A. B. シンプソン著
私の内に住みなさい、そうすれば私もあなたたちの内に住みます。
私なしでは、あなたたちは何もすることができないからです。
(ヨハネによる福音書十五章五節)
ある伝道者の話によると、中国人は名ばかりのクリスチャンと本当の弟子を区別することを学んだそうです。ヨーロッパに住んでいる人はだれでもクリスチャンと呼ばれますが、彼らはこの名を持つ者たちを彼らの功罪によって見分けることを学びました。「もしこの酔っぱらいや、冒涜的な外人がクリスチャンなら、我々をキリスト教から救いだしてくれ」と言う理由が十分ある場合もしばしばです。しかし、彼らは本当にイエスに従う者たちとただの名ばかりのクリスチャンの違いを見いだしました。彼らは前者をクリスチャンと呼ばずに「イエスの民」と呼びます。彼らはクリスチャンという表面的な名前を持つことと、本当にキリストに似ることとの区別を教わったのです。
これは、クリスチャン生活とキリスト生活の相違を示す例証として役立つでしょう。クリスチャン生活は、ある観念や原則を受け入れ、ある形式や儀式を遵守すること以上のなにものでもないかもしれません。キリスト生活は、魂と生けるキリストご自身との結合によって生じる、生き生きとした神聖な経験です。クリスチャン生活は、キリストを模倣し、彼の教えと戒めに従うことを真面目に試みる生活であるかもしれません。しかし、キリスト生活は、イエスご自身があなたの生活の中に受肉される生活です。キリスト生活は、キリストがあなたの内で彼の生活をふたたび営み、あなた自身の力では決して実現できなかった状態や行いを可能にするものです。
人格
この思想が示唆する第一の点は人格です。過去の歴史で私たちが最も評価するのは、事件の記録ではなく、人々の生き様です。国家を偉大ならしめるのは、壮麗な景色や快適な気候ではなく、国家的特色を形成する人々です。英雄は、伝統、記録、詩、文学、芸術にまさります。私たちが個人生活で最も重んじるのは、家屋や土地、商売や財産、教養や向上ではなく、友人や愛する人たちです。あなたは、危篤状態にある弱い小さないのちを救うためなら、全世界をも犠牲にするでしょう。あなたの最も大切な宝は、あなたが愛して自分のものと呼ぶ人たちです。
いっそう高い領域でも同じです。宇宙で最も偉大な概念は、人格神の概念です。喜ばしいことに、神は抽象的な観念や原理ではなく、生ける方です。神は生ける方ですから、私たちは意識的に神に触れ、信仰と愛の腕をもって神を抱くことができます。クリスチャン・サイエンスの迷妄から救われたばかりのある女性は、イエス・キリストの人格を理解して叫びました、「どうして私は、『キリストは単に原理であって人格ではない』という彼らの恐ろしい教えの間違いに気づかなかったのでしょう。彼らの教えでは、イエスを愛することは、私の垣根の葡萄を神の原理として愛するようなものです。ああ、イエスが私自身と同じように現実で、私のほむべき救い主であるとは、なんという喜びでしょう」。
キリストご自身
私たちは彼の生涯の物語を読む時、その素晴らしい御業と御言葉の背後に、生ける方ご自身がおられるのを見ます。彼の人格はあまりにも高いため、不信仰の輩ですら「最も説明しがたいのは聖書ではなく、聖書の中のキリストだ」と言わざるをえませんでした。今まで、キリストほどご自身のことを多く語られた方はいません。「私はいのちのパンです」、1「私は世の光です」、2「私と父は一つです」、3「私なしでは、あなたがたは何もすることができません」4というキリストの御言葉は、ごく自然で威厳があり、彼の性格と人格にぴったりです。そのため、畏れと崇敬の念をもって、私たちはこれらのキリストの御言葉に耳を傾けずにはいられません。私たちは、彼が利己心なしに常に舞台の正面に立つ権利を持っておられること、また、彼ご自身は彼が啓示された真理や彼が成就された御業よりも偉大であることを、本能的に感じます。それだけでなく、その人格は今もなお生きて現存しています。「見よ、私はいつもあなたがたと共にいます」、5「見よ、私は永遠に生きている者である」。6彼はガリラヤの日々と同じように、あらゆる世代を通じて現実に歩まれます。彼はキリスト教の頭であるだけでなく、心臓でもあります。彼は「きのうも、きょうも、いつまでも同じ」方です。7
彼の無縫の衣のいやし、
我らの苦痛の床のかたわらにあり。
我らは混み合う人生の雑踏の中で彼に触れ、
かくしてふたたび健やかになりぬ。
さりながら、今なお彼は、
あたたかく、甘く、優しい、身近な助け手。
信仰はなおもそのオリーブ山を想い、
愛はそのガリラヤを想う。
1 ヨハネによる福音書六章四十八節(訳注)
2 ヨハネによる福音書九章五節(訳注)
3 ヨハネによる福音書十章三十節(訳注)
4 ヨハネによる福音書十五章五節(訳注)
5 マタイによる福音書二十八章二十節(訳注)
6 黙示録一章十八節(訳注)
7 ヘブル人への手紙十三章八節(訳注)
キリストとの個人的な結合による救い
