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「聖戦」

The Holy War

第十一章 主の良き御霊

Chapter 11 The Good Spirit of the Lord

セス・C・リース
Seth C. Rees



「またあなたは良き御霊を賜って彼らを教え、あなたのマナを彼らの口に与え、また水を与えて渇きをとどめられました。」(ネヘミヤ九・二十)

「またあなたは良き御霊を賜って彼らを教え」。主はキリスト以前の時代の族長たち、預言者たち、指導者たちに御霊を賜ったが、この御言葉はその事実を述べている。とても輝かしい生涯、驚くべき生涯、奇跡的な生涯を送ったと常に人々から見なされてきたこの人々は、恵みによって勝利を勝ち取ったのであり、彼らの勝利は主が「良き御霊」を賜って彼らを教えられた事実のおかげである。彼らの勝利や偉業は元を辿るとこの秘訣に行き着く。彼らを成功させたのは主の御霊だったのである。誉れを帰すべきところに喜んで誉れを帰す人は、今日比較的少ない。傑出した人物、人間的知恵、天才的人物の勝利について喧伝されているのを耳にするが、過去の偉大な時代の偉人たちの生涯に比肩しうるものは一つもないと言ってよい。彼らの人となりや行いは、神が彼らに「良き御霊」を賜った事実のおかげある。

例として、ヨセフの生涯を挙げよう。ヨセフは旧約聖書の登場人物の中で最も欠点が少なく、最も有名な人の一人である。彼の勝利はどれも、主が彼の内側に御霊を置かれた事実のおかげである。ヨセフは兄弟たちから憎まれ、売られて家から追放され、地上で最低の身分に落とされた。彼は天からの神の御霊により神からの知恵を与えられ、ポティファルの台所から過去最強の帝国の王座に躍進した。これは主が「良き御霊」を賜ったからに他ならない。老朽化した独房に座っている彼を見よ。彼はまず憎しみを受け、その後忘れ去られたが、彼の心は神に対して信実で義しく、決して忠実さや誠実さを失わなかった。光を放つ彼の顔を見よ。その光はその老朽化した壁をかつて照らしたことのない光だった。誤解と中傷を受け、神以外の誰も触れることのできない所に倒れている彼を見よ。次に、「神の御霊を宿しているこのような人を見いだすことができようか!」といにしえの王自らが僕たちに言うのを聞け。確かに、神は御霊を賜って彼を教えられたのである。ヨセフの勝利は彼の人となりや行いによるものではなく、神が彼の内に宿って、彼を通して働き、彼を圧倒的な勝利者としたからである。「良き御霊」の神聖で、超自然的な、活気づける力のおかげだったのである。

愛する人よ、すべては聖霊を受けることにかかっているという習得可能な学課をわれわれが学んでいれば。すべては神の「良き御霊」を受けることにかかっている。神の御手がわれわれと共にあるなら、それで十分である。友人、家、すべてを失うかもしれないが、主の御手がわれわれと共にあるなら、薄汚い古びた牢獄の中に座すこともできるし、主はその壁をダイヤモンドのように輝かせて下さる。そして、われわれの勝利の歌が廊下中に鳴り響き、ついには御使いたちがその合唱に加わるようになるのである。

主の御霊がステパノの上にあった時、人々はステパノが語る知恵に抵抗できなかったと、御言葉ははっきり述べている。神が彼に触れるまでステパノはまったく適任ではなかったが、神は彼を遣わしてシナゴーグの人々の高ぶりや知恵に対抗させ、助言者たちの口を封じられた。そのため、人々は彼が語る御霊と知恵に抵抗できなかったのである。

モーセを見よ。彼の小さくて粗末な揺りかごがナイル河畔の茂みの間にあるのが見える。神の御手以外にその揺りかごを揺らす者は誰もいない。その母親が彼を抱き上げてその小さな揺りかごの中に押し込み、その頬にキスをして波間に押し出すのが見える。そこでモーセは人への依存から完全に決別したのである。その世話をする者は神以外に誰もいなかった。その夜、彼を引き上げてキスする母親は誰もいなかった。しかし、主が下って来てその小さな揺りかごを覆い、モーセと悪との間に全能の御手を置かれたのである。その次の場面では、モーセがパロの宮廷にいるのが見える。モーセは王族として注目を集め、その母親の世話を受けている。また、史上最大の働きのための訓練を受けている。主の「良き御霊」が彼と共におられたからである。愛する人よ、どれほど暗い所でも、どれほど不愉快な状況でも、どれほど厳しい状況でも、主の御霊がわれわれの上にまたわれわれと共におられるなら勝利は確実である。

