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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第二十一章 基督伝道隊設立の由来(下)
柘植不知人
Fujito Tsuge
なんじ真理のために挙げしめんとて汝をおそるる者に一つの旗をあたえたまえり(詩篇六十・四)。
第四 基督伝道隊の働き
基督伝道隊の働きを三種に分かつ、即ち伝道、働き人の養成及び病の癒しである。これまた適当なる名称を要するを以て
一、基督伝道館
各地に伝道をなすには伝道の場所を要す、これを基督伝道館と称うることにした。従来キリスト教の生命を失った原因は只教理に走り、知的に流れ、形式儀式を重んじ、只思想のみの宣伝に過ぎざるため、今日の悲境に陥ったのである。ここに於いて本隊の使命は斯かるキリスト教の精神を失いたる所謂教えにあらずしてキリスト教の生命たる活けるキリストを体験し、身を以て活けるキリストを伝うるを以て使命とするが故に基督伝道館と命名した。
二、活水学院
昔より今日に至るまで神の求め給うものは聖書に録されたる如くその腹より活ける水川々の如く流れ出づる器である。世の人の求むる所もまた斯かる器である。然るに斯かる器を養成する学校なきは神の憂いにして人の不幸である。今日まで人間によって設立せられたるキリスト教を教うる学校はあるが真にキリストの死と甦りに導き聖霊のバプテスマを受けたる証人の起こらざるは最も遺憾とする所である。ここに本活水学院は祈祷を以て神に近づき、神より直接の御行を受け、自ら全く空しくなり、ただ骸として肢体を献げ、活ける水の源なる御自身をして自由自在に活ける水を注ぎ出さしめ奉る器を養成するを以て之を活水学院と命名した(黙示録二十二・六)。
三、神癒館
そもそも神癒は純福音に当然伴う所の神の御行にして、また福音宣伝に要する唯一の方法である。キリスト御在世中この奇跡を行い給いて型を残し、初代教会に於いても弟子達はこの奇跡と不思議によって多くの人々は神を知り、福音を信ずるに至った。純福音を標榜し、癒し主なる活けるキリストを宣伝する本隊として、これら病人を集め、神癒を施す場所なかるべからず。之を神癒館と命名した。
五、隊旗の授与
ここに諸般の準備なり。大正十二年一月、基督伝道隊の創立を見るに至った。然るに神の軍隊として立つに神より授けられたる軍旗なかるべからず。私は或る時山中にてその旗印を求めて祈りつついた時、エホバニシ(出エジプト十七・十五)エホバ御自身が我が旗印なることを示され畏れおののきて主を崇め居る時に異象の如く又実際の如く天空より一つの長き旗の舞い下るを見た。慎み畏れつつ眺め之を凝視し居た所が次第次第にその旗舞い下りて之を見つめ居たる自分の上に落ち来たった。之を手に受けた時その旗の流れに多くの人々従えるを見た。その時天より声ありて『なんじ真理のために挙げしめんとて汝をおそるるものに一つの旗を与え給えり』(詩六十・四)との御言を受け、その時詩篇二十の五をも与えられた。この旗をおし立てて進む光景を異象の中に見たが何人もこの旗に靡かぬ者なき有様であった。その時これぞ基督伝道隊の隊旗にして天より授けられたることを確信した。その時讃美歌二百七十七番を思わず歌うて主を讃美した。
六、基督伝道隊本部建物及び法規上の手続き
第一会堂(落合伝道館)及び男子ホーム(ノア館)の建築、つづいて女子ホーム(サムエル館)の建築、活水学院講堂(シオン館)の増築、牧師館(ヘルモン館)の増築、仮神癒館(ヘブシバ館)の設備など差し向き必要なる建物の設備を終わった。
右の建物に要したる金額及び基督伝道隊創立手続き、之に必要なる政府の所定基本財産十数万円の金額、これらは皆人為によらず、恩恵に感じたる聖徒の隠れたる献金によって悉く必要充たされたるは聖書の裏書きにして又奇跡と言うほかはない。
七、献身者の収容
この修養生選択の方法は神の召しを受けたる確かな証ある者を選びたるものにして、この世の智者学者或いは財産名誉地位ある者に限らず、如何なる賎しき者、軽視らるるものといえども神の召しを蒙れる者を以て入学資格の第一要件とした。
先ず第一期生として何ほど収容すべきかにつき祈りたるに三十名を以て第一期生とすべきことを示された。未だ創立早々の伝道隊として三十名を収容するは余り多きに過ぐるとの注意もあったが、一度働きを始めた所が、各地より多くの要求あって僅か一年を経ずして第二期生を収容するの必要を生じた。その時もまた何ほど収容すべきか、神の示しを求めたるに六十名収容すべきことを示された。これまた二年を出でずして第三期生を収容するに至った。
八、伝道館の設立
大正十一年十二月三十一日落合伝道館の献堂式を挙げ、ここに集会を開くや、神の栄光顕れ、救わるる者、癒さるる者日々に起こり、その光景実に日本未曾有のリバイバルの光景なりと言い伝えられた。各地方よりこの集会に出づる者悉く恵まれ、聖霊に満たされて帰り、各地の病院又は名医の治療を受けて尚治療の見込みなき病者は日々に集まり来たりて癒され、一度国に帰りその地方に於いて集会を開けば直ちに多くの救わるる者、癒さるる者起こり、人為によらず、神の栄光の伴う結果として伝道館の設立を要求せられ、遂に大正十二年四月大阪粉浜伝道館を設立し、同年七月東京市外大井伝道館の設立を見るに至り、更に大正十三年二月飯田伝道館設立せられ、同年五月大阪北伝道館の設立を見、同年七月京都伝道館設立せられ、いよいよ各地ともリバイバルの光景を呈し、ますます要求多く同年八月信州北大井、同年十月龍岡伝道館、同年十二月大阪泉尾伝道館、伊勢原伝道館、境伝道館等の設立となり、越えて大正十四年二月千代伝道館、同年四月松代伝道館、五月には島原伝道館、同年六月尼崎伝道館、同年九月鳥取伝道館、同年十一月姫路伝道館相次いで起こり、各地より数多の要求あれど応じ能わざるに至った。