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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第二十七章 臨終と葬儀
柘植不知人
Fujito Tsuge
一、臨終
癒されて熱海より帰られた後は何分内外の働きが堆積していたので、無理な働きを続けられた。佐伯先生は幾度となく忠告せられたが、先生の内に燃え上がった殉教の霊は知らず識らず、働き尽くして、気がついて見たら、はや危険地帯に進んでいたという状態であった。
昭和二年三月十八日、別府市に静養中であった柘植先生の御容体悪しとの報を聞き藤村師と共に京都を発し、彼の地に着したのは翌日午後であった。その前日三宅師と佐伯先生も到着しておられた。極度の衰弱音声もはや明らかでなかったが握手を求められ泣いて喜ばれた。祈って後『まあ湯にでも入って又祈ってくれるように』と仰せられた。
再び夕方病室に入って祈った。その時は更に厳かな時の近づける状であったが、『東京に帰って一同心を合わせて祈れよ、神は必ず勝利を与えなさる、アブラハムの信仰にならえ、不信を以て神の約束を疑うことなく……信仰を篤くして神を崇め……神は約束し給う所を必ずなし得べし。私はこうなっても信仰に動揺はない、神は必ず勝利を与えなさる』と常に語られし如く信仰に満ちて切れ切れに語られた。凡ての遺言は前日の朝奥さんに語られてあった。実に澄み亘った信仰の戦いを意識のあらん限りつづけられた。全く声もなく目も見えなくなった時にも時々頭を擡げて起きんとするようであった。常に語られし如く信仰の動作をなさるのであるかと思われた。
その夜十二時頃より意識はなくなったが安らかに朝に至った。我等は枕辺にありて先生の一呼吸毎に信仰の息を吹き込まれるように感じた。二十日午前六時二十七分大きな力強い呼吸と共に御別れをした。交々二の分を与え給えと祈りて主に任ねた時は臨在に満ち、死でなかった勝利の凱旋式であった。私は暫くたって御顔を拝した時、戦いの苦痛は変わって平安に満ち笑みを含んで今にも笑い出しそうであった。
遺言によりその日午後出立、汽車にて落合に帰った。沿道の町々にて多くの弟子等は送迎してくれた。先生は伝道のため一ヵ年に一万四千余マイル旅行せられたそうであるが召されても六百マイルの旅をせられた。そして落合に帰りて心を合わせて祈れ、主は栄を顕してくださると何処までも戦いの人であった。
ヨセフの信仰、「おのが骸骨の事について命じたり」との意味が分かった。又曾て信仰を懐いて召された人々は主が十字架に釘き給うた時に甦ったと云う先生の御話を思い起こして、なるほど先生は語った如く最後まで歩んだ人であると思った。地の人として涙はとめどもなく下に流るるが神に属ける我等の望みは燃え上がりて止まない。
二、葬儀
三月二十三日午後一時より落合の本部会堂に於いて次の如きプログラムによって葬儀執行せらる。
順序
司会者 藤村壮七
奏楽 三宅夫人
讃美歌 三四二 一同
祈祷 三宅醇三
聖書 書一・一〜九 大平春弥
来十一・一〜十六 田中蔵六
讃美歌 一二四(愛歌) 有志合唱
履歴 渡部正雄
弔辞
弔電朗読 皆川栄四郎
讃美歌 三五五 一同
説教 西條弥市郎
祈祷 同
讃美歌 二七七 一同
頌歌 四六二 一同
祝祷
挨拶
告別
出棺(奏楽)
赤心より贈られし花輪と十字架は講壇前面両側に並び、柩は司会者の先導で弟子達の手によりて静粛に運ばれ、一同起立黙礼して之を迎えた。すでに着せる一千余名の会葬者は神の人、恩師の前に立ちて涕泣して止まなかった。
有志の合唱さんびか百二十四番は先生の愛歌で別府にても時々歌っておられたとのことである。聖言の如何に貴いかを味わっておられし、先生の事が偲ばれて先生の内の霊は我等に臨み同じように聖言の貴い事を深く印刻せられた。
渡部師は涙ながらに履歴を朗読せられた。先生の御生涯を知れる一同は時々証しせられし節々を思い浮かべて感涙に咽んだ。
