は実に目も当てられぬ惨状であった。しかるに何処迄どこまでも信仰もて貫き、少しの医薬を用いず、別に人為じんいを施さず、ただただ神の全能の御力と大いなるおん憐れみにより、皆癒された。しかるにこの年医薬を用い人為じんいを尽くした者はかえって皆たおれたにも拘わらず、この神のくすしき聖行みわざを見て人々神を畏れめ驚きて神を信ずる者多く起こった。栄光神に帰してかぎりなからん事をアーメン。