「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、不思議、助言者、大能の神、永遠の父、平和の君ととなえられる。そのまつりごとと平和は、増し加わって限りなく、ダビデの王座に座して、その王国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを確立される。」(イザヤ九・六〜七)
この昔の預言者は霊感の山頂に立って、七百三十八年間にわたる暗闇の谷を見下ろし、メシヤの来臨を見た。彼はメシヤ誕生の状況、その生涯の試練と試み、その死という恐ろしく暗い悲劇を見た。そして、霊感を受けた預言者の言葉をもって、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた」と不意に叫ぶ。今朝、この御言葉の意味をすべて考える時、この御言葉はわれわれの心を打ち砕く。
イエスの誕生の状況はとても独特であった。地上の王の誕生には、王家の立派な華やかさが常に伴う。君主たちは控えの間で待ち、使者たちは玄関に群がって、誕生の知らせを町から町へ伝えようと待ち構えている。このような出来事のために、極めて豪華で盛大な準備が常になされる。しかしここで預言者は、ひとりの君主が田舎村の家畜小屋で生まれるのを見る。その両親は八十マイル歩いて来て、馬小屋に宿をとった。全くのよそ者として、周りを敵に囲まれつつ、王の王、主の主であるイエスは誕生された。何と奇妙な光景だろう!宇宙の創造者、生けるすべての者の神が、牛の間で誕生されたのである。華々しさはなく、誰も歓迎しなかったし、気づきもしなかった。この御方を愛する人はほとんどいなかった。僅か数人の羊飼いと賢者、それに慎ましい人々が飼い葉桶の周りに集まった。他の人のもののように思われる権利を侵害しているように見える点を除けば、数ブロック離れた所でこの出来事に気づく人は誰もいなかったであろう。神に感謝すべきことに、主はこのような状況の下で誕生されたのである。真のキリスト教は家畜小屋や飼い葉桶を超えて行くことは決してないことを、われわれは思い出した方がいいだろう。文明と教養の今の時代でさえ、そうである。
この世から認められることを期待して要求することや、人々の好意を期待することは、何とも奇妙なことに思われる。われわれの主はこのような状況の下で誕生し、同時代の人々の好意ではなく不評を被りつつ生活し、御自分を受け入れ、敬ってしかるべき人々によって死刑に処せられた。ささやかな迫害が自分に降りかかると苦痛に感じる人々がいるが、私には全く理解できない。聖潔の説教者たちが教会で極めて不利な立場に置かれており、クビにされて森にやられることもある事実を重大視する聖潔派の新聞もあるが、その意図を知って私は途方にくれる。これ以上のどんな待遇が期待できるというのか?僕はその主人よりも優っているのだろうか?われわれの主は御自分の者たちの所に来られたのに拒絶された。そうである以上、安楽な地位、快適さ、贅沢、この世の好意をどうして期待できよう?主が世の光として来臨された時、人々は立ち上がってこの光を消してしまったというのに。主が人々を祝福するために来臨された時、主は呪われた者のような扱いを受けて、二人の強盗の間で磔にされたというのに。どうか神がわれわれを助けて下さり、われわれが自分のいるべき立場から遠く離れないようにして下さり、自分が属している民を覚えていられるようにして下さいますように。われわれはこの世の者ではないし、この世はわれわれを愛せない。われわれがこの蔑まれているナザレ人と緊密に一体化されている限り、この世や世的教会の愛や好意を期待するのは馬鹿げたことである。私は人々の称賛を恐れる。この世の好意のように思われるものは何でも、私はそれを拒絶して反対する。われわれの主はそのようなものをお受けにならなかった。われわれも自分の歩みを整えて、それから逃れるようにしなければならない。この世の中を通る時、この世が親しげにわれわれの肩を叩くのを許してはならない。この御言葉が示すキリストに敵対心を抱いていることがわかっている人々から、親しげに肩を叩かれたり、親しげな言葉をかけられたりすることに、私はほとんど耐えられない。
