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「聖戦」

The Holy War

第四章 絡みつく罪

Chapter 4 The Besetting Sin

セス・C・リース
Seth C. Rees



「こういうわけで、私たちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのだから、いっさいの重荷と、いとも容易にわれわれに絡みつく罪とをかなぐり捨てて、われわれの前に置かれている競争を、忍耐をもって走りぬこうではないか。われわれの信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたたちは、罪人らのこのような反抗を堪え忍んだ方のことを思いみるべきである。それは、あなたたちが弱り果てて意気消沈しないためである。」(ヘブル十二・一〜四)

ヘブル書十二章のこの最初の節は、イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走るべき競争について描写している。今日、世は競争に満ちている。昨年、海路と陸路の両方で多くの競争があった。中には頼もしい競争もあるが、たいていの場合、それらの競争は極めて不評で、その影響力は意気消沈させるものである。人々はありったけの熱意をもってそれらの競争に参加している。世界の歴史は、われわれの神学校や大学が卑劣漢を頭として訓練することに多くの時間を費やす時代に入った。これらの世的競争は、全く潔められた人を除くほとんどすべての階級の人々を魅了している。

今日の悪の多くは、善からの逸脱にすぎない。最善最高のものに秀でたいという願いは、全く合法的である。神は賢明な諸々の目的のために、最高に卓越した者になりたいという願いを、人の心の中に植え付けられた。この御言葉の著者である使徒は、数回、軍隊調に述べている。そしてそう述べる時、可能な限り極めて強烈な絵図を用いている。真のクリスチャン兵士が携わっている罪とサタンに対する戦いの、極めて力強い絵図を用いているのである。

しかしここでは、使徒は体操競技風に述べており、クリスチャンの競争の絵図として、当時の慣習だったオリンピックの試合や競争に言及している。そして、できるだけ力を尽くして、この絵図を前章に記した緒原則に適用している。ヘブル書十一章は、信仰のピラミッドとよく呼ばれる。この章は、神の御民の歴史の中でかつて起きた最も素晴らしい事柄を集めたものである。使徒はこの十一章で、極めて力強い人物たちを次々に示す――神の恵みにより最高峰の経験に至った人々を次々に示す。使徒は万物の始まりから始め、これらの力強い結果が生じたのは信仰によることを告げる。霊的生活において、一般庶民よりも秀でていたこの人々は、信仰を通して、このような頂点に至り、偉業を成し遂げ、苦難を耐え忍んだのである。アブラハム、モーセ、三百年神と共に歩んだエノクが、この一覧に載っている。使徒は聖なる預言者たちについて、その目覚ましい偉業と共に次々と言及し、最後にイエスの時代にまで至る。その後、使徒は転じて、「このように次々と述べてきたことは、すべて信仰によって成された」と述べる。その後、使徒は、英雄たちのこの長い一覧を、われわれの競争を見つめている証人たちの雲と見なす。「このような多くの証人の雲に囲まれているのだから、いっさいの重荷をかなぐり捨てて、われわれの前に置かれている競争を、忍耐をもって走りぬこうではないか」。

このクリスチャンの競争は厳しい現実に満ちている。ある人々の宗教は、感情、熱意、怒りらしき性格をかなり帯びている。しかし、神と共に進み通すことは厳しい道を歩むことを意味するという事実に深い感銘を受けることなく、どうしてヘブル書十一章を読み通せるのか、私にはわからない。自分の敵に直面して、この聖なる戦いに入ることは、絶えざる戦い、生ける敵の連隊との交戦を意味する。一歩前に進むたびに、われわれにとってあまりにも手強すぎる敵がわれわれに立ちはだかる。しかし、われわれには直面すべき極めて強力な敵がいる一方で、われわれの前には極めて輝かしい可能性が広がっている。この箇所で、われわれは競争するよう召されている。この御言葉からよくわかること、ひしひしと感じることは、われわれはこの一事に励むべきであるということである。「この一事に私は励んでいる」。そうである以上、邪魔物はすべて除かなければならない。われわれの前進を妨げるもの、この天の競争で最高の速度を出すのをなんとか邪魔しようとするものは、すべて捨てなければならない。救われて聖められるだけでは不十分である。これは素晴らしいことだが、最終目標ではなく、始まりにすぎない。われわれはこの競争を走るべきであり、立派に走るべきである。この競争を走ることは、賞を勝ち取ることである。救われること、自分の名が天に記されているのを知ること、「自分はこの都に入ろうとしている」という明確な鋭く甘い感覚を感じることは、表現しようがないほど素晴らしいことである。しかし、この御言葉にはそれ以上のことが記されている。賞が備えられていて、喝采が鳴り響こうとしている。王杖を与えられて、「良くやった」と告げられようとしている。冠を授けられて、いつまでも続く永遠の栄誉が、来たるべき代々の諸世紀にわたって、われわれのものになろうとしている。それを望むすべての人のために、救い以外のものが備えられているのである。

