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「神の僕の生涯 ペンテコステの前後」
第三十章 各地聖会に顕れたる御行(二)
柘植不知人
Fujito Tsuge
姫路聖会
大正十二年初めて武徳殿に於いて柘植先生の第一回聖会の開かれたのが導火線となり、小国病院長一家の祝福となり、爾来藤村大平師を遣わされて同家一属の信仰を堅うせられ、次いで同病院付属の産婆養成所及び病院の人々を合わせ十八名の魂が主に導かれ、之が当地の群れの基礎をなすに至った。
遂に同十四年十二月六日より第二回聖会開かる。その五日間の集会に於いて新しく導かれた人員は百五十二名あった。その内より信仰堅うせられた者が相加わって、信仰に冷淡極まる所と言われていた姫路市の一角にも遂に伝道館の仮設を実現するに至った。その後大正十五年九月までに九十名以上のもの加わり、毎集会者六七十名を算するに至り、いよいよ仮伝道館の狭隘を感じ、新築の議起こり、同年十月二十一日新築なって献堂式を挙ぐるに至った。同時に三日間柘植先生によって聖会開かれ、聖霊の御働き著しく癒さるる者、救わるる者多く起こり、大いなる栄光を拝した。図らざりき、これが先生最後の聖会とならんとは………(皆川栄四郎誌)
大阪泉尾聖会
大正十三年頃、この地方の純福音を慕える群れは牧う者なき羊のような状態で、魂の飢え渇き甚だしき矢先、主は柘植先生により各地方に於いて大いなる御栄光を顕し着々勝利を得られつつあることを仄聞し、同先生にお願いして、大正十三年十一月泉尾福音教会にて第四回関西リバイバル聖会を開いて頂いた。
その時の標語は『視よ我万物を新たにせん』であった。聖会は会毎に栄光現れ十字架の真理は輝きて、今まで各自のあやまれる信仰は打ち砕かれ、全能の神を信ずる信仰は一同の肉碑に刻み付けられた。聴衆は満堂に溢れ、外部行軍に於いても嘗て見た事のない驚くべき光景であった。驚嘆すべき御行顕れ、日延べの余儀なきに至り、六日間を八日間に延ばした。この聖会の結果、純福音を慕う者は一つの群れとなり、ここに泉尾基督伝道館を設立するに至った。
大正十四年三月二十三日より新しき所を求めて、再び柘植師の聖会開かる。その時の標語は『我を仰ぎ望めさらば救われん』であった。集会は銀行跡の階上にて開かれ、実に凄まじき光景となった。『エスさまにたよりなばうれいもなやみもよろこびとならん』との讃美に合わせて手を打つ喜びの力に二階も落ちるかと危ぶまれるほどであった。その時よりこの歌はこの地方に伝わり広がった。
この聖会にて重荷は去って喜びとなり、神の子の信仰は印刻せられ、癒さる者も多くあった。難症の歯痛が直ちに癒され、ヂフテリヤの癒されたるもあった。その時の決心者は百七十名、神癒を受けた者四百名、最後の証し会の時、救われ、恵まれ、癒されたる証の数八十名あった。続いて同年八月二十三日より実業会館に於ける大阪リバイバル聖会となった。(田添幸雄誌)
粉浜聖会
粉浜基督伝道館設立後、最初の聖会は大正十二年八月二十日より七日間柘植先生により、堺市大浜公会堂に於いて開催された。当時は落合本部の他に粉浜基督伝道館が設けられたばかりであった関係上、京阪神は勿論、東京、信州、岡山、広島、熊本など随分遠方より熱心な諸兄姉が集まった。集会は主として信者の為であった都合上伝道的集会はなく、聖別神癒の両方面であった。然し毎回集まる者多く殊に夜の集会には満員の盛況であった。救わるる者、潔めらるる者、癒さるる者多く其の数は夥しきものであった。かく報告を為す事と知って居ればもっと詳しく記し置くはずであったが前途を弁えざるためとはいえ残念な事をしたと思う。かかる聖会は其の当時関西には未だ見た事がないとは年経たる信者達の風聞であった。殊に神癒に驚くべき聖栄が顕れた。それは感謝会の証詞の時に人々の証詞によって知られた。