キリストの人格は、私たちの救いと密接な関係にあります。私たちは、信条を奉じ教理を信じて救われるのではなく、一人の御方を受け入れることによって救われます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持ちません」(ヨハネ第一の手紙五章十二節)、「ですから今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません」(ローマ人への手紙八章一節)。私たちと主イエスご自身との関係が、私たちの運命を決定します。イエス・キリストは、罪深い人々に対する御父の賜物です。その賜物を受け入れるなら、私たちは神との交わりの中に入れられ、贖いのすべての恩恵にあずかります。ちょうどアダムが堕落した人類の生けるかしらであったように、キリストは贖われた人類の生けるかしらです。「なぜなら、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるからです」(コリント人への第一の手紙十五章二十二節)。
私たちのいのちであるキリスト
私たちのいっそう深い生活も、キリストご自身との結合によります。使徒はこれを崇高な逆説で表現しました、「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられます。そして今、私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです」(ガラテヤ人への手紙二章二十節)。聖潔は徐々に達する個人的品性ではなく、主イエスとの結合です。その結合は、主ご自身がぶどうの木とその枝のたとえで描写されたように、完全で親密なものです。主は言われました、「人が私の中に住み、私もその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結びます。なぜなら、私なしではあなたがたは何もできないからです」(ヨハネによる福音書十五章五節)。私たちは、聖潔の高嶺にのろのろと骨折ってよじ登る必要はありません。私たちは聖なる御方ご自身を受け入れればいいのです。彼は私たちの中に住んで、彼ご自身が到達した恵みと栄光の高嶺に私たちを引き上げて下さいます。「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスの内にあります。キリストは私たちに対して神の知恵となり、また、義と聖と贖いとになられました」(コリント人への第一の手紙一章三十節)。私たちがなすべきことは、道徳的教養を得ようともがくことではなく、彼を受け入れ、彼の中に住み、彼ご自身の卓越性、彼ご自身の性質、彼ご自身の恵みを毎日一歩ずつ私たちに移していただくことです。
私たちの肉体のいのちであるキリスト
私たちの肉体が生かされるのも、同じ源によります。使徒パウロは、イエスのいのちが自分の死ぬべき肉体にも現れた、と言いました。パウロは彼自身の天然的ないのちを持っていましたが、それは制限されており、過度の労苦と試練から来る緊張でしばしば消耗しました。しかし、彼は第二のいのち、すなわち「イエスのいのち」を持っていました。彼はイエスのいのちによって、自力では耐えられない圧迫にも耐えることができました。私たちの栄光の主の復活の体は、すべて彼に信頼する民のための肉体の力の源です。私たちが彼の中に住んで彼からその支える力を汲み出す時、私たちは「彼の肉を食べ、彼の血を飲み」ます。1そして、私たちは彼の中に「住み」、「私が生きるので、あなたがたも生きる」2という主の御言葉が実現します。
1 ヨハネによる福音書六章五十六節(訳注)
2 ヨハネによる福音書十四章十九節(訳注)
私たちの希望であるキリスト
彼の再臨の輝かしい教理は、キリストご自身がなければまったく空しくなってしまいます。彼に従う者たちの内に熱烈な願いを起こすのは、彼が与える報いや、彼が授ける冠ではありません。「彼らは彼の御顔を仰ぎ見ます。(中略)御座の中央におられる小羊が彼らを養い、彼らを生ける水の泉に導いて下さいます」(黙示録七章十七節)との御言葉が実現される、幸いなその場その時の主イエスご自身なのです。再臨の望みの一番の核心が次の御言葉に示されています、「私は再び来て、あなたがたを私自身に迎えます。それは、私がいるところにあなたがたもいるようになるためです」(ヨハネによる福音書十四章三節)。
