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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第二十四章 我が生涯の最高試練(二)
柘植不知人
Fujito Tsuge
汝これらの者に過りて我を愛するや、彼言いけるは主よ然りわが汝を愛することは汝知れり、イエス彼に言いけるは我が羔を牧え(ヨハネ二十一・十五)。
私が熱海に来たのは二月二十六日であった。先ずこの所に来て第一に感じたのは神の深い摂理と憐れみであった、と言うのは今静養のため与えられているこの別荘は原氏が物に飽かせ好みに任せて建てられたもので、凡てが壮麗を極め、庭園広く樹木生い茂って之を囲み、真に仙境と言うも過言ではない。この町は三方山を以て周らし、東南の一方相模湾に面し、遙かに初島及び大島の噴火を望み、風光絶佳邸内には温泉湧き出で、又町の諸所には湯口あって、熱湯の噴出する音響と共に湯煙立ち上りて自ずから神の厳かと来たらんとする判きを深く思わしむ。この塵芥の如き者が居るにはあまりにも過分に思われ、少しく遠慮の気味になり居った時、第一に響いた聖声は『父の家には第宅多し』と、是は原氏の家ではない父の家であるから唯だ寛いでこの所で静養せよと、主は仰せ給うた。その時より少しの人臭い心なく、父の家にある小児心をもってその夜より待ち望み始めた。然るに早や臨在は現れ主は最も近く在まして、なんとも言えぬ厳かさを感じ、是は尋常普通の時にあらずして必ずや深い聖旨の示さるる時ならんといよいよ静まりて心備えを為し、待ち望み続けた。ところが次第次第に探られ掘られ、砕かれつつ二十八日の夜に至った時厳かに示されたことは、第一の使命を誤っていたことであった。そもそも始め使命のために受けた光はエゼキエル書二十二章三十節を通して神の深い御嘆きが示された。神は今日に至る迄唯だ一人の人を求め給う。又世の要求する所も神より遣わされた神の人である。然らば将来為すべき事は神の要求と世の期待に応ずべき器を養成することであると深く感じ、先ず是を以て第一の使命として立ち上がったのであるが、いつしかこの大切なる使命を等閑にして、人物よりも働きが主となり、教会建設が先になりて、人物養成は第二第三となり居ることが示され、其の結果の及ぼす弊害は数え尽くすことが出来ない。不完全なる器を遣わして完全なる果を得んとする是より矛盾の甚だしきはなし、今日までの凡ての失敗の原因も要するにここにあった。のみならず主の聖旨を傷め奉ったことは何程であろう、時には誰の責任彼の責任と思って来たが総ての責任はこの第一の使命を誤って居った私にあることが明らかに示された。最早あまりの失敗で何とも申し訳なく、どうしたらよいかと病のことも打ち忘れ、唯だ茫然として居った。然れど他に行くべき道もなければ今一度一切を投げ出して主の御憐れみを求めた。然るに翌午前五時に至り現のように『汝これらの者に過りて我を愛するや』との声響きて思わず主よ然りと御答えするや、『我が羔を牧え』との聖声により醒めて直ちに起ち上がらんとせし時、主の聖姿異象の如く枕辺に消え去った。この不忠不義なる僕をも尚捨て給わずして、今一度使命を新たに為し給いしことを感謝している時、更に深いことを示された。これまで幾度か教えられた聖言ではあるが、汝これらの者に過りて我を愛するや、との聖言の真意が如何に深遠なるか、神は亡び往く人類の惨状を見て如何に憐れみ給うか、主は曾て弟子等に命じ給うて、『牧う者なき羊の如く衆人なやみ又流離になりし故に之を見て憐れみ給う』とマタイ伝九章三十六節にある通りである。失われたる者を尋ねず、亡ぶる者を顧みず、疾える者を癒さず、迷える者を憐れまずして、不熱心なる生温い生涯を過ごしていることが如何に主の聖旨を傷めることであろうか、其の上に弱き者を思いやらずして虐げ、幼稚なる者を手荒に扱い、傷める者を躓かせるなどが如何に主の聖心を苦しめることであるか、肉体の親でさえ自分の子供の苦しみを見る時代わってやりたいと思うのである。