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キリスト生活
第4章 私たちの内におられるキリスト

A. B. シンプソン著

私の中に住んでいなさい。そうすれば、私もあなたがたの中に住みます。
(ヨハネによる福音書十五章四節)


さて、二番目の思想「私たちの内におられるキリスト」に移ることにします。私たちはかなたの天を仰ぎ見て、そこにキリストを見ました。キリストは天において、彼のすべての従者たちに取り囲まれ、無限の富を賦与せられ、すべての力と支配の上に座しておられます。そうです、それらはみな私のものです。しかし、それにまさるものがあります。かなたの御座にあらゆる豊富を見た後、私たちはここに彼を迎えて、私たちの心の中に御座を打ち立てていただき、私たちの心を天そのものとしていただくことができます。

天におられるキリスト

使徒はエペソ人への手紙の第一章で、「あなたがたの目が天を仰ぎ見て、主が持っておられるものを見ることができますように」と祈りました。望遠鏡を覗いて、あの雲を見なさい。彼がどのように昇天されたかを見なさい。主は墓を超越し、死のかせを超越し、死と地獄の力を超越し、自然界の力を超越し、天使の位を超越し、あなたを傷つけ痛めるすべてのものを超越しておられます。信者が信仰の望遠鏡によって主に従い、すべての支配、権威、力、主権、あらゆる名を遙かに越えて進むなら、信者は測り知れない栄光に目が眩んで、圧倒されてしまいます。

心の中におられるキリスト

天におられるキリストは一つのビジョンです。エペソ人への手紙をさらに読んで行くと、もう一つのビジョンを見ます。使徒は、私たちが天のキリストを見ることができるようにと祈りました。しかし今、使徒は、何かさらに崇高で偉大なもののために、私たちの「内なる人が力をもって強められますように」と祈ります。「パウロよ、それは何でしょう?もっと偉大なものがあるのでしょうか?」。おお、そうです、あります。それはこれです。「キリストが信仰によってあなたがたの心の中に住んで下さいますように。またあなたがたが、愛に根ざし土台づけられて、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、深さ、高さがどれほどであるかを理解することができますように。そして、知識を超越したキリストの愛を知って、あなたがたが神のすべての豊富で満たされますように」(エペソ人への手紙三章十七〜十九節)。これはもう一つの天です。これは、私たちの心の中にもたらされた天です。第一の思想は、かなたにおられるキリストです。第二の思想は、新エルサレムのように天から下って来て、私たちの最も深いところに住まいを造られるキリストです。

私たちの内に形造られるキリスト

パウロはガラテヤにいる彼の霊的な子供たちのために、「私の小さな子供たちよ。キリストがあなたがたの内に形造られるまで、私はふたたび産みの苦しみをします」(ガラテヤ人への手紙四章十九節)と叫びました。この祈りは、すでにクリスチャンになっている人たちのために彼がささげた祈りです。「私の小さな子供たちよ」、あなたがたは再生されました。しかし、キリストご自身があなたがたの内に形造られるまで、私は産みの苦しみをします。それは、あなたがたが新たに生まれる以上のことです。それは、新生した人の内にキリストご自身が形造られることです。信者の胸の内にある貴い黄金の小箱が開かれて、その中に黄金の小箱よりも明るく輝く別の宝が納められます。キリストご自身の生ける臨在という宝石が、信者の心の中に納められるのです。

「私の小さな子供たちよ、あなたがたは新しく生まれました。しかしあなたがたは、あなたがたのもとに来て、あなたがたの内に住まわれる、さらに偉大な方に欠けています。キリストがあなたがたの内に形造られるまで、私は産みの苦しみをします」。これは人格が形成されることではなく、一人の方が来て私たちの内に住み、そうして私たちと一つになり、私たちを統べ治めることです。これにより、私たちは心の王国の中で次のように歌います、「一人の男の子が私たちに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は『素晴らしい方、指導者、大能の神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。彼のまつりごとと平和は増し加わって終わることがない」(イザヤ書九章六、七節)。これは心の中に生まれるキリストです。キリストは信者の内にあって、回心の生活を営むだけでなく、キリスト生活、神聖な生活を営まれます。それは、クリスチャンが一人で戦ったり、もがいたりすることではありません。それは、クリスチャンが心の奥に主を迎えて主に戦っていただくことであり、神の住む宮となることです。それによって、無限なる方は「私は彼らの中に住み、彼らの中を歩む。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(コリント人への第二の手紙六章十六節)と仰せになることができます。「彼らは私の民となり、私は彼らの神となる」ではありません。最初は神です。まず最初に、神が彼らの神となり、次に、彼らが神の民となります。