弔辞には先ず小島良造師の教役者を代表したるものを第一に、関西地方を代表して佐伯先生、千葉県地方を代表して松浦老兄、東京方面を代表して横濱捨四郎兄、山陰地方を代表して荒木重造兄、信州地方を代表して小林洋吉兄の弔辞があった。ここには初めと終わりの分を掲ぐ。
弔辞
われ神の前および顕るる時その国に於いて生ける者死ぬる者を審判するキリスト・イエスの前にて汝に求む、汝道を宣べ伝うべし時を得るも時を得ざるも励みて之を務め各様の忍耐と教誨を以て人を督し戒め勧むべし。それ人真の教えを容れず耳を悦ばしむる言を好み其の私欲に循いて己が為に師を増し加うる時来たらん。かれら耳を真理より背け奇しき談に向かうべし。然れど汝すべての事に慎み苦痛を忍びて伝道者の工をなし汝の職を尽くせ、われ今祭物とならんとす我が世をさる期ちかづけり、われ既に善き戦いをたたかい既に走るべき途程を尽くし既に信仰の道を守れり、今より後義の冠わが為に備えあり主すなわち正しき審判をなす者その日に至りて之を我に与う独われに与うるのみならず凡て彼の顕著を慕う者にも与うべし。(二テモテ四・一〜八)
先生は聖徒パウロが世を去るに臨んで真の子なるテモテに語りし如く、私共に、先生の御生涯を通して語って下さいました。又御臨終に際しては私共の使命に対しても、この言を以て御警告下さいました。先生には信仰の善き戦いを戦い既に走るべき途程を尽くして、御勝利の裡に御凱旋なさいました。そして私共のために信仰の先導となってその行くべき道を明らかになして下さいましたことを感謝致します。
今までは何かと重荷のみ負わせ申し、わけても教会の憂慮をお掛けいたし何とも御詫びの申し上げようも御座いません。然るに先生には私共のために受くる苦難を喜び、御自身の肉体を以て其の欠けたる所を補い、遂に死に至るまで御尽くし下さいました。
先生の御生涯を通し聖言を通し御教え下さいました通り、凡てのことに慎み苦難を忍びて、伝道者の工をなし其の職を尽くし、一同一つとなって先生の御遺志を完全うし、如何にもして御殉教を空しからしめざることを期する次第であります。
之を以て弔辞に代えます。
千九百二十七年三月二十三日 教役者代表 小島良造
弔辞
我が柘植先生一度福音を聴いて直ちに救われ直ちに献身、爾来救霊の為に身命を賭して奮闘することここに十有五年、東奔西走席暖かなるに暇あらず、先生の導きによりて伝道者となりしもの九十余、癒されしもの六万、救いに導きしもの十二万余、これが為に遂に其の精力を注ぎ尽くされ、本年三月二十日勝利の裡に召さる。
ああ、この不世出の聖徒、我が国キリスト教界の明星として、久しく隠されたる十字架の奥義を闡明して、衆人の惰眠を醒まし、遂に泰西に向かって福音を逆輸入せんとせしに、今や溘焉として召さる、ああ神意果たして如何、昔キリスト去り給いて、弟子達一時心を喪わんばかりなりしを思い合わせて、転た惆悵の情に堪えず、然れども、主は言う給う、我往かずば訓慰師汝等に来たらじ、もし往かば彼を汝等に遺らん、汝等上より能を受け、地の極にまで我が証人となるべし、弟子達心を合わせて祈り、聖霊に満たされて遂に全世界を救うの大業を起こせり、今神先生を召し給う、いずくんぞ我等をして霊眼を開かしめ力を与えて、その遺業を継がしめんとするにあらざるを知らんや、ああエリヤ去ってエリシャの在るあり、請い願わくば我等これに従い心を合わせて其の大業を翼賛せん。
昭和二年三月二十三日 信州各基督伝道館
信徒総代 小林洋吉
この時各地より来たった弔電の朗読があった。その数六十二通。弔文二十八通。
三、説教
地上に於いて何が貴いと云うても聖霊に満たされたる器よりも貴いものはない、万民の深き願いは罪の力より救い出されて其の魂が生かされ、癒され永遠の救いを完うせんことである。
柘植先生は誠にその人であった。内はこの群れのため外は世界の民に油を注ぐ器であった。先生に聴く者は皆生かされ、癒されて『私の多年の願いはこれであった』と真に満足した者が幾万あったか知らない。
群れはますます膨大し本年は世界巡回を企画し居られ、又幾多の働きを中途にして俄然天の召しを蒙らる、主よ聖旨を示し給えと祈った。
