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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」

第十八章 満鮮伝道旅行

柘植不知人
Fujito Tsuge



一人のマケドニヤびとたちておのれい、マケドニヤに渡りて我等を助けよとうを幻に見たり(使徒十六・九)。

弟子たちあまねく福音を宣べ伝う、主もかれらに力をあわせその従う所の奇跡しるしによりて道をかとうしたまえり。アーメン(マルコ十六・二十)。

大正十年台湾伝道中植民地に於ける内地人の霊状れいじょう及び生活状態の惨状はとても内地に住む者の想像しあたわざる真相を実見じっけんしたるため、植民地伝道の急務なることを示され、比較的行きわたり居る内地の要求に応ずることをしばらめ、マケドニヤの叫びをなしつつある満鮮まんせんの魂の重荷を感じ、その道の開けんことを祈り求め居るうち、大正十一年四月或る月曜会に於いてこれらの魂のために祈りたるにいよいよ満鮮まんせん伝道に行くべしとの聖旨みむねを確かめ、翌五月上旬満鮮まんせんに登った。れど満鮮まんせんの地にはあまり信者の知れる者もなく、又教会の連絡もなく、何処どこに行き誰に頼るという計画なく、先ず大連たいれんちゃくし、私の親戚の家を訪ねたるに、幸いこの家は主を信じ大連たいれんメソジスト教会に属し居りしため、同教会に話したるに是非三日間集会をれとの要求ありたれば、先ずここより働きを始めた。私は始めに満州伝道に来たった所以ゆえんと主のおん導きを語りたるに、会衆一同主はかる交通不便な僻遠へきえんの地にある民を覚え給うて今回使者を遣わされしことを感謝すと一同喜びに溢れ、先ず主をあがめた。集会は昼は信者、夜は伝道を兼ねたる集会にして昼夜とも聴衆は堂に満ち、特に聖霊のおん働き著しく、その光景初めよりリバイバルとなった。予定の三日終わりたるも聴衆の要求せつにして閉会を許さず二日の日延ひのべをなした。その聴衆の内に満鉄まんてつ病院看護婦長にして眼病がんびょうを病み全く医術上より見込みの絶えたる姉妹ありてただ一同の祈りによりて全く癒され、医員いいん等これを見て驚きこれは全く超自然の神の力なりと言い伝えた。その証はたちまち同病院のみならず他の病院に響き、市内に伝わりしため、いよいよ神癒を求むる者多くなり、集会を閉づることあたわず、次に満鉄まんてつ病院に至りて集会を開き、又或る医員いいんの宅に於いて特別神癒会を開き、更に慈恵じけい病院とうより要求あり、いよいよ多忙を極め、神癒のリバイバルとなった。病院に行けば患者こぞって癒しを求め、教会にづれば病人すでに集合し、宿に帰れば又多くの病人詰めかけ、停車じょうに至れば多くの病人待ち受け居るなど神癒の恩寵は全市に伝わり、主の御名は高らかにあがめられた。その癒されたる者の内には重症最も多くすでに不治と定められたる者も多くあった。

大連たいれんの奉仕何時いつまで続きても際限なく、一先ず打ち切りて旅順りょじゅんに向かった。工科大学教授水谷みずたに兄は早くより主を信じ居る人にして最も忠信の令聞きこえある兄弟である。私は先ずこの家に宿泊することとなり、同兄どうけいもっぱら集会の諸準備に尽力せられた。集会は日本キリスト教会にて開くこととなり、すでに大連たいれんの響き伝わり居り、初めより多くの人々集まり、又癒さるる者も多く起こり、五日間の集会を通して大いなる栄光顕れ、主の御血おんちと御名は高らかにあがめられた。

旅順りょじゅんの集会中大連たいれんよりしばしば使いを送られ、今一回大連たいれんに引き返してこの多くの飢え渇きたる魂の叫びに応え、又多くの病者の癒しのため来たりれと迫られ、すでに他の予定ありたれども大連たいれんの要求あまりにも切実にして拒みがたく再び大連たいれんに帰り、各派連合集会として青年会館に於いて集会を開くこととなった。特にこの集会は神癒を主として神癒の奥義と証を求められ、又多くの病人集まり又満鉄まんてつ病院医員いいんかたも多く出席せられ、キリスト教の神癒は他の宗教、その他の精神治療などとそのるいことにし何等なんら人為じんいを加えず、ただ神の超自然の力による、この大真理は多くの人々のうちに打ち込まれ、多くの人々は神癒を信ずるに至った。

その集会中慈恵じけい病院の肺結核患者にして最早もはや人為じんいすべなく瀕死の病人のため神癒を求められた。話をなすことすら困難であるが、信仰により十字架の贖いと神癒の真理を話したるに、ようやくその兄弟は望みを起こし、かる状態にても癒さるるでしょうかと質問せられた。神は不義なる者を義とし、死にし者を甦らせ、無より有を生ぜしめ給う御方おんかたにして、そもそも人を造りたる神なれば神に於いてはあたわざることなし。罪を悔い、態度を改めて、罪と病を負うて身代わりをなし給いし救い主キリストを今信ずるならば罪の赦しも病の癒しも立ち所に経験することが出来ると申したところが、最早もはやこれを信ずるに息たえたえにして今にも危険と思わるほどの状態なりしも、これを聴きてたちまち満面に喜びの望みを表し、かすかな声にて我を救いたまえと祈った。その時子よ安かれ、汝の罪赦されたり、汝の信仰の如く汝になるべしと主の御言みことばは彼の魂に響き、立ち所に彼は赦しの確信を得、癒されたりと信ずる信仰を与えられた。この時彼の状態は俄然がぜん一変して救いの喜びと病の癒しの確信に満ちて神に感謝するに至った。周囲の人々及び親戚の者看護婦これを見て十字架の救いの力に驚き、御名と血潮はあがめられた。

