[ホーム/目次]
「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第十三章 台湾伝道(一)
柘植不知人
Fujito Tsuge
それ十字架の教えは滅ぶる者には愚かなるもの我等救わるる者には神の力たるなり(一コリント一・十八)。
大正十年の始め新年聖会終わり次第、台湾長老教会の招きにより、一月七日カスパートソン師及び二人の日本人なる同労者と共に出発、渡台した。気候の都合により先ず南方より働きを始むることとなった。
台南
同地日本、聖公、長老教会連合にて天幕伝道会を開いていたが、その初めの夜、官民合同とも称すべき台南有志の歓迎会開かれ、席上この度渡台せられた目的につき一場の御講演を願うとのことであったから、先ず十字架の死と甦りの真髄を露骨に話した。彼等の期待は現代の社会人心に投じ、学者らしく智的の大講演あるべしと待ち構え居たものと見え、あまりにも露骨な十字架の教えに各々躓き、有力なる連合集会の委員等の多くはその夜限り出席せないようになり、集会の計画に一大頓挫を来たらし、多くの人の信仰沮喪し、見ゆる所によれば失望の外なきに至った。しかしこの現象はやがて顕れんとする栄光を妬むサタンの仕業にて却って栄光の前兆なりと信じ、極力祈り求めて台南公園に天幕を張り、集会を始めた。何しろ内地より来たって珍しき講演あるとのことは植民地に住める内地人には一種の好感ありしためか、初夜より聴衆は場に充ち、我等は少しも忌み憚る所なく、この福音の奥義を宣べ伝えた。聴衆は悉く恵みに感じ、悔い改むる者始めより多く起こり、会を重ねるに従いいよいよ盛大を極め、その物音台南中に響き亘り、内地人のみならず台南人も多く集まり、その光景リバイバルの状態となった。改悔者の中には内地にて殺人犯を犯し、台南に逃げ来たりて台南警察署の小使いとなり平気を装い居たるものがあったが、内心の呵責に堪えず、悔い改めてその罪を告白し、救われたるなど種々なる神の奇しき御行あらわれ、神癒に於いても中学校の教師にして危篤の状態になり居た者直ちに癒され、これらの事実台南中の人々に伝わり、この度のキリスト教は従来のものと全く異なり、活ける神が働き給うと言い囃した。
先に躓き委員を辞したる人々もこれらの話をききて驚き、再び悔い改め来たりて道を求め、又援助せらるるに至った。集会は十日間の予定なりしもその時の事情は閉会を許さず、ここに有名なる宣教師エース師ありて、集会のため祈り、又種々助けを与えられた。我等は十日の期日終わり、次の働き地は高雄にしてすでに広告もなし居り之に赴かんとなしたる時、同師は神の旨を伺いて一夜を祈り明かし、翌朝早天祈祷会に出られ、民数記九章を開き、神の霊尚天幕の上に止まりおれば契約の箱を進むること能わずと断言せられた時、同師の言は神の権威と能力に充ち、我等は如何ともなすこと能わず、そのまま日延べして更に大いなる栄光を拝した。
斯くの如き栄光顕れたるため台南長老教会より台湾人のため是非とも通訳付きにて話し呉れと強いて申し込まれ、幸いその教会の青年牧師珍兄は不思議なる神の器にして聖霊に満たされ、又内地語に熟達し、通訳者として最も適当なる器であった。その教会は会員千六百を有し、集会は半数ずつ二回になした。私は初めて通訳付きにて話をなしたが、この不完全なる器にも関わらず、御聖霊は自由に働き少しの困難も感ぜず、又通訳者も全く聖霊に操られ、全会衆初回より驚くべき恩恵を受け感涙に咽び、倒れ伏すもの少なからず。終わりに至りていよいよ霊の御働きは著しくなった。
後にてその事情を探りたるに、台南に福音の伝えられたるはその時より六十年前のことにして、南方よりマクスウェル師、北方よりマカイ博士によりて伝えられた。今でも不潔であるが、当時の台湾は未開にしてその不潔なること想像もつかぬ状態であったが、如何にもして台湾人を救わんとして殉教の覚悟を以て来られた。マカイ師は彼等に福音を伝うるには彼等に同化するの外なしとて先ず台湾人の中より妻を娶り、彼等と同様の生活をなし、幼稚なる彼等にも神の彼等を愛し給う愛を身を以て示したため、遂には台湾人中に純福音が受け入れられ、幾多の迫害と困難を経て台湾全島に二百九十余の教会を見るに至った。遂にマカイ師この地にて殉教的召しを遂げ、マクスウェル師去ったが彼等の信仰は今尚台湾人を支配し、この両人より伝えられた純福音の外、如何なる名士来訪するとも未だ曾て講演を依頼せしことなしという。然るにこの度の福音を味わい、これはマカイ、マクスウェル師の伝えた同じ福音なりと喜び、これを長老教会の月報に掲げ、全島の教会に伝えたるため各地よりの要求引きもきらず。
この事によって私の教えられたることは台湾人の福音を信ずることの単純なることにして、内地に於いても多くの満たされたる聖徒に接したるも彼等の単純さはとても比較にならず、その理由を尋ね見るに、元来内地のキリスト教は日本人の智識欲に投じ、教育の方面より入り来たった福音にして自然智識なるを免れず、之に反して台湾人の福音は真に主イエスの御足跡を踏みたる聖徒の殉教の血を以て肉碑に彫り刻まれたるものにして、所謂パウロがコリント人に語りし如く汝等は我等の書けるキリストの活ける文なりと言った如く、斯かる福音に接し活けるキリストを身に体験したる彼等には智識の方面より観察する時は如何にも幼稚に見えるが、霊的体験、活ける智識とキリストの面影を有てることはとても智識より入りたるキリスト教の比較にならぬことを実見した。
斯かる殉教によりて生み出された彼等は如何なる学者大家の話といえども霊的生命のなきものは忽ちこれを看破し、決して受け入れず、然るに彼等はこの両師を失いて以来久しく飢え渇き居た所へ我等の純福音に接し、さながらマカイ、マクスウェル師に再会したる心地すと多くの信者は感泣して証した。
集会後その台南長老教会有志の感謝会開かれ、マクスウェル師、マカイ師等当時の状況など聞くことを得た。或る時マクスウェル師田舎の教会にて説教なしつつ居たる時、村民等そこに群がり来たり、先ず信者等を引き出し、而してその教会の各入口を外より閉じ、ただ一つの窓を開き之に火をつけ、その窓より飛び出づるを待ちて打ち殺さんとしていた。師は静かに神の導きと助けを求め、好期を見計らい内より教会の敷物をまるめて人の形となし、之をその窓より投げ出した。ところがマ師飛び出したと思いそこに槍を以て押し集まっている間に他の方より逃れ出でて助かったなど、如何にこの両師台湾人を愛したるかを語れる時、一同感涙に咽び励まされた。ここに於いて私はいよいよ福音宣伝は言のみにあらず行と実を以てするにあらずば生命を与うることは不可能であることを深く教えられた。
台南の働き終わりて高雄に向かわんとて台南駅に出で見れば、その構内外見送り人を以て充ち、駅長の話によればこの駅が出来て以来初めての見送りなりと言われた。