ヨシュアは善良で敬虔な人だった。彼は四十年間モーセの僕だった。奉仕と従順を学んだ人は、たいていの場合、導くために召される。だからヨシュアが第二の祝福を受けた時、聖霊と火のバプテスマが彼の上に臨んだ時、彼は進んで行って、軍事史上最大の偉業の一つを導いたのである。彼の勝利はみな、主の御霊が彼の上にまたその中におられたからに他ならない。彼はモーセの侍従に過ぎなかったが、モーセが手を彼の上に置いて神の御霊が彼の上に臨んだ時、彼は軍隊を率いて進んで行き、勝利に次ぐ勝利を得た。その結果ついに、三十一人の王たちは首を刎ねられてその足下に倒れ、彼は三十一の堅固な都を得たのである。なぜか?主の「良き御霊」が彼の中におられたからに他ならない。彼の人間的知恵や人間的力のためではなかった。人間的力や魅力の勝利ではなかった。大能の神の偉大な勝利だったのである。あなたや私がもしありのままの神を見るなら、他のものはみな無意味になるだろう。それだけでなく、導きと支えと勝利を神以外の何者にも求めなくなるだろう。ああ。御名に栄光あれ!三十一の大きな戦いでヨシュアのために戦われた御方、あらゆる場面で彼に勝利を賜った御方は、われわれのために戦って、われわれの敵をすべて葬って下さる。主の「良き御霊」があなたの上にまたあなたの中におられるなら、あなたは決して敗北を味わうことはない。あなたが出会うものをすべて片付けてしまうだろう。義務を怠ることや、免除してくれと神に求めることは恐るべきことである。神がわれわれに任された責任を他の誰かと分担するのは恐るべきことである。

神はモーセを召して、「私はあなたの口となり、あなたに知恵と言葉と話すべきことを与える。わたしはあなたの前に進み行き、あなたに勝利を与える」と約束された。「モーセの協力要請が受諾されてアロンが迎え入れられた時、それは大いなる祝福だった」と人々はしばしば思い込む。しかし、これはとても疑わしい。なぜなら、モーセが支えてもらおうとしてアロンに頼った時、この支えは最も重要な時に折れてしまったからである。また、モーセが山に上って神と話していた時、アロンは黄金の子牛を造って、人々はそれに頭を垂れたからである。また、アロンの行動こそ、モーセの心を酷い悲しみで貫いたものだったからである。また、モーセは「これは私には重すぎて、負うことができません」と言い、責任を分担するために七十人の評議員会を求めた。神はその言葉を受け入れて、七十人が指名された。しかし、神はモーセの上におられた御霊から取って、それを七十人に与えられた。しかし、それが少しでもモーセの助けになっただろうか?確かに当時、主の御霊は一人ではなく七十一人の上にとどまっておられたが、一人の上にとどまっていた頃と比べると弱い力しかなかったのである。神の御計画はモーセを人々の前に立たせ、稲妻と力を彼に集中させて力を与え、最終的に七十一人分の働きをさせることだった。この評議員会は決して祝福にはならなかった。これこそまさに、われらの主を十字架に付けたサンヘドリンの始まりだったのである。

愛する人よ、責任を避けないようにしようではないか。神がわれわれを前線に遣わすことを願っておられる時に、後退しないようにしようではないか。神がわれわれに負わせられるものはどんなことでも、ためらうことなく取り組もうではないか。冠を失うのはいとも容易である。「あなたの冠を誰にも奪われてはならない」という真心の籠もった忠告をわれわれは受けている。最善を尽くすことを望むなら、ためらわずに前進し、あらゆる機会を捕らえ、十字架を抱き、道中のすべての歩みで神に依り頼まなければならない。愛する人よ、聖霊に心の中に来てもらって、責任をすべて担ってもらえるなら、聖霊は困難な問題をすべて解決し、もつれた糸をすべてほどき、錯綜した難問をすべて真昼のように明らかにして下さる。生活の隅々にまで入り込んで、われわれを助けて全くくぐり抜けさせて下さる。主の「良き御霊」は、王座に座している時も、収穫物を揺らしている時も、あなたと共にいて下さる。台所、浴槽、応接室、講壇で、あなたを確かに助けて下さる。