キリストの教え

キリストの内住の真理は、キリストのすべての深遠な教えの中に見いだされます。彼はこの真理を最初から教えることはされませんでした。なぜなら、弟子たちの準備が整っていなかったからです。彼はヨハネによる福音書の第六章でこの真理に言及されました。主は言われました、「私は天から下って来た生けるパンです。このパンを食べる者はみな、永遠に生きます。私が与えるパンは、世のいのちのために与える私の肉です」(六章五十一節)。しかし、この御言葉を聞いて、弟子たちはつまづきました。彼らは「私たちには彼が理解できない」、「これはひどい言葉だ」と言って去って行き、もはや主と共に歩みませんでした。彼らには、主の言葉は空想的で感傷的に思われたのです。

ヨハネによる福音書の十四章と十五章で、彼はこの真理をふたたび解き明かされました。彼は言われました、「私のいましめを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。私を愛する人は私の父に愛され、私もその人を愛して、私自身を彼に現します。(中略)だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そして、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人と共に住まいを造ります」(十四章二十一、二十三節)。そしてさらに十五章で主は言われました、「私はぶどうの木であり、あなたがたはその枝です。人が私の中に住み、私もその人の中に住んでいるなら、そういう人は多くの実を結びます。私なしでは、あなたがたは何もすることができないからです。もしあなたがたが私の中に住み、私の言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(十五章五、七節)。そしてまた彼は言われました、「御父が私の名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、私があなたがたに語ったすべてのことを思い起こさせて下さいます」(十四章二十六節)。ヨハネによる福音書の十七章で彼は、「おお、ただしい父よ、私は彼らのために祈ります。私たちが一つであるように、彼らを一つにして下さい。あなたは私の中におられ、私は彼らの中にいます」と言われ、「それは、あなたが私を愛して下さった愛が彼らの中にあり、また私も彼らの中にいるためです」と付け加えられました。

「私も彼らの中にいるためです」という祈りが、キリストがご自分の民のためにささげた最後の祈りでした。ヨハネによる福音書の十七章は、キリストがこの世で語られた最高の言葉でした。そして、「私も彼らの中に」という最後の言葉は、すべての言葉の中で最も尊いものです。おお、もし彼の祈りが成就されることを望むなら、私たちはこのメッセージの意義の中に入り込み、それが実際の経験となるまで止まってはなりません。

手紙

私たちは、続くすべての手紙で、何度もこの同じ真理が繰り返されるのを見いだします。使徒はコロサイ人への手紙の中で、「世々にわたって隠されて来たけれども、今現された秘密、あるいは奥義」について語ります。彼はそれを述べるのを恐れているかのようです。良い知らせを告げようとする人のように、彼はためらいます。それほどまでに、その奥義は圧倒的なのです。その奥義は世々にわたって隠されてきましたが、今、信じる人たちに現されます。この真理は、「それを受ける人以外、誰も知らない」名がその上に記されている白い石(黙示録二章十七節)のようです。パウロはついに、この印形付きの指輪を花嫁に与えることを許されました。その奥義とは「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の望み」です。あなたはそれを受け取ったでしょうか?それはあなたに啓示されたでしょうか?それは新エルサレムの栄光を放つサファイヤです。

ガラテヤ人への手紙二章二十節でパウロは次のように証ししました、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられます。そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって、生きているのです」。これが、パウロがその奥義を得た方法です。すなわちパウロは、自分自身のいのちに死んで、そのかわりにキリストを得ることによって、その奥義を得たのです。