今や神は、御子を信者の霊的生活の総計及び実質とするために、彼を特別に資格づけられました。コロサイ人への手紙二章九節は、「なぜなら、キリストのうちに神たる方の全豊満が肉体のかたちを取って宿っているからです」と私たちに告げます。神は、人が必要とするものをすべてキリストにお与えになりました。神は、あなたや私のために、ご自身の力、愛、助けをことごとく、このほむべき方の中に凝縮し、人格化されました。ローマのバチカンには美しい天井画がありますが、それは高すぎて見ることができません。参観者は目をこらして見ようとしますが、見ることができません。この困難を解決するために、絵を映す鏡が設置されました。あなたがなすべきことは、小さな窓のところまで歩いて上って行き、鏡に映ったフレスコ画を見下ろすことだけです。そうすれば、目もくらむような高所にあるフレスコ画の微妙なタッチを見ることができます。それと同じように、神はその栄光と美と助けを、無知で無力な人類のところにまでもたらして下さいました。神はすべてを鏡であるイエス・キリストの中に入れ、「あなたは神のうちに必要とするものがありますか?ここに縮図があります」と仰せられました。そして、神はそれをあなたの手に渡して言われます、「私は、私のすべてをイエスの中に入れました。今、私はあなたに彼を与えます。あなたは自分自身のために、彼に要求することができます」。
理想の人
このほむべきキリストは神の豊富の化身であるだけでなく、人のあるべき姿の模範、見本でもあります。ただ一人の方だけが完全な人間生活を送られました。神は優しい哀調で、預言者の一人を通して、「私はすべての部族の中に人を探し求めたが、一人も見いだせなかった」と言われました。神は人間性の条件にかなう人を探されましたが、一人も見いだせませんでした。しかし、ついに一人の方が来ました。そこで、神はその方を見て喜んで言われました、「これは私の愛する子、私の喜ぶ者である」、1「私の支持するわがしもべ、私の心が喜ぶわが選び人を見よ」。2彼は神の期待にこたえて、すべての人の模範となられました。こうして、一人の方が地上に住み、男性や女性や子供の理想となりました。彼は完全な人格、婦人の心、男性の男らしさ、仕事場の職人、説教者、教師、友人、受難者、試みを受ける者の模範です。人がどんな状況に置かれたとしても、すでにイエスはそれを経験しておられるのです。
1 マタイによる福音書三章十七節(訳注)
2 イザヤ書四十二章一節(訳注)
今や、このほむべき方があなたに与えられました。彼は言われます、「私を受け入れなさい。遠くから見習う模範としてではなく、いのちとして受け入れなさい。私は あなたの内に入って、あなたに私の性質そのものを分け与えます。私の性質はあなたの心の第二の性質となり、あなたの選択に自動的に働き、あなたの意志において勝利し、あなたの感情生活全般に織り込まれます」。これがキリスト生活です。これが、今日あなたのところに来て、ご自身の豊富と十全性を与えて下さるキリストです。
私たちの性質との調和
クリスチャンではないけれども、思慮深く、聡明で、義なるものに深く飢え渇いていたある婦人が、「どうして、私たちの個性を失わずに、このようなことが可能なのでしょうか?これは私たちの人格を破壊し、個人の責任を放棄することになるのではないでしょうか?」と尋ねました。私は言いました、「あなたの人格はキリストなしでは不完全です。キリストはあなたのために造られ、あなたはキリストのために造られました。彼に出会わない限り、あなたは完全ではありません。あなたが彼を必要とするように、彼はあなたを必要とされます。かりにガスの噴出口が『もし私がこの火を受け入れたら、自分の個性を失ってしまう』と言ったとしたらどうでしょう。ガスが自分の存在目的を成就するのは、火がその中に入る時だけです。かりに雪片が『わたしはどうしたらいいのでしょう。もし地面に落ちたら、私は自分の個性を失ってしまいます』と言ったとしたらどうでしょう。しかし、雪片は落ちて地面に吸収され、やがて桜草や雛菊の一部になるのです。自分自身を失って、キリストの新しいいのちの中によみがえることは、栄光なことです」。
キリストのために創造された
広大な西部の不毛の平野を横切るには、快速の機関車でも数日かかります。毎日目にするのは、線路に沿って生えているヨモギと砂だけです。それについて尋ねたところ、私はそれが国中で最良の土壌だということを知りました。ヨモギが生えるところには、なんでも生えます。しかし、一つのものが欠けていました。それはなんでしょうか?しばらくして、私たちはオアシスに着きました。草はどこよりも青々としており、熱帯の果実、いちじく、みかんの木が生い茂っていました。なぜこのような相違が生じたのでしょう?畑のまわりを歩いた時、私たちは山の小川を引く用水路を見つけました。それが土地を水で潤していたのです。ただ一つのもの、すなわち水が必要だったのです。あなたには無限の可能性があります。しかし、水を迎えて豊かな実を結ぶのでなければ、あなたは無です。砂漠は水を必要とし、水は砂漠を必要とします。あなたはキリストを必要とし、キリストはあなたを必要とされます。多くの実を結ぶのは、この結合、彼の中に住むこと、彼があなたの中に住まわれることによります。なぜなら、「私なしでは、あなたがたは何もすることができません」1と主は言われたからです。
1 ヨハネによる福音書十五章五節(訳注)
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