又ある人は東京の聖会でも見られぬ御栄光を拝し、主が右に居給うダビデの経験を与えられたと感謝していた。宿舎は会場を離れた北波止場松波楼であったので夜遅くまで祈る場所が与えられ、受けた恵みを祈りの内に堅くせられ深くせられた。為に聖会後も聖栄が顕れ各地より礼状が多く寄せられた。又この聖会後各地方に新しき霊の飢え渇きが起こって聖会開催を要求する者が多く起こった。これを見ても如何に著しき御栄光が顕れ、聖工が起こったかを悟る事が出来ると思う。栄光を主に帰し感謝して止まぬ次第である。続いて翌年一月八日より八日間に亘って堺市北波止場松波楼に於いて新年聖会が開かれた。柘植師はこの聖会の最初軍旅の将なる主に遭いて此の主によって立ち上がられた。主が幻のうちに顕れ給うたとは柘植師の証詞であった。さればこの聖会は主の聖会で誰の聖会でもなく、この戦いは主の戦いで誰の戦いでもなかった。されば厳寒の折であり場所も人里離れた所であったにも拘わらず主を愛し求むる熱心なる諸兄姉は寒風と戦い長途の旅も意とせずして集まった。
そして熱心に主を求めた。主は柘植師を通して洪水の如く溢れて渇ける霊魂をうるおし、飢えたる霊魂を満たし、死せる霊魂を活かし焔の如く燃え上がり、眠れる霊魂を燃やし給うた。殊に柘植師が満たされた時誰も教師を見る事できぬまで輝きて我もなく世もなく主のみ在せりと云わしめた。この聖会中かかる事がしばしばであった。多くの信者は潔められ、新たにせられ、多くの病者は癒され著しき御栄光を拝した。宿舎の人々も驚いてあなた方の神様は活きていなさると云うていた。この聖会後関西の霊界に一大革新が起こされた。栄光を主に帰し感謝して止まず。(大平春弥誌)
大阪リバイバル聖会
大正十四年八月二十三日より三十日まで八日間に渡って、大阪東区内本町実業会館に於いて大阪リバイバル聖会が開かれた。この集会は主として二百七十万を以て算せられている大大阪の市民に活ける神の福音を伝えて全市民を活けるキリストに導かんための集会であったが、朝は祈祷会、昼は神癒会、夜は伝道会という順序であった。余り大々的の集会であったために大阪四基督伝道館は勿論東京より多くの助け人が来たり、各地の同信者の応援軍が加わって集会の二日前より広告のために大行軍をなした。最初より勝利が与えられ祈祷は応えられ、天候は祝され行軍も祝された。集会前も集会中も行軍は恵まれた。殊に終わりに成るに従って行軍に加わる人が多く成った。これ集会に恵まれて喜びがあふれた結果で、たまらない思いをして此の福音を伝えずば止まずと云う意気込みであった。この喜びに溢れた人々が手に手にタンバリン旗、夜は提灯をもってラッパの声に合わせて、さんびかを歌いながら市中をねり歩く光景は到底他に見られぬうるわしさであり、勇敢さであった。為に市民は驚いて道の両側に真っ黒に立っていた。いよいよ集会の開かれるや、広告を手にした市民は汐の如く群れ集うて、流石に広い会場も満員と成った。柘植師は聖霊の能力をもって福音を伝えられた。余り勇ましいので此のヤソは違うと云うて驚いていた。主は毎夜多くの人々を送り給うて多い時は一千人以上であった。この集会を通して救われんため決心した人は約四百名であった。朝の集会は信者の歩むべき信仰の途に付き導かれて信者は非常に恵まれた。昼の集会は神癒の集会であって多くの病者がいやされ、恵まれ驚くべき栄光は顕れた。(大平春弥誌)
尼崎聖会
尼崎に於ける聖会は大正十四年六月二十二日より五日間同市大物日曜学校にて開催せらるる事となった。吉川兄に案内せられて先着の四名はビラを手にして雨模様の見知らぬ市中に神の招きを伝う。夜分雨の晴るるをまちて再び行軍、今度は当地の信者及び大阪よりの来援ありて勢い頓に加わり、一同リバイバル唱歌の三番を楽器の音勇ましく声高らかに叫び歌う。市中の空気は異様に緊張味を帯び来たり、市民堵列の中を行軍し人口四万の都市戦わざるに陥落せるの観ありて士気大いにあがる。