だから、われわれの祝福に満ちた救い主は、この素晴らしい預言の中で、五つの輝かしい名を与えられている。ああ、何と豊かで、何と満ち満ちていることか!天がわれわれの主についてわれわれに与えているこの描写の中には、どれほど多くの内容がつまっていることか!主がいかなる御方か、また、主がわれわれになしうるすべてのことを、われわれが理解する助けを、この御言葉はしてくれている。主は、「不思議、助言者」である。この「助言者」という言葉は、助言を与えるのに相応しい者、王や王子の傍に立って助言を与える者を意味するだけでなく、賢い助言を与えるという思想をも含んでいる。大量の知識を持っていて、その知識量を示せる人でも、良い助言者ではないかもしれない。しかし、われわれのキリストは御民の助言者であるだけでなく、神として御民を導き、向きを変えさせて、避けるべきすべてのものを避けられるようにする力を持っておられる。また、持つべきすべてのものに御民が触れるようにする力を持っておられる。主は素晴らしい助言者である。愛する人よ、今朝、私は主を愛している。主は人のいかなる指示とも反対の助言を与えて下さり、われわれなら決して選びそうもない道、われわれの友人ならわれわれのために決して選びそうもない道にわれわれを導いてくれることがしばしばあるからである。主はしばしば、賢明な道として知られている道や、ある人々が聖い常識と称する道とは反対の道にわれわれを導かれる。主は多くの時、われわれの友人たちの判断とは別の道にわれわれを導かれる。主は常にそうしてこられた。主は自ら選んで愚かな事柄を選び、この世には愚かに思われる助言を与えて下さる。
イスラエル人は一週間毎日カナン人の町の周りを行進し、七日目に七周行進して、最後に雄羊の角笛を吹いて叫んだ。これはカナン人にとって大いに愚かなことに見えたにちがいない。これを笑ったにちがいない。しかし、これは御旨を成就するための神の方法だったのである。神は地的考えに従う必要はない。少年――たんなる向こう見ずな少年――が羊飼いの石投げだけを持って巨人に立ち向かうために遣わされるとき、人々は常にそれを奇妙に思うものである。しかし、それは神の計画であり、天の知恵だったのである。
主は十二人の漁師を選んで、世界を福音化する使命を委ねた。この世や諸々の学派はこれまでこの事実を一度たりとも受け入れてこなかったし、その理由を説明できる人は誰もいないように思われる。当時、ローマが世界を支配しており、エルサレムはその栄華の頂点にあった。また、サンヘドリンも存在していた。人が望みうるものはみなそこに揃っていた。しかし、神の計画は浜辺に下って行き、衣服の至る所に魚のうろこがくっついている少年たちを召して、地的助言者たちの口を閉ざし、諸々の学派に知恵を与えることだったのである。
愛する人よ、勘違いしてはいけない。諸々の学派や教会組織の助言にしたがったからといって、われわれのキリストの助言にしたがって導かれているわけではない。あなたがイエスと共に進むなら、多くの時、あなたは誤解や歪曲の対象となり、泣きながら進むことになるだろう。しかし、あなたは涙を乗り越えて、微笑みながら進むだろう。あなたは重荷を負うことになるだろうが、喜び踊るようになるだろう。真剣にしっかりと進むことになるだろうが、確実に前進するだろう。主の助言に従うなら、あなたは前進するだろう。友人たちの助言を無視したり軽んじたりすることなく、注意深くそれらを尊重しつつ、同様に主に従うことになるだろう。
さて、この計画が素晴らしいのは、僕を選ぶ主の選択による。なんと、主が選ばれる民を欲する人は誰もいないのである。他の人々から絶縁されない限り、選ばれる人はほとんどいない。神の御子の計画は、役に立たない人々や物事を選ぶことである。それは「いかなる肉も御前で誇ることがないため」であり、何が成就されても誉れと栄光が主に帰されるためである。しかし今朝、この一覧を読んで、誉れの巻物を一瞥するなら、きっとあなたたちの多くは失望して、「自分はその中にいない」と感じるだろう。自分が除外されていることを大きな屈辱に感じる人もいるだろう。しかし、神の選びと天の計画は、弱いもの、蔑まれているもの、無きに等しいものを選ぶことである。主を賛美せよ!主は間違いを犯さない。
主が「素晴らしい助言者」であるのは、主があなたに進むべき道を教えてくれるからだけでなく、「私があなたと共に行き、あなたが無事に乗り越えるよう見守ろう」と言って下さるからでもある。カイロに行って、砂漠を渡るための地図を地元の人に求めるなら、その人はあなたを笑って、「渡り方は教えられませんが、私が行ってあなたに示しましょう」と言うだろう。その人は砂漠に行ったことがあり、道を知っているのである。神はわれわれに地図を与えて道を示して下さっただけでなく、道すがら見守って、代理として聖霊を送って下さった。確かに標識はあるし、「エンジンに注意」という警告もある。道中ずっと標識があるが、われわれがそれを見落とすことがないように、主はわれわれに聖霊を送って下さる。そのおかげで、われわれは道を見失うことがない。手には地図――聖書――があり、心には聖霊がおられるので、普通の愚か者でも安全に乗り越えることができる。この計画は天の議場で生まれたが、われわれに与えられており、この計画に従った人々はいつでも、難破することなく安全に到着したのである。
