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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第三章 準備せられたる畑
柘植不知人
Fujito Tsuge
それ受造者の切望は神の諸子の顕れんことを待てるなり。そは受造者の虚空に帰らさるるはその願う所に非ず。(ローマ八・十九、二十)
第一 両親の感化
先に述べた如く父は仁術を重んじ、儒教の感化により、清貧を貴ぶ風ありて財政方面には更に無頓着にして、一生の間財布を持ったことなしというほどであった。母は幼少より肉体弱く、継母に仕えて苦しんだ結果であるが世の病者、貧者或いは不具者を憐れむ心はなはだ強くして常に多くの人々出入りして飲食し、貧者の子供を見れば直ちに憐れみ、自分の子供の衣服を与え、一つの衣物を一年の間我が子に衣せること稀であった。父の無頓着に相俟って家政の豊かになることは絶えてあるまじと思い私は子供ながらもこれでは一家を維持し、子女を教育すること能わざるは当然なり、これに反し他人の親達を見れば経済的知識あり、理智に富み子供に教育を授け、家庭の秩序だちおるを見るにつけても自分の両親もあんなであったら、かくまで不幸にはなるまいかと嘆いたこと幾度もあった。
然れど今キリストの救いを受けて静かに考え見るに、もしも両親が世事に長け、理智に富み、相当財を貯え、教育を授けられていたならば、この世の知識階級の奴隷となり、恐らく救われなかったであろう。世のこれらに富む人々の救わるることの困難なるを見るにつけてもかく感ずるのである。父が専ら仁術を重んじ、世の弱者を憐れみ、自分の貧苦を顧みず、人の為に労苦した両親を与えられたるは決して無意義なことではなかった。世の病者の友となり、弱者の道伴れとなり、貧者の慰め手となり給えるキリストの御足跡をたどるようになし給う深き神の聖旨のあったことを示され、今はかかる両親を与えられたことは神の恩恵によることと思うて感謝の外はない。
第二 三大事業
私は畢生の事業として貧民救助、無資者の教育及び病者の救治との三大事業を生涯の大使命として実行したいと志し、すでに再三試みたこともあったが功を奏さず、何とかしてこれを成就する道なきかと考え、密かに求めつつあった時に救いを受け、神の能力によりてこの三大事業を成し遂げ得ることを発見したことは何とも歓喜に堪えざる次第である。
何故にかかる事業に志したかというに、すでに述べた如く、私自ら貧困の家に生まれ、貧苦に悩み、その悲しみは忘れんとして忘るる能わず、同じ境遇に居る者を見ると同情の念湧き出で、この人々を救わずしてまた他に為すべき貴き働きなしと心を定めたからである。又私は貧困のため秩序立ちた教育を受くることが出来なかった。然るに世は益々文明に進み、知識階級の世となるに従い秩序的教育を受けざる私は長じて学業に志したるも最早教育制度の許さざる所となり、遂には独学にてある程度まで学んだが形式を重んずる世の中には通用せず、その時期を失したため一生を誤りた悲しみはこれまた忘れんとして忘ることの出来ない第二の苦痛であった。
また病者の救治の事業は幼少の頃より両親の重症に罹り、多年病床の身となって苦しむのみならず、一家の悲惨実に名状すべからざる有様に陥った時、病の人生に及ぼす禍をツクヅク経験し、又医家に生まれ、その来る人々の病苦を見るに忍びなかった。これその救治のため一身を投ぜんとした理由である。これらの計画を立てすでに試みたるも成功せなかった。これは本末を誤っていたからであった。キリストの救いを受けてこの三大事業も根本的になし遂くることの出来ることを知って喜びに堪えぬ次第である。
第三 真宗の行詰
前述の如く私の母は幼少の頃より継母にかかり、身体は弱く、又柘植家に嫁して後も悲惨な境遇の支配を受け、とてもこの世に安心立命の途なきを悟った為か信仰の念篤く、絶えず仏門に足を運び、父もまた儒教を熱心に学び如何なる患難に処しても意とせず、極めて磊落にして常に楽観的であった。これらの両親の感化を受くると共にその境遇上勢い宗教によって安定を得るのほか他に道なく、安芸門徒というて一向宗の最も盛んな所であるから母と父の病中にも毎朝未明に起き朝寺と称し、寺に詣でその集まりを終わりて家に帰り、一家族揃うて内仏に礼をなし、その後食事をなし、家事につくこと日その慣例であった。更に熱心な信徒のみ出席する特別な同業者に加わるに至った。
一向宗の教えはこの末代無智の凡夫が自力雑業によって永遠の悟りを開くことは不可能なるを認め、ここに開祖親鸞上人が他力本願の道を開きたるものにして如何なる罪業甚深の者でも弥陀の本願によりてその身そのままただ信ずることのみによって救わるとの道を開きたるものであるが、私は如何にもして安心立命を得たく熱心に求めたが何等の功顕もなかった。それがためにあらゆる集会にも出で名僧知識につき極力信仰に努めたが、これは現在の救いにあらずして罪を持ったまま露塵疑うことなく、その身そのまま未来に飛び込めば赦しもあれば救いもあるというのであって極めて率直単純な信仰は養われたが、私の願う所は現在に於いて罪赦され、伏仰天地に恥じざる高潔な生涯に入りたいのでとても罪を持ったまま現在の生活をつづけることは出来ない。何か他に救いはないかと多年求めて止まず、愚かながらも相当信仰の道を求めて修養鍛錬し、一面には実生活上の戦い、その方にも行き詰まり、ほとんど寝食を忘れるまでに苦しみ、時には人生不可解を叫び、何のために人はこの世に生まれて来たかと思い全く心中暗黒となり自殺を計らんとしたことも幾度もあった。然れども魂の問題については少しの光明もなく、未来に対する不安は満ち、死の恐れに繋がれ、死なんとして死ぬことは出来ず、生きんとしても生きること能わず、この不安と苦痛を除かんがため、時には大酒を飲み、時には芝居にゆき、時には肉の快楽にふけり、あらゆる世の慰めを求めたが、どうしても心の叫びに応うるものなく、更に不安に不安を加え、苦痛に苦痛を増すのみであった。
これを要するに伝説によれば真宗は景教と称して支那に伝わっていたキリスト教の思想より取ったもので筋道はほとんどキリスト教に異なる所はないほどであるが、如何せん、歴史的の贖いの事実がない。従って現在に於いて罪の赦しなく又生命を与うことは出来ない。私は真宗の信仰で全く行き詰まっていたから罪を赦し生命を与うるキリストの救いは渇ける者に水を見せられた如く直ちに受け入れたのであった。ただ単純な信仰は真宗によって養われていたから、助けになったことは事実である。