ナザレの人は、ハンマーを振るい、かんなで削り、ノコギリを引きつつ、その生涯の年月を過ごされた。この御方は、あなたの生活上の働きがどれほど卑しいものだったとしても、そんなことには関係なく、決してあなたのことを忘れない。われわれの召しがどれほど慎ましいものだったとしても、そんなことには関係なく、われわれはペンテコステを必要としているし、ペンテコステを経験できる。聖霊が来臨してとどまって下さらない限り、真の恒常的勝利はありえない。主の「良き御霊」は、たとえ極めて長期に渡る試練でも、くぐり抜けさせて確実に勝利に導いて下さる。決してあなたから離れ去ったり、あなたを見捨てたりしない。人々があなたに背を向け、試練が積み重なり、病と悩みのただ中で悲しみに打ちひしがれそうになる時でも、人間的観点では全くお先真っ暗に見える時でも、主は真に聖められた御自分の子供たちと共におられ、「あなたが水の中を通る時、私はあなたと共におり、川々があなたを押し流すことはない」と囁いて下さる。「火の中を通っても焼かれることなく、炎があなたに燃え移ることはない」。この御言葉が少なくとも示唆しているように、たとえ火や水の中を通ったとしても、神に感謝すべきことに、われわれは溺れることも焼かれることもないのである。嵐に持ちこたえるものが、われわれの内にあるようになる。われわれの魂の地下の奥深くに鉄骨と桁で出来た枠組みが建造され、全能者の御手によって支えられるようになる。この御方はわれわれを頑丈にしっかりと建て上げて下さるので、地獄のいかなる嵐もこの建造物を破壊できない。神に栄光あれ!

海路用の船は、荒波にもまれて揺れ動き、波頭で動揺して、凄まじい海の深みの中を通るかもしれない。船は抵抗して次々に波を振り払い、嵐から被害を受けることなく、穏やかに進み行く。これは私の心にとって、神の「良き御霊」に徹底的に浸透された生活の最も壮大な絵図の一つである。酷く荒れ狂う海の大波があなたの船の甲板に打ち寄せて、何も見えないように思われることが時々あるかもしれない。この世はあなたのことを忘れるかもしれない。朝の一時、あなたは静かに抜け出して病床を見つめ、一体どうなるのかと大いにハラハラしているかもしれない。人の声や人の同情はまるで死んだかのように沈黙し、あなたは夜の星々を見上げて倦み疲れている。サタンは「友達すら同情してくれない」とあなたを誘惑するだろう。しかし、神に感謝すべきことに、主の「良き御霊」はそこにいて、王御自身以外誰も知らないこの勝利を喜んでおられるのである。ネヘミヤ九章二十節が述べているこの「御霊」は大能の神の大能の御霊なのである。

ああ、愛する人よ、御霊を知っていれば。私が願うのは、あなたが御霊を受けるだけでなく、御霊を受けた人々が御霊と親しくなることである。あなたが御霊の好意を求め、御霊の好き嫌いを学ぶことを、私は願う。御霊はとても敏感で、その好みは極めて洗練されている。ああ、御霊を喜ばす方法、この交わりの神聖さを知っていれば。神に感謝すべきことに、われわれはこれを知ることができる。そして、御霊を知るようになり、他のものをすべて片付けて、ただ御霊だけに頼りつつ、その御力によって踏み出す時、御霊は常に輝かしい勝利を与えて下さる。

「良き御霊」は優しい方である。御霊は火によって象徴されているだけでなく、鳩によっても象徴されている。聖霊を象徴する印象的な象徴がたくさんある。御霊は激しい大風として臨むこともあるし、優しく鳴く鳩として臨むこともある。燃える炎として臨むこともあるし、静かな小さな声として臨むこともある。御霊の一つの面を知ることは別の面を知ることと同じように素晴らしいことである。心を開いて御霊を受けた後、御霊を愛して経験するなら、いかなる象徴の下で御霊が自分に臨んでも関係ない。あなたには分かる。方々に見られる混乱、疑問の声、思い悩みはみな、確固たる確信に欠けているせいである。確固たる確信を得て、御霊を神として知るようになる時、御霊は嵐のように臨むことができるようになり、われわれは自分の足で立てるようになる。御霊は朝の空気のように臨むことができるようになり、われわれは御霊を歓迎するようになる。御霊が来臨される時、われわれは御霊を大事にするようになる。御霊を抱きしめて、御霊をさらによく知ろうとするようになる。