また、主が「素晴らしい助言者」であるのは、われわれの生活の中には、複雑すぎたり、難しすぎたり、無価値すぎるため、主が顧みて下さらないようなものは何一つないからである。主にほどけないもつれた紐など決してない。主はあなたのすべての言動に関心を寄せておられる。他の人々はあなたの話に耳を傾けてくれるだろうが時間がない。あなたは道で私に会って、私と話をしたいと思うかもしれないが、私は目の前にやるべきことがたくさんあって、あなたの話を聞いてあげられないことがよくある。皆忙しくて、立ち止まって話を聞いてくれないように思われる。しかし、イエスはどんな小さなことでも、必ず時間を取って歩み寄って下さり、あなたの話を聞いて下さる。三十分も話すと、問題はすっかり解決する。たとえあなたが三時間話したとしても、彼はそれをさらに好ましいことと思って下さる。環境に強いられてあなたが私のもとに来たとしても、私は中座せざるをえないこともある。しかし、主は決してそんなことをせず、最後まであなたの話を聞いて下さる。私の姉妹よ、あなたの頬をつたう涙、心痛、呻きを、神の御子はすべてご存じであり、同情して下さる。その大いなる愛の優しい心は、小さなこと、困難なこと、最愛の友にすら説明できないこと、あなたが胸の内に秘めていること――そうするのももっともな場合もよくある――でも、助言を与えようと待ち構えておられ、あなたを慰めて下さる。他の人々が眠っていても、彼は一晩中起きていて、あなたの益を見守っていて下さる。彼は、あなたに臨む極めて厳しい試みの中であなたがどのように振る舞い、どのように感じるのかを、見守っておられる。そして、もつれきった状況さえもほどいて、それをきっちり片付けて下さる。複雑すぎて今は理解できないことがあったとしても、主はあなたに、まるで理解できたかのような満足感を覚えさせて下さる。不可解なことに困惑する代わりに、あなたは「雲が晴れて主が戻って来られるまで、この問題はそのままにしておきます」と言うようになる。
次の名は「大能の神」である。これは何を示しているのか?これが示しているのは、彼は助言を与えることができるだけでなく、それを執行して達成できるということである。彼は助言を与えることができ、執行することができる。あなたに答えと方法を告げることができ、あなたのためにそれを行うことができる。ある人々はわれわれに助言を与えることはできても、われわれから去って行ってしまう。この世界を形造られた大能の神、万物を創造された神は、今この時も存在しておられる。われわれにはこの神がある。どうして恐れる必要があろう?どうして震える必要があろう?
「何を心配に思う必要があろう?何を恐れる必要があろう?
永遠の御腕によりかかっている私に。」
雲が群がり、雷が轟くと、私は恐怖にかられそうになる。全身がガタガタしているかのように感じることもある。その時、このような節を思い出すと、私は隠れて安息し、赤ん坊のように眠ることができる。私の姉妹よ、恐れることは何もない。恐れてはならない。兄弟よ、震えてはならない。われわれには大能の神がついており、この御方はわれわれとあらゆる困難との間に立って下さる。
「永遠の父」。これは何を意味するのか?これが意味するのは、彼はわれわれがこれまで述べてきたことをすべて行うことができるだけでなく、永遠にそうし続けることができるということである。一度きりしかしてくれないのではなく、何度もしてくれるのである。預言者たちや殉教者たちのためになさったことを、彼はわれわれのためにもすることができるし、実際われわれの幾人かのためにして下さっている。われわれのために昨日して下さったことを、彼はわれわれのために明日もすることができる。彼は「永遠の父」である。滅びることがないもののゆえに、決して崩れ去ることがない救いのゆえに、神に感謝せよ!われわれの周囲のすべてのものは移ろいゆく。どこにいても、すべては苔むしてくすんでしまう。みなしわができて白髪になってしまう。すべてが古びてしまう。僅か数年で昔の家屋も、戻ってみるととても同じ場所とは思えなくなる。