二十二日午後先生一行来尼せられ、陣容全く整い戦機の熟するを待つ、午後六時いよいよ戦いの火蓋は切って落とされ、会場手狭きを覚えるほどの会衆は初めよりすでに酔わされたるものの如し。講壇より流るる活ける生命の水はますます流れて今日まで求めて得ざりし魂の飢え渇きを癒して余りあり、一同すでにあけるものの如く改心者を募りしに四十名、翌二十三日より午前午後に亘りて三回の集会あり、神癒会に於いては癒されるもの多く中に肺結核の癒されしあり、又十数年病のため電車などの乗り物に乗りし事なく歩行も自由ならざりしものの癒されて感謝するもの其の他限りなく、また聖別会伝道会にありては多年の信仰益なかりし信者の新しい光に接し、生命をうけて喜ぶもの永年の罪の責めより救われて見るがうちに性状性格の変化せしを感謝するもの等不思議なる神の栄光を拝し新たに救われしもの百五十余名、遂に神の御導きにより日曜学校主なる渋谷兄は従来の教会より脱会して純福音教会の信者となり校舎を神に捧げて同市に伝道を望むに至りし程なりき。
第二回は大正十四年十一月八日より五日間市の中央なる図書館楼上に於いて開催せらる、第一回に勝れる聖会にて会するもの三百名以上一日二回の行軍は各地より応援せられし人々にて二百名ばかりその長さ一丁に垂々とする大行列にて市民の心を奪いいよいよ会衆を加う。伝道集会に神癒会にそれぞれ栄光を拝し、有名なる病院にて不治と宣せられし脊髄病の癒されしものを第一として非常に多くのものは神の恵みをうけ救われしもの百六十名今日の尼崎基督伝道館の基礎は前二回の聖会に救われ癒されし者によって成立せしものなり。(波田哲二誌)
京都聖会
柘植先生の京都聖会は大正十三年七月十五日より十五日間、今の伝道館の敷地に天幕集会を開いたのが本隊の働きとしては初めであった。事をなして之をとぐるエホバとの御言を与えられ、この周りの山々より偶像を以て威喝せられている町、日本諸宗教の本源地たる京都、抜いて植えられ、毀ちて又建てられずば止まじ(エレミヤ一・十)との信仰を与えられ、炎熱焼くが如き中に市中を行軍し、神の臨在は天幕を蔽い町々にも輝いた。午前の神癒会に於いて癒さるる者ぞくぞく起こり、神の現実なる御働きを拝して驚くの外なかった。諸医学者より不治と認められ、又自ら大学の教科書によって病理を研究して治療に努めたるも癒えなかった永年の脊髄労の病者豊永源七兄、片手不随の野崎ソノという子供の方などの癒されたるも此の時であった。付近の看護婦会員にして一時に急性腹膜炎、盲腸炎、両方肋膜炎、心臓性脚気、横隔膜麻痺及び卵の中毒の六種の病で倒れていた大月すえ姉の如きは他の兄弟が行って祈った時全く癒された。それらはここに満ちたる主の臨在の波動であった。
改悔者は三百余名であったが、日数が長かったので改悔者は別に第二の集会を開きて養成し、救いを堅うせられ、又他教会に通っていて救われていなかった人々も多数救われて此の群れに加わり、ここに京都の群れの基礎が据えられた。
同年十月三十一日献堂式と共に五日間の聖会開かれ、栄光の御行は更に進んでリバイバルの光景となり、改悔者百二名、この時も癒さるる者多く起こり、悪性腫瘍で長く臥していた市外花園村広瀬正次郎兄は自動車で運ばれたが直ちに癒されて帰りには自転車に乗って帰った。又京都産院の入院患者大鹿君枝姉は産後の子癇で絶望となり、人事不省となっていたが、この聖会の出席者二人が病室に行って祈った時、忽ち癒され医学者達の驚きは一方でなかった。これも聖会中に於ける主の臨在の波動であった。
斯くの如く聖会は度を重ねて大正十四年四月十三日より五日間三條青年会館に於けるリバイバル大会となった。主の臨在に輝き、恩寵に満たされたる数百名は手に手に十字架の旗を振りつつ全市に行軍し、眠れる市民もこれがため醒め会衆七八百名を算し、決心する者三百六十八名、青年会館創立以来宗教の集会に於いて今回の如き盛んにして聴衆の充満したことなしとは同館幹事某の言であった。又この集会に各教派の人々も多数来たって大いなる感動を受け、所属教会を動かしたという。三條通り某饅頭屋の主人は日々この行軍隊の熱誠なるを見て感激し、その労を慰せんとて饅頭数百を献げられたるを見ても如何に市民に感動を与えられたるかを知ることが出来る。
かくして京都の聖会は天幕と共に第七回を重ね、改悔者千五百名、難症不治の多くの病者癒され、主の聖名は高らかに崇められている。(西條弥市郎誌)