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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第二十九章 各地聖会に顕れたる御行(一)
柘植不知人
Fujito Tsuge
呉聖会
呉聖会は大正十二年四月三日より、柘植不知人師を迎え、各派連合にて諸般の準備をなし、呉市バプテスト教会を会場として集会を開いた。師はキリスト教の真髄即ち死と甦りの奥義を遺憾なく語られ、手を病の者に按けて祈らる。
なかんづく八十三才の老人にて十三年間跛者となり、諸国を巡れる居行の乞食を神癒会に伴れ来たった。柘植師は『ナザレのイエス・キリストの名によって起ちて行め』と命ずるや、彼は会堂も張り裂けんばかりの大声を揚げ、躍り上がった。最早乞食を止め、帰郷して神を讃め称えて感謝の内に余生を送られよと戒め、訓したところが彼は悦びの涙を目に湛え、頻りに礼を述べていた。折しも周りに居合わせた数名の者によって集められた旅金を老人に手渡したれば彼押し頂きながら杖に縋りつつ其の場を立ち去った。人々この有様を見て悦び驚き且つ畏れ、神を崇めた。
この外呉市雨城藤本房子姉は長く腸を病みおり、次第に重態となり、腸の内膜は既に腐敗して流出するに至り甚だしき悪臭を放ち、医薬も効なく到底治療の見込みなく、医師も危篤と告げた容態にて生命は旦夕に迫りつつあったが、唯一度の御祈りにて全く癒され、多くの人々の驚愕となった。同姉は其の後壮健の身となり喜悦と感謝をもて私は全くあの時は死の宣告を下されていた者ですから、この世の者とは思うておりませんでした。然るに憐れみの御手を以て斯く癒されたるは大いなる神の御力によると証しせられている。信仰も進んで栄光を顕していることは誠に感謝の外はない。
その他呉市和庄通り三丁目大黒姉は子宮と心臓病にて歩行さえ困難であったが癒されて痛みも止み、その月より妊娠し、玉の様な男子を分娩せられた。本人は勿論御主人の喜び一方ならず、神の賜と深く感謝し、いよいよ奇しき御行を讃美せずにはいられないと夫妻諸共目下牧師の職に励みつつおらるる事は誠に感謝に堪えざる次第である。
尚市内岩方通り二丁目月原トヨ姉は四五年以前より胃腸病に加えて肺尖をも病み日々少しの熱を発し、医師よりは余程注意を与えられ、毎日注射を受けていたが快方に赴かず、何時全快かその見込み更に付かず、病苦に悩み居たが、信仰に立ちて医師と人為的方法を断然思い切りひたすら神に依り頼んだところが一回の御祈りにて癒され、一ヶ月後には体重一貫匁の増加を見るに至った。その後風邪にも犯されず胃腸は全然根治され、今日で満四ヵ年の月日を感謝のうちに過ごし来たった事は大いなる神の御憐れみによるものと至る所にて証せられている。
この外種々様々なる病の癒されたる者枚挙に遑あらず、誠に初代キリスト教の復活を今新しく見るに至り感謝に堪えないことである。(月原誌)
広島聖会
広島各派連合主催柘植師聖会は大正十二年六月四日より天神町アライアンス教会に於いて開かるる事となった。既に同師によって全国各地に神の御行の起こった事は喧伝せられ、殊に此の四月呉聖会の節不思議なる神の御行が起こり、霊肉に関する神の救いの聖手は加わり、屋根より落ちて手を動かし得なかった其の折れた手が癒されたとて動かし見せて証をなすもの、お医者帰りの薬瓶をさげた人の頑固な胃腸病の癒されたとて薬瓶を捨てて喜ぶもの、積年の罪の許されたとて踊るばかりに神を讃むる者、その光景たるや実に唯驚くの外なく聖書を実地に見るにあらずして何ぞ。斯くの如き神の栄光を親しく見、又自ら身に体験せしものの証は広島に響き渡りて集会の広島にもたれん事を鶴首して待ち望み居る折柄とて集会の初めより多くの病者は車又は担架にて運ばれ、或いは人に助けられて詰めかけ、流石の大会堂も病者をもって充たされた。これらの病者は不治と称えられたるものにして生死を賭して来た者の如く其のうち重症患者は会堂に宿泊し毎集会に出席するように努めた。故に会場は大半病者にて恰も病院の如く病床に横臥し、又は椅子に或いは人手に助けられ居る其の光景は主イエスの御在世中何処にても病者の雲集し来たれる状を思わしめた。又会場内は神の愛の流れ渡るありて一度会場に入れば誰しも神の愛にうたれて一切のへだての垣はこぼたれ、真に一致せしめられ、肉身の家庭の団欒といえども決して味わう事の出来ない親しみがあり、一同は唯天の父様の子供となって共に食し共に祈り共に語り讃美して集会の過ぎ行くを知らぬが如く見受けられた。