子供の頃行っていた昔の田舎の教会に行くと、以前見かけた人は数人しかいない。すべては変わって行く。神に感謝すべきことに、われわれは決して変わらない救いを受けている。「永遠の父!」。この地上の物事はこれと比べると何とちっぽけなことか。世界の一大中枢、驕り高ぶる権力の中枢、この地上の王国、王座、帝国――これらは何と忘れ去られてしまったことか!しかし、「永遠の父」を持つ人々はすべての反対者を散らし、すべての敵を征服し、神のために燃え輝いてきたのであり、そして永遠に進み続けるのである。今朝、パロは大英博物館のガラスケースに納められている古びたミイラにすぎないではないか。モーセは全世紀にわたって最も素晴らしい人物として際立っている。カエサルは古都ローマを構成する塵の粒子になったが、パウロは今この時何百万もの人々に説き勧めている。ネブカデネザルの壮大な宮殿はどうなったか?話に聞いたところでは、その輝かしい偉大な宮殿の正確な場所を特定することはできないとのことである。ダニエルの預言が生き続けており、まさに今、その栄光に満ちた成就の時が近づきつつある。この会衆の中に、不忠実な十人の斥候の名を言える人は誰かいるだろうか?一人もいない。しかし、女子学生ならだれでもカレブとヨシュアのことを知っている。この世の諸々の王国は没落して行ったが、真に神聖だったごく小さな者たちは生き残っており、永遠に生き続けるだろう。地上の偉人たちの多くは忘れ去られかけているが、過去に神と共に歩んできた人々は、どれほど身分が低くても、今日栄光の頂点を歩んでおり、主がこの世界に戻って来られる時、主と共に雲に包まれてやって来るだろう。決して古びないもの――「永遠の父」――のゆえに、神に感謝せよ。
この野外集会のような素晴らしい時が終わってしまうのを、かつて私は寂しく残念に感じたものだった。集会が終わってしまうのを、私はどれほど恐れたことか。しかし、今朝私の魂のうちに燃えているこの思想に到達して、この御言葉のキリストを知るようになった時、すべては一変した。このシンシナティ野外集会は決して解散しない。今は大成功と勝利の時である。この野外集会をこのようなものにして下さったまさにその御方が、われわれ一人一人と共に帰宅して、われわれの家、台所、居間、農場、仕事場を野外集会場にすることを約束して下さった。主が戻って来られるまでわれわれと共に旅することを約束して下さった。聖潔は決して古びない。人々が私のところに来て、「これは素晴らしい集会です。このようなものは見たことがありません」と言う。たしかに、この集会は素晴らしい管理下にある。彼の名は「素晴らしい」である。王国の新しい光景を新たに垣間見るたびに、私は「素晴らしい」と言う。しかし、そう言わずにおれようか?これが彼の名である。あなたはご存じだろうか?われわれの生活は感嘆、驚嘆、驚きで満たされるだけでなく、永遠に素晴らしいものであり続けるのである。半時間で天を理解するようになると、少しでも思っていないだろうか?天には進歩がないと思っていないだろうか?「そのまつりごとと平和は、増し加わって限りなく」と、御言葉ははっきりとわれわれに告げている。われわれの分は永遠に刈り取ることだけでなく、収穫が増し加わって限りなくなることである。われわれの収穫は増し加わることをご存じだろうか?翌日には倍になり、すぐに何倍にもなるのである。この増し加わりには限りがない。この野外集会が絶えることは決してない。
また、彼は「平和の君」である。われわれのキリストは、征服や流血を喜んだ王たちや王子たちとは異なる。彼らが際立っているのは、そのようなことを好んでいたからである。われわれのキリストは正反対である。キリストは平和を愛しておられ、行く先々で平和を宣言される。キリストがあなたの心の中に訪れる時、彼はあなたに平和を与えるだけでなく、「平和の君」となって王座に座し、この平和が守られるように、あなたの魂の中の平和が乱されることがないように見守って下さる。地上と地獄の軍勢が結集したとしても、あなたの胸中に到来したこの平和を乱せないように見守って下さる。彼が荒海に命じたように、たった一言、たった一目で十分である。「平和の君」はわれわれの恐れをすべて静めて下さる。邪魔物はすべて麻痺する。地獄の使者たちがわれわれを攻撃しにやって来ても、彼らは唖然として麻痺し、無為無力になる。われわれが「平和の君」の統治下にあることがわかる。この安息日のような安息、この聖なる静けさ、説明し得ないこの穏やかな静謐さのゆえに、神に栄光あれ。主に感謝すべきことに、何ものもこれをわれわれから奪い取れないのである。