それは子供の苦しみを見ていることは自分の苦しみ以上に苦痛を感ずるからである。ましてや御自身の御血潮に代えてまでも愛し給うた者であるから、其の御苦痛も又如何ばかりであるか到底御想像申し上げることは出来ないのである。然れど御聖霊によって幾分にても示された時、私の腸は痛み、病よりも其の苦痛が強くなった。今日まで如何にもして主の御心を喜ばせたいという唯だ一事のために一切を尽くして来たのであるが、思えば思うほど、考えれば考えるほど、反って主の聖旨を傷めて来たばかりである。然れど主が之を示し給うのは、責め給うのではなく又叱り給うのではない。あの失敗に失敗を重ねたシモンに現れ、『汝これらの者に過りて我を愛するや』と三度までも聖声を繰り返して羔を愛する愛の炎を投げ入れて遂に彼を捕らえ、『我が羊を牧え』と親任状を授けて己の跡に従わしめ給うた如く、斯かる大失敗を為し不従順なるこの僕をも尚顧みて如何にもして御選びに適う者と為し御使命を完全せしめんとの御慈愛が示され、ただただ感泣して御従いするの外なきにようせられた。そして一面病気の方は兆候いよいよあらわになり、最早癌腫ということは疑いの余地なく、日々病勢は増長し苦しみは増すのみである。然れど京都にて一度与えられた信仰はいよいよ働きて最早死なざることを求むるにあらず、死にし者を甦らす神を頼める信仰はいよいよ強くせられたるも、信仰と実際とは全く反比例に進む。ますます戦いは烈しくなり遂に三月八日に至り、信仰は信仰とし実際は実際として考えねばならぬようになり、この状態にては一先ず落合に帰り、愛する兄弟姉妹に或る意味に於いて会い、又働きの整理も為し置く必要を感じ、帰って見れば佐伯先生の御話によれば神の超自然の力によるは別として医者の方より言えば三ヶ月以上は保つ見込みなきにより群れの将来について注意すべき点は今の内に注意して置く方可からんとの手紙西條兄より来て居ると漏れきいたが、この事は自分がすでに覚悟をしていたことで少しも信仰の妨げとならず、何所迄も群れの将来を思い御注意して下さる佐伯先生の御親切を感謝した。そして神の御用に関わる一切の事務を整理し、翌九日再びこの熱海に帰って来たが、いよいよ病勢募り、癌腫の兆候ますます明顕になり、局部は腫れていよいよ固くなり、大便真っ黒で小便は濃茶の如く、嘔吐を催し、腹は張り、其の痛みの烈しきこと実に悪辣を極め、全身絞るが如き痛みである。身体いよいよ衰弱し最早肉によれる勢力も元気もなく、もしそのままにしていれば其の苦痛に圧倒せられて倒れるの外なきを悟り、京都にて経験を与えられし如く、信仰の動作を要する時はこの時なりと覚悟を定め、その烈しき苦痛を押して床の上に座し、ただひたすら神の御憐れみに頼り縋り、堪え難きを信仰によって堪え、祈り続けている内に、十日の夜十二時頃になった。その時天より声あって、『子よ心安かれ汝の罪赦されたり』と、更に声響きて、『彼を接その名を信ぜし者には権を賜いてこれを神の子と為せり』と、この二ツの聖声は私にとって実に大いなる恩みであった。この場合何故にこの聖言が与えられたかというに、これには深い意味がある。それは大正二年九月二十一日私が救われた時この二ツの聖言にて罪の赦しの安きと、神の子とせられた確信は与えられたのである。その時私の生涯に紀元前と紀元後とハッキリした大区画が造られ、新しき紀元が出来た。以来十二年余りの生涯は主の愛に励まされ今日に至ったのであるが、烈しい戦いを続けている内に、いつしか初めの愛をはなれて成人心になっていることが示された。どうかしてあの初めになにもまだ深いことは分からんが、唯だ救いの喜びに満たされ、我を忘れて主を愛しておった、その無邪気な愛に立ち帰りたいと祈っていた時であるから、特別なる意味に於いて私を全く新たに為し、心もまた赤子の如く信仰も単純にせられ、総てが十二年前の初々しい愛に引きかえされた。