集会は一回毎に御栄光顕れ、不治の病者の癒さるるものあいついで起こり、第二日目の神癒会には今朝数年来足腰のたたなかったのが癒されたとて会場を人手に引かれて歩む者あり、漸次驚くばかり癒しの聖手は加わり車にて来たりし絶対安静を要すると言われた者の数日の間に癒され電車にて出席する様になった者もあり、数えつくす能わざる程の聖栄を拝した。広田守男兄も此の集会にて一枚の広告ビラを道にて拾うて来たり、不治と宣告せられた結核が癒されたという。斯くの如くして遂に予定の七日間終わるも病者はそれからそれへと聞きつたえ市中のみならず遠く田舎より来たり詰めかける有様、集会時は天神町はかなりの通りであるが人山を築くという有様にて閉会する事能わず、更に二日を延ばし、尚その光景ますます盛んになり、讃美の声と手を打つ音は堂を圧し一見物凄き有様にて一友人の来たりて神の栄光と聖潔にうたれて神のある事すら信ぜない者が畏れおののきて帰るなどのこともあった。また一度場内を流るる愛の空気にふれたものは到底その場を去るに忍びず帰っても家に居れずして再び来たる等の事もあった。病者はテキパキと癒され種々の問題に苦しんでいるものの問題は直ちに解決せらるる等、神の御働きの顕著な事はとても述べつくす事能わず、恵まれた者はその日から行軍に加わって市中に於いて証をなしたためますます人々は加わり、又も閉会しがたく切なる要求に応じ最後に尚一日を延ばし都合十日にて一先ず集会をとづる事になり、先生方一行四人の方は十四日夕の列車にて帰京せらるる事になった。広島駅頭は恵まれ癒された人々にて山をなし、人々はハンカチを振って列車を追いてプラットを走り列車の眼界を没するもなお去るにしのびざる有様であった。
癒され恵まれし人々(記憶をたどりて)
瀧内姉妹市内十日市の人肺結核癒さる。
屋代兄弟口腔中の腫れ物たちどころに癒さる。
山崎こま姉の事、こま姉は広島市大須町戸井亀太郎氏の付近の人にして此処数年前より足腰が立たなくなり医者からも不治と宣告せられたものであったが戸井氏に連れられて来たり不思議にも翌日早朝たちて歩む様にせられた。
広田守男兄、聞けば兄は大阪の有名なる専門医師に不治と宣告せられた程の重症の結核にて全治の見込みなきものであったが、或る日道路に落ちていた広告により聖会を知り来たりて瞬間の間に癒されたという。
安田リキ姉、十数年家より一歩も外出すら出来なかった身の全く癒され強められて聖会中二十数町ある所より出席せらるる程になった。その後一ヵ年あまり過ぎ京都にて会うた時見違える様になり血色も大変よくなり、唯専心彼の時に受けた神の恵みを感謝しておられた。
石川富貴子(母君よりの手紙のまま)此の度先生のお証の書物が出来ます由それにつきまして当地にての御栄光の現れし事どもを知らせよとの事ですが何分にも数年たちし事でも御座いますし、私の近頃の物忘れは教会でも有名で御座いますのでハッキリいたした事は分かりませんが富貴子につきて大略申し上げます。聖会のある二日前から盲腸炎にかかりまして発熱三十九度五分もあり医師は絶対安静せよと申し両便をも取る有様でしたが私教会にまいりまして柘植先生にお祈りを願いましたら明日は是非連れて参れと申されましたが何分にも食事もとりませず高熱でしたので不信仰の私は余り進めませんでしたが本人は必ず癒されると申し人力車で二日参りましたが余り障りません様でしたので翌々日は教会に泊まりました。先生にお祈りを願いました其の翌日には電車でまいりまして往復殆ど八丁余も歩行致しましたが何のさわりどころか熱も平熱となり腹部の痛みも取れ只感謝致しておりましたが、二日程して医師に診断して頂きましたら盲腸炎のみならず腹膜炎も胸部の少しの故障も皆悉く癒され居ると申され本人はもとより親の私の喜び何とも申し様も御座居ませんでした。只感謝の涙にむせぶのみでした。私も不信仰の罪を悔い信仰に入る様になりました。(その時まで母君は未信者でした。)
波田哲二 私が恵みを受けて召しの声をきき一切をすてて主にお従いしたのは広島の聖会からです。私は呉の四月の聖会で実に今思うても不思議としか思えない体験をいたしました。土曜日一日と思うたのが遂に聖会の終わるまで月曜日までも止まりそれも広島から仕事の間に通うというまでになり月曜日には遂に不思議なる神の聖業にあずかり身も魂も今日までのものではなく思いから考えまで一変されました。そして六月の聖会を待ち望んでおりましたところ、四日から開かれ会期中比治山の上の徹夜の祈り会中妙にも神様は御働きなさいまして今日までの一切を悔い改め、またその時に一人の兄弟の悔い改めるあって二人相いだいて感謝の涙にくれた事があります。それから谷の中にころげ落ちる様にせられてつれて行かれ只主の臨在に頭もあがらずして数時間倒れていました。遂に主は召して下さいました。私の聖会で受けた恵みを数えれば大変なものであります。今日まで悩まされて居た神経衰弱、腎臓炎、脚気等の殆ど全治せない数年長きは五六年苦しんでいた病の癒された事、今日まで解決のつかなかった一切の問題に解決のついた事、しかし第一の恩恵は献身の召しをうけた事であります。これは聖会の第一の恵みであります。
広島の聖会は実に今思うても驚くべき聖会であった。私の友人の無神論者は遂に神をみとむるに余儀なくせられた。神癒の栄も毎集会百人位の人々が癒しの座に出で悉く見る見るうちに生命の這入るのをみて驚いた。恵みを受けた人々の名も知らず一々名のみにてもあげ得ない事は一つの残念である。(波田哲二誌)