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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第二十三章 我が生涯の最高試練(一)
柘植不知人
Fujito Tsuge
汝等の信仰を試みらるるは壊る金の火に試みらるるよりも貴くして汝等イエスキリストの顕れ給わん時に称讃と高貴と栄光を得るに至らん(一ペテロ一・七)。
私のこの度の病気は最大の苦痛であり、最高の試みであったと思う。それと同時に又最大の恩寵であり、最高の教育であった。始めから終わりまで凡てが不思議であり奇跡であって、一つとして恩寵ならざるものなく又教訓ならざるはなし。要するに神の召しを受け神を愛する者の為に悉く益を為すを我等は知れり、この聖言の通りである。
私の病気の由来を顧みれば大正十四年春頃より肉食を好まぬようになり、殆ど野菜のみを食し居たが別にそれが病のためとも感ぜずして過ごし、その年の十一月島原に於いて初めて黄疸の兆候顕れ、それが落合新年聖会の頃、ますます増進し眼も皮膚も黄色となり、食欲も減り、全身に倦怠を覚えたが別に働きの上には差し支えを感ぜず、同聖会証の時、佐伯先生は深刻なる警戒を与えられしにも拘わらず、続いて信州聖会に臨み、寒気の厳しきためいよいよ病勢募り、会終わりて二十六日帰途高田馬場駅の階段を降りる時、突然腰に疼痛を覚え歩行困難となったが、更に信仰に立ちて、予定せる京都聖会を二月七日より五日間有った。その時は余程衰弱し、筋肉の疼痛甚だしく殆ど歩行困難となり、用便に通うことも出来難くなったが、集会の御用に立つ時は特別なる聖霊の助けによって、少しの差し支えなく却って意外とするまで力に満たされ、御用終わって室に帰れば烈しき疼痛に苦しみ、五日を過ごしたる後は最早起き伏しも自由ならず、食欲更に減退し、肉食物は受け付けず、たまたま食すれば便通なく、腹張り嘔吐の気味あり、その疼痛全身に及び名状すべからざる激痛にて最早信仰により超自然の力による外全く途なきに至った。
その激痛の襲撃する時は手足を引きつけ、全身跳ね上がり、人為人策全く尽き果てて普通の行き方なればこれで病の下敷きとなり、倒れて仕舞う外ないのであるが、その時初めて信仰の奥義示され、最早徒に生きんことを求めず、死にし者を甦らす神を頼み、甦りの信仰に立つべきことを示され、この時アブラハムの信仰を思い起こし、不義なる者を義とし死にし者を甦らせ無より有を生ぜしむる神を頼み、信仰によって死ぬべくば死ぬべしと覚悟し、平安の神汝等の足の下に於いてサタンを速やかに砕くべしとの言と共に病気に向かってこの畜生奴と掛け声して立ち上がれない中を立ち上がった。その瞬間に長らくの激痛は全く跡形もなく癒されて仕舞って今日に至るまで一度も再発の兆候だになくなった。
これで神経痛は全く癒されたが主なる病気は依然として動かず、その頃佐伯先生の来訪を受け、一応診察せられた結果只に黄疸、神経痛のみならず、恐るべき病原あるを発見せられたがその時は公言せられず、ただ余程重体なれば凡てに注意を要するとのみ語られた。これがため同氏の室町中長者町の別所を病室に当てられ、何一つ不自由なく懇ろに設備せられ、又食物万端については先生御夫婦特に注意せられ誠に手篤き御取り扱いを蒙った。然れど病勢は日々に募り、身体の自由を失い、床の上に寝返りすることさえ難しくなった。
その時令息義雄氏また懇ろに診察せられた。ところがいよいよ容易ならざる病症にして今日まで激烈なる働きに従事し保たれたことがすでに奇跡にして斯かる病気に罹って今日まで倒れざることは医学上世界に稀に見るところ、医学者の方では合点の行かぬことにして只神の奇跡によると言うの外なし。この上は静養してなるべく長く保たれるよう努むるの外、他に治療の途なしと申された。
そして義雄氏自ら食物の研究をせられ、或いは消化をよくし、或いは便通を助け、或いは嘔吐を防ぐに適当なる食物を調べるなど同氏御夫婦の尽力せられたことは私の一大慰めで大いなる助けとなり、私の終生忘るること能わざる深き印象を与えられた。その他伝道館及び産院の諸兄姉いと懇ろに愛の労を取られたことは感謝に堪えぬ所である。その間に佐伯先生は京都は寒きため適当なる静養の場所を選ばんため東上せられ、遂に熱海の原六郎氏の別荘を借り受けられ、ここに於いて暫く静養するよう備えられ、同月二十一日夜行にて京都を出発した。その時常になく佐伯氏の御一族、多数の信者達見送られた。この時私の心に密かに感じたることはこれが京都最後の別れの意味にはあらざるかと感じた。後にて聞けば斯く多数の見送りを受けたることはその意味であったとのことである。一先ず東京に帰り、続いて熱海に移り、静養し且つ主の旨を待ち望むこととなった。