愛する人よ、聖霊を知ることは説教で包丁を振ることだけではない。それも時々は必要かもしれないが、御霊を知ることは、目が赤くなったエレミヤのように泣きはらして、その涙のために高ぶって悔い改めない者から拒絶されることである。聖霊が内側に来て下さる時、優しさや穏やかさが湧き上がる。聖霊はわれわれを造り変えて下さるだけでなく、神の栄光が草の葉すべての上にあるかのようであり、木々は喜んで手を打ち鳴らしているかのようである。コオロギや鳴くすべての虫がこの救いを歌い喜んでいるように思われる時もある。私は主の御霊の現れが好きである。それは私の魂を爽やかにしてくれる。しかし、目から涙を流して笑っている、明るい表情をした人が、聖霊による喜びのゆえに泣き叫んで立っているのを見ることほど、心を爽やかにしてくれるものがあるだろうか?

最近私は、涙を流して笑っている小柄の女性によって圧倒されんばかりの野外集会を目撃した。その女性は友人たち、家族、故郷に別れを告げて、インドの砂だらけの土地に向かおうとしていた。しかし、彼女の目は涙であふれ、その魂は笑いで満ちていた。そのため、人々に話すことができなかったのである。これほど雄弁なメッセージを私は聞いたことがない。本当に励みになったのである。

御霊の顕現は数が多く、多彩である。色々な方法で現れる。神に規則を課すようなことを、われわれは敢えてしようとは思わない。神は規則や人の取り決めに従うことはない。しかし、いかなる顕現についても、「顕現こそ最も深遠な霊性である」と思わないようにしようではないか。神に御自分の道を全面的に歩んでいただけるようにすることこそ、最も深い霊性であることを理解しようではないか。神がわれわれの魂を静かにさせる時、喜んで静かにして誤解を受けるように、神が叫びと顕現をわれわれの上に臨ませる時も誤解を受けようではないか。あなたが叫ぶとき、誰かがあなたを批判するだろう。あなたが叫ばないとき、他の誰かはあなたは勝利していないと思うだろう。われわれの望みは主の「良き御霊」に満たされることである。

ああ、愛する人よ、これまで世に現れるのを見てきた以上のものを私は探している。近頃、それらしきものを私は見ている。時として、神は下って来て、人々を捕らえ、地獄の上で震えさせる。この力強い強烈な認罪をさらに見たいのである。今この時、宗教界にめったに現れない狂信にわれわれは直面している。すなわち、行き過ぎた行為や、肉体的行為のない人を非難・排斥しようとする精神のことである。聖霊の真の行為は麗しくて爽やかであり、行為をあまり強調しすぎないことが大切である。悪魔は人の感覚に乗じることができる。しかし、われわれが望んでいるのは、叫びや体操よりも数千倍深いものである。しかし、聖霊はあなたを不動の者にすることができるので、たとえ人々があなたを攻撃しても、あなたはただ「ハレルヤ!」としか言わなくなる。われわれは死んでいるのだから、自分を守ることは不可能である。われわれは本物の死体でなければならない。死んだままでいなければならない。一日中本物の死体について話す人がいたとしても、死体は何の返事も、答えも、仕返しもしない。

さて、愛する人よ、私があなたたちに示したい点は、旧経綸では比較的少数の人にしか与えられなかったものを、神は今日、すべての肉なる者の上に注ぐことを願っておられるということである。旧経綸の下では、群衆は宮や幕屋の外側に立った。祭司が一人で聖所に入る時、大衆は鈴の音を聞き、祭司の衣の裾のザクロを垣間見たが、神と接触を持つことはなかった。