先生はこの世の荒波に打たれ、逆境より逆境、多難不幸、波瀾曲折、浮沈盛衰窮まりなく、遂に十字架の許に来たって旧世界は悉く去りて新しくせられた。
先生の旧生涯を見ると此の世と自己より出づるものは悉く敵であって其の果ては行き詰まりと亡びであることを証している。又十字架によって如何なるものも、聖言の通り極端まで救われ、何一つとして解決のつかないものはないことを示している。更に甦りて現存し給う活けるキリストに在って全備することが出来る。何一つ欠くる所のないものであることを顕している。先生はこの三大事の証人であった。
もしそれ先生は生来の何ものかあって用いられたというなら、自己の能力によりて何事かなしたというなら、更に地につける宝庫を発見して人を恵んだというなら、我等は失望して仕舞うより外はない。
しかし先生の御生涯ほどの苦難があっても、否それ以上であっても、悉く新たになし得るキリストとその十字架には今も変わりはない。ハレルヤ、感謝でないか。
私は先生の召されたことによりて少しも当惑はない。先生の使命は明らかである、即ち主エスの三年間の御生涯に裏書きをなして我等の目前に之を示して置いて下さった。即ち『真理のために挙げしめんとて汝をおそるるものに一つの旗をあたえ給えり』とは此の事である。標準を立て寸法を定めてくださったのである。召さるるに当たりて群れの基礎は出来ている。唯一致して祈り我が足跡に続いて歩んで行けば可いと懇ろに遺言せられたのであった。
又追想して見ればパウロの如く益ある事は残す所なく悉く宣べ伝えられてある。先生は昨年の大患の時すでに地上の人でない筈であった。が尚それでは弟子らが迷うてはならぬから死の中より立たしめられて主エスの彼の四十日間の如く重ね重ね懇ろに教えられた。汝等今知らず後これを知るべしとの御言の如く朧に聴いていた事も思い起こして益々明らかになって来た。唯感謝の外はない。
或る人は先生の公の生涯が余りにも短かったと思うであろうが。なるほど外なる世の人のためには一日でも長からんことを願うべきであるが、我等弟子等のためにはこれが益である。と云うても御長命を願わんというのではない。先生自らも共に居りたかったに相違ない。が何故に益であるかならば先生が地に居らるるなら昔の弟子の如く肉体の人にのみ頼りて信仰によって生き、活けるキリストにのみ信頼せないからである。先生一人で如何に長命でも忙しく働いても肉体には制限がある。此の地の叫びに悉く応ずることは不可能である。多くの弟子達に同じ霊を注いで広く栄光を顕したいのが神意でなくてはならぬ。
全能の神に癒し得ぬ道理がない。全智の神に間違いはない。愛の神が我等に不利益を与えなさる筈があろうか。そんな事は思われない。最善をなしてくださったことを感謝する。又これは止むを得ぬことであると諦めるのではない。益である優れる栄光の顕れるためである。唯その益である神の思し召しを徒しくするものは不信仰である。いよいよ信仰一本槍で進むべきである。神は必ず驚くべき勝利を与え給うて其の御計画を成就なし給うことは火を見るより明らかである。
不信仰を起こして行ける道はない。ペテロの海に沈みかかったと同じことである。唯心を強くし且つ勇め之を離れて右にも左にも曲がるなかれ、然らば何処に行きても利を得べし。(書一・一〜九参照)
説教終わりてさんびか二七七を歌った時は此の血の海を越えて勝ちを得たる殉教者の跡を踏んで右にも左にも曲がることなく勝ちの日目当てに進まんと決心した。
全国各地より来たり会する者千余名、最後に告別したが別れを惜しんで去り得ぬもの、涕泣する者あり可なりの長時間を要した。
四時出棺、特に選定せられたる東京府北豊島郡雑司ヶ谷の墓地に向かった三四丁の行列が続いた。特に著しく沿道の人々も奇異の目をして見ていたことは柩を担った者は皆洋服姿の弟子達であった。先生の生存中は重荷のみかけたからせめてもの事に先生の柩の重荷を負いたいと赤心よりの願いであった。道行く人々は其の厳かさに打たれ、いづれも立ち止まりて敬意を表した。