なおそのにも多くの奇跡あらわれたれども限りなければ省略することにして、大連たいれん伝道二週間にして一先ず終わり、予定以上の時日じじつを費やしたため途中を省きて奉天ほうてんに向かった。奉天ほうてん駅にて多くの兄姉けいしに迎えられ、多田國ただくに三郎さぶろうけいかたに宿泊し、昼は信者の集会となして同兄どうけい宅にて開いた。恵まるる者癒さるる者多く起こった。遠くは大連たいれん撫順ぶじゅんハルッピンなどより飢え渇きて来たる者もあった。これまた驚くべき主の御行みわざ起こりたるため、同教会の人々は今日までいまだ味わったことなき純福音の恩寵めぐみを受け、教会の模様一変したという。

その集会中大連たいれんより今一度病者のため電報電話或いは使者つかいを送って切に要求せられ、断るによしなく、奉天ほうてんの方を一時中止して大連たいれんおもむきたるに、や駅に病人待ち受け居り、親戚に立ち寄れば病人集まり、それからそれへと絶え間なく、とてもことごとく応じ居らば際限なく、奉天ほうてんの集会が中止しあれば再び奉天ほうてんに帰った。奉天ほうてんの集会終わり、更に長春ちょうしゅん方面より多くの要求ありたれど、帰途朝鮮伝道を予定し居れば所定の日数六十日間に帰郷の見込みなければ一切の要求を断って平壌へいじょうに向かった。

平壌へいじょう駅にちゃくし、盛岡もりおか弁護士その他多くの信者に迎えられて宿所に着いた。集会は組合教会堂にて開いたが飢え渇きたる各派の信者多く集まり、くすしき栄光を拝した。集会中盛岡もりおか弁護士宅に突然重症病人起こり、医師もほとんど治療の見込みなしと診断した者がただ一回の神癒祈祷によって立ち所に癒されたるため、同地に於いても奇跡ふしぎ休徴しるしによって道をかとうせられ、主の名は崇められ、主の血は讃美せられた。有名なる某校長夫人にして極力キリスト教に反対し居られし人救われて著しく変化したこと人々に知られしため、更に神のみなあがめられた。同地集会中に重ねて大連たいれんより釜山ふさん経由を変更して大連たいれんに立ち寄りれと要求し来たりしも、むを得ず之を断って予定の帰路に向かった。

平壌へいじょう伝道終わって京城けいじょうに帰った。駅にて松本まつもと弁護士初め多くの信者に迎えられ、松本まつもとけい宅を宿所と定め、集会は組合教会にて開き、多くの信者集まり、会一回と主の御行みわざあらわれ、今日までくの如き福音に接したることなしと驚きて主を崇め、十字架の救いの如何に深遠なるかを悟り、今日までの智的にして世俗的信仰をなげうって全く主のみを信ずる大胆なる信仰に立つと告白せられたる者多くあった。神癒に於いては多くの病人癒され、中にも立山たてやまに於いてすでに瀕死の重症患者立ち所に癒され、その他にも幾多いくたの奇跡行われ、会衆は喜びと感謝に溢れ、最後の集会に於いては天国の如き臨在輝きわたって神を崇めた。

京城けいじょう伝道を終わり、多くの兄姉に送られて出発、帰途亀浦きほ大沙里だいしゃり小島こじま恭造きょうぞうけいかたに立ち寄った。同地は一種の川中島かわなかじまにして日本人の家族十一戸ありて、その大部分は信者にして主として小島こじまけい指導の任に当たり極めて単純なる信仰をち、一致和合せること一家族のようである。ここに於いても三日間の集会を開いた。釜山ふさんより来らるる者もあり、少数なりしも極めて美しき満たされたる集会であった。同地を出発して釜山ふさんに帰り、各派連合婦人会の求めにより一回の御用をなした。ただ一回であったが喜びに満たされ望みに輝き、なお集会を継続するよう切望せられたが最早もはや予定の日取りこれを許さず、後事こうじを約して帰途に登った。

その後間もなく再び京城けいじょうより招待を受け、又神癒を求むる個人の要求ありて断るによしなく、多くの大切な内地の働きを犠牲にして同地に行った。集会をキリスト教青年会館及び京城けいじょう電車車掌養成所にて開き、又多くの病者の家庭に臨み、前回に勝る大いなる栄光を拝した。更に帰途亀浦きほ大沙里だいしゃり小島こじま恭造きょうぞうけいかたに立ち寄って集会して栄光を拝し、釜山ふさんよりも切なる要求ありしも内地の聖会の予定あれば応ぜられず、一先ず帰京のに登った。