主はパトモス島に来て、ヨハネにメッセージをお与えになりました、「見よ、私は扉の外に立って叩いている。だれでも私の声を聞いて扉を開けるなら、私は中に入って彼と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をする」(黙示録三章二十節)。これはラオデキヤの教会に宛てられた手紙の一部です。ラオデキヤの信者たちは、「自分たちは神の教会である」と言っていましたが、彼らの心は閉ざされており、自己が王座に着いていました。彼らは「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っていました。しかし、その心の外では、イエスが懇願しながら立っておられました。主は閉め出され、朝露に濡れていました。キリストご自身が扉を叩いて、「だれでも私の声を聞いて扉を開けるなら、私は中に入って彼と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をします」と言いながら待っておられました。おお、これは何と悲しい光景、何と恥ずべき有様でしょう!これは、七つの教会のうちの最後の教会に対して述べられたものです。この教会は、現代キリスト教の最終的代表者である、今日の教会を表しています。キリストは扉の外におられました。しかし、教会は彼をそこに立たせたまま、平然としていました。主は「あなたがたは、自分が惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることを知らない」と言われましたが、彼らは「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っていました。

キリストご自身の依存

ヨハネによる福音書の第五章を見ると、キリストは独立して自分の生活を送ったのではなく、御父に依り頼んですべてのことを行い、すべての言葉を語られたことがわかります。キリスト生活は、キリストがこの地上で送られた生活そのものです。キリストは全能の力を持っておられたのに、「私は自分からは何もすることができません。私はただ聞くままに裁くのです」(五章三十節)と言われました。この御言葉は奇妙に聞こえないでしょうか?私たちの模範として地上を歩んだイエスは、決して独立しようとはされませんでした。彼は常に御父のいのちを受け取り、御父に依存し、御父によって生活されました。「生ける父が私を遣わされ、私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きます」。

そのように、彼の願いはあなたや私が彼によって生きることです。彼は、ガリラヤの丘陵を歩んだ時の生活を、そのまま繰り返しておられます。彼は御父にまったく依り頼んで、すべてのものを天から受ける空の器の生活をしておられます。ですから彼は今、あなたや私が空の器となって、すべてのものを彼から受けることを求めておられます。「その日」、すなわち「真理の霊が来る時」、彼はあなたを重要人物にするもの、あなたをきよくするものを携えて来られるのでしょうか?決してそうではありません。聖霊が心の中に到来される時に起きることはこれです、「その日には、私が父の中にあることを、あなたがたは知るでしょう」。あなたがたは、私が父とつながっており、父からいのちを受けていることを知るでしょう。そして、あなたがたはこのように私に依り頼むことを学ぶでしょう。「その日には、私が私の父の中におり、あなたがたが私の中におり、私があなたがたの中にいることを、あなたがたは知るでしょう」(ヨハネによる福音書十四章二十節)。あなたがた自身がきよく、また強くなるのではありません。私があなたがたの中にあって、あなたがたのきよさ、また力となるのです。

キリストは輝かしい日の出と家庭の光景という二つのたとえを用いて、この合一を表しておられます。第一に彼は、「私はその人に私自身を現します」(ヨハネによる福音書十四章二十一節)と言われました。「現す」という言葉は、ギリシャ語原文では「輝き出る」という意味であり、イザヤが語った「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」という言葉と同じ思想を伝えます。これが「私はその人に私自身を現します」というイエスの御言葉の意味です。それは、旧約聖書の最後の約束、「しかし、私の名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇り、その翼にはいやす力がある」(マラキ書四章二節)を暗示します。

もう一つは家庭のたとえです。「私たちはその人のところに来て、その人と共に住まいを造ります」(ヨハネによる福音書十四章二十三節)。彼は私たちの霊に住まわれます。かつては悲しみに満ち、罪深かった心の中に、今キリストが住まわれます。信者の心は王の宮殿となり、そこで信者は彼の臨在の陰に宿り、彼との交わりの喜びの中にとどまります。

キリストは私たちから遠くなく、
傍らにおられるのでもありません。
彼は明け渡された霊の内に住んで、
そこに私たちの天を造って下さいます。