墓地にてはさんびか三五七を歌い簡単な式があって後、先生の常に歌い出された
父のあいあふれて 幸い身にあまる
豊かなるめぐみを 永遠にたたえなん
と反復歌いつづけて葬った。大きな十字架の墓標は厳かに立っているのを見た時、先生は十字架の真理を日夜語り通された。十字架の真理は尽きない。さながら太陽から無数の光線を放射している如く十字架の上から真理が輝いていると仰せられたことを思い浮かべて、先生の跡にはただ十字架のみが立っている。十字架が生涯の結びとなった。
全く埋葬終わりて帰途に着いたのは黄昏であった。
四、死と甦りの奥義
別府に於いて遺言せられた中にも、私が今日まで誤解や迫害を受けて来たことが何のためであったか、この事が分かるようにその証しを立てて行ってくれと申された。先生の生涯は踏まれ、蹴られて、その中に十字架を負うて忍び通して終わりとなった。之は必ず神が明らかになして報い給う日が来る、必ず多く実を結ばせ給う日が来る。主イエスはその範を垂れて在すのである。
その真理を味わい、その意志を完うし得んために先生の説教の一節をここに挙げ置くことにした。
『誠に実に汝等に告げん一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにて在らんもし死なば多くの実を結ぶべしその生命を惜しむものは之を喪い其の生命を惜しまざる者は之を保ちて永世に至るべし人もし我に仕えんとせば我に従うべし我に仕える者は我が居る所に在ん人もし我に仕えれば我が父は之を貴ぶべし』(ヨハネ十二・二十四〜二十六)。
我々は本当に一粒の麦として選ばれたのである。種そのものが如何するのでない、蒔かれた所に落ちてさえ居れば可いのである。小さくても好いた所に蒔かれんとするから難しくなる。蒔いた上から土をかけられ、見てもくれない。事実死んで埋められ、一度失われてしまって、誰一人知っても見てもくれないのに、そこから芽が出て生長し花が咲き果を結ぶに至る。
又種の中に艶色の好いものはない。果実の好いものほど艶色がない。土をかけられ踏みつけられるが当然なのに、好い所に蒔いてくれんか、少しは頭を出して置いてくれと言う。頭を出して置けば枯れてしまう、地に落ちるに艶色の好い種にならんとする、間違いも甚だしい。種は艶色がないのが本当である。
この種の中には驚くべき材木があり、林檎や梨がある。霊眼の開けているものは種を見て侮りはしない。目が開けないものは分からない。我々には朽ちざる永遠保つところの神の生命の種が蒔かれておる。アレがクリスチャンになったのかと馬鹿にされる。馬鹿になって死んだ状態におる時に、芽が出て花が咲き、香りのある果となる。そうすれば、あんなになりたい…霊の果を食うて、次第に信者が出来ることになる。されば種は蒔かれた所に、ヂッとしておることが大切である。種が好いのだから、もっと好いところに蒔いてくれと言うから事が難しくなる。骨を折らんとするからいけない。
主は天から暗黒の世に馬槽の中に蒔かれ、世から侮られ、捨てられ、遂に十字架に埋められ下さった。そして三日目に甦り、ペンテコステには大変な芽が出た。五十日目にアレ丈の果が出来た。遂には世界を圧倒する福音が伝わった。蒔かれた所にヂッとしているのを嫌うものがあるが踏み付けられるから芽が出るのである。ダカラ踏み付けらるる時に喜ぶべきである。
二十五、六、『その生命を惜しむものは之を喪い其の生命を惜しまざる者は之を保ちて永世に至るべし人もし我に仕えんとせば我に従うべし我に仕える者は我が居る所に在ん人もし我に仕えれば我が父は之を貴ぶべし』我々地上に幾分生命を残して置けば芽の出る時は来ない。全く世から失われた其の時…ドンな位置、ドンな所に置かれ様が、蒔かれた所、暗い所、苦しい事があっても、辛抱している、事実死ぬる時、栄が顕れる。『人もし我に仕えんとせば我に従うべし』従う事と働く事とは違う。主は十字架まで一言も言わず、踏まれ、嘲られ、殺されつつ文句を言いなさらなかったのである。ドンな位置ドンな境遇でも黙って通る其の時に、芽が出るのである。