われわれの主が再来される時、地上の諸国民は彼らの剣を鋤に、彼らの槍を剪定用の鎌に打ち替えて、もはや戦争について学ばなくなる。それは幸いな聖なる平和と静けさの時であり、われわれが聖書から読んで生涯夢見てきた時である。主に介入してもらおう。主はあなたの心配をすべて担い、あなたの疑問にすべて答え、あらゆる願いを満たし、あなたの疲れた魂を休ませて下さる。そして、あなたは歌い、微笑み、笑うが、その理由はほとんどわからない。しかし、神の平安があなたの全存在に満ちあふれる。そして、波が押し寄せるたびに、その波は水路をますます深く掘って、さらに豊かな波に備える。そして、あなたは永遠にこの聖なる平安の中を進み続けるのである。
これに関連して注目したいのは、「まつりごとはその肩にあり」ということである。二十二章二十二節を見ると、ダビデの家の鍵がその肩にあると宣言されているのがわかる。この御言葉が述べているように、「そのまつりごとは限りない」。鍵はかけたり外したりするものである。鍵を所有することは、その資産を所有することである。鍵を手放して資産を手放すことがたまにある。鍵を持つことは所有する権利、出入りする権利、開け閉めする権利を意味する。この引用句は「彼が開くなら閉じる者はなく、彼が閉じるなら開く者はない」と述べている。さて、聞くところによると、昔の錠は大きな木製の錠で、鍵は巨大で同様に木製だったそうである。人々はそれらを肩にかついで運ぶこともあった。そして、人が大きな木製の鍵を運んでいるのを見ることは、その人が宝庫を解錠する権利を持っていること、財宝が保管されている倉庫に立ち入れることを意味した。だから御言葉は、ダビデの家の鍵がイエスの肩にあると述べているのである。これが意味するのは、イエスは天のすべての財宝を解錠できるということ、全資産が蓄えられている所に立ち入れるということ、鍵の開け方を完全に理解しているということである。彼がヨセフの新しい墓からダビデの家の鍵を肩にかついで歩いて出て来られた時、彼は事実上、「来なさい、愛する者よ、あなたを中に入れてあげよう。来なさい、すべて買い取り済みです。どんなに鍵がかかっていても、またどれほど守られていても、私は解錠することができます。私はあなたを金がある所に、ダイヤモンドが輝いている所に、高価な真珠がある所に連れて行こう。来なさい、飢えているなら、私と共に来なさい。そうすれば、私はあなたを食器棚のところに連れて行こう」と仰せられたのである。あなたの魂が願うもので、彼があなたに与えられないものは、何一つ思いつかない。
来たれ、愛する人よ、彼と共に進もうではないか。鍵は彼の肩にある。天使たちは禁じているように思われるかもしれないし、人々は「主を煩わせてはならない」と言うかもしれないが、彼は「来なさい。私が開くなら閉じる者は誰もなく、私が閉じるなら開く者は誰もない」と言っておられる。神に感謝すべきことに今朝、彼は天の宝物を私の魂に対して開いて下さった!私の心は従うのが何と遅かったことか。神の恵みにより、私は自分の歩調を早めて、以前にもましてこの野外集会を素晴らしい時にしよう。苦しみに召されれば召されるほど、ますます私は供給を見出すようになる。来たれ、哀れな魂よ。来たれ、罪に病む罪人、落胆している人よ。彼は人生を生きる価値のあるものにして下さる。彼は地上の望み無き人々を招いておられる。すべての人が彼のもとに来て、彼に従うようにせよ。彼は今まさに鍵を回そうとしておられる。近々錠が外れて扉が広く開け放たれ、われわれは王の御前に招き入れられるだろう。
彼に緊密に従って最善のものを得ようと決意している聖徒は、常に少ない。エリシャのように、彼にまみえてその外套を得ようと決意している人は、常に少ない。ダビデの家の鍵は彼の肩にあり、その広い肩の上に王国のまつりごとがある。「神は自分たちのことを手に負えない」と思っているように見える人々がいるのはどうしたことか。彼に機会を与えさえするなら、そんなことはないのである。われわれを創造された方は、われわれを解放して、人生をきめ細やかに導き通すことができる。
罪人よ、イエスを受け入れよ。信者よ、あなたのペンテコステを探し求めよ。聖徒よ、落胆してはならない。われわれを遣わして真鍮の壁に立ち向かわせる御方は、遅れずに来てその壁を打ち崩して下さる。すべての人が彼を受け入れて、彼と共に歩むようにせよ。あなたの心の扉を広く開いて、祝福に満ちた救い主を招き入れよ。
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