神は御霊をモーセ、エリシャ、エレミヤ、イザヤ、ヘゼキヤ等の上に置かれた。それ以来ずっと、どの時代にも、「良き御霊」を受けた人々がいた。しかし、御霊をすべての肉なる者の上に注ぐ時が来ることを、神は約束された。モーセがホレブで見いだしたもの、エリヤがカルメルで見いだしたものを、今日あなたは受けることができる。ただしそれには条件を満たすことが必要である。主の「良き御霊」の来臨は心の中の罪をすべて滅ぼし、あなたを完全な愛で満たす。われわれが「受けたのは恐れの霊ではなく、愛と力と健全な思いの霊である」。全く聖められる時、われわれは生まれて初めて完全に正気になって世の前に立つようになる。全く聖められていない人はみな、多かれ少なかれ狂気を帯びている。聖められて聖霊に満たされた人は、この世の前で光彩を放つ。然り、三つの世界の前で光彩を放つ。神の代表者として、神の所有物の見本としてとしてである。検査を受ける用意も整っている。もし離れて立って、地獄の狙撃手たちから最悪の総攻撃を受ける覚悟がないなら、私が話しているものを受けていないのである。誰かがやって来て、「あなたはそれを受けている」と言ったとしても、状況は少しも変わらない。あなたに弁護の時間はない。本物に弁護は全く必要ない。しかし、多くの人にとってこれはちんぷんかんぷんに違いない、と私は感じている。私は今、こうしたことに比較的馴染みのない人々に向かって話している。しかし、これが臨もうとしている。われらの主が再び地上に戻って来られる前に、真のリバイバルがあるだろうと私は信じている。狂信や騒音のことを言っているのではない。使徒教会と同じように御霊の賜物と恵みが再び現れて、真の聖徒たちによって認められ、行使されて数千の人々に祝福を及ぼすだろうということを言っているのである。多くの人が聖霊を受けたが、その賜物を受けることを拒んでいる。聖潔の民を自称する多くの人々の中には、癒しの賜物を特に嫌っている人がいるようである。癒しの賜物はパウロの一覧表の中の賜物の一つである。

愛する人よ、全聖書を受け入れて神と共に進み通す人々のために、私は宣べ伝え、祈り、泣いている。そのような人々を私は探している。愛する人よ、恐れないようにしようではないか。たとえ狂信に陥る人がいても、われわれは霊的事柄の冷たい薄暗がりに退いてはならない。ここで間違いを犯さないようにしようではないか。われわれが自分の子供に良い贈り物を与えることを喜ぶ以上に、神は求める者たちに喜んで聖霊を与えて下さる。彼は来ることを望んでおられる。彼は来て、遅れることはない。彼はその宮に突然来られる。今来られるかもしれない。いつ来られても不思議ではない。見よ!神に栄光あれ!彼が来つつあることを私は信じる!すべて準備が整った時、彼は来られる。皿を洗っている時に彼を受けた人もいるし、道を歩いている時に受けた人もいる。ある人はベッドに横になっている時に受けて、まるでベッドが火事になったかのように飛び出した。ああ、彼に来てもらいなさい!もし彼が来られないなら、それには理由がある。彼はわれわれのために用意して下さっているマナや、カナンの果物や、最上の物を決して差し控えるようなことはなさらない。彼は、全く何も見えない荒廃した荒野で三百万の人々を養われた。そして、目に見える物に頼る必要は全くないことを、永遠に確証して下さった。われわれが彼を知っているなら、彼はわれわれを世話して下さる。彼は百合を成長させる。百合は美しい。主はわれわれを精錬された黄金のようにすることを約束された。「王の娘の内面は全く栄光に満ちている」。

あなたは彼を受けただろうか?彼は来ることを望んでおられる。これをあなたは信じるだろうか?彼が来て下さったとして、あなたは彼に相談するだろうか?その好意を求めるだろうか?あらゆる方法で彼を喜ばすことを学ぶだろうか?多くの人は彼に疑問を抱いたので、彼は彼らから離れてしまった。主が私に行って事を為すよう仰せられるなら、私は断じて主を疑ったりしない。自分の魂にかけて、決して主に質問するようなことはしない。主が私から離れてしまうことを、私は恐れるべきである。これまで私は極めて厳しい悲しみや試練を通るよう召されてきたが、それらの悲しみや試練の中で、私は主に何一つ質問しなかった。ああ、神に栄光あれ!彼が望んでおられるのは、全く疑義を受けずにわれわれを統制することである。彼にそうしてもらうだろうか?愛する人よ、イエスのために、またあなた自身の魂のために、今このとき彼を受け入れよ。主を賛美せよ!