使徒はすべての罪から救われていたが、「私は後にあるものを忘れて、賞を、冠を、競争の最後にあるものを得なければならない」と述べた。救われていたとしても、失いかねないものがある。天に入ったとしても、失いかねないものがある。パウロは罪の赦しを受け、全く聖められていたが、この競争の最後に待ち構えているものがあって、それが最善を尽くすよう彼を誘ったのである。得られるものが何かあったから、使徒は「すべてを忘れ、すべてを背後に置き去りにして、何があろうと突き進んで、この賞を得なければならない」と述べているのである。私の注解のこの時点で言及したいのだが、走者は訓練者によって大いに注意深く訓練された。これらの競争ではたいそうな準備がなされた。走者はしばしば、競争が始まる前、何日も砂袋を運んだものだった。それは足の軽さを感じて、最善を尽くせるようにするためであった。しかし、走者は決して砂袋を持って走らなかった。競争を走る前に、必ずすべてを捨てたのである。この御言葉は、われわれに捨てるよう命じる口調を確かに帯びている。

私は言いたい。いとも容易にわれわれに絡みつく罪を、われわれは捨て去るべきである。この絡みつく罪は生来の罪である。先日、ある人が「私の絡みつく罪はせっかちさです」と言った。「私のは高慢です」と言う人もいるし、それは「自己中心性」等であると思っている人もいる。しかし、それは誤りである。絡みつく罪は生来の罪であって、高慢、短気、悪意、自己中心性、怒り等は、その副産物である。生来の罪は、この一覧全体の原因である。邪悪なあらゆるものの温床であり、根株である。老女が言うには「困らせる罪」である。人に不親切なことをさせる罪である。自己否定や無私の心から人を遠ざける罪である。生来の罪は、真のクリスチャンではあるのだがまだ聖められていない人の生活の中にあるあらゆる不正行為の原因である。それを取り除く行動を終えて、「自分はそれを取り除いた」と言う人が、とても大勢いる。しかし、その誤りを彼らの生活が証明している。生来の罪は、たんなる暗示や、しるしや、決意では、その霊的性質を手放そうとしない。叫んで追い出せるとか、数回跳ねれば威嚇して追い出せると思ってはならない。肉的な性質が人の魂にその牙を突き立てており、あなたの存在の繊維そのものを握っている。そして、そのかぎ爪をあなたの道徳的性質の最も深い部分に隠している。神の全能の力があなたの魂の上に臨んで、それに去るよう命じない限り、それは決して去らない。多くの人は思い違いをしている。聖められたと思っていても実はそうではない人々が、今朝ここにいる。生来の罪は狡猾であり、欺瞞的であり、説得力を持っている。

生来の罪は古い人、罪の体と呼ばれることもある。古い人は、魂の中にとどまることを許されさえするなら、あらゆる種類の取り扱いや懲らしめによる服従を耐え忍ぶことにも同意する。とどまることを許されさえするなら、極めて狭苦しい不快な片隅に行くことにも同意する。古い人は消滅することを恐れる。残酷な行為や排斥されることに、断固として反対する。

十字架は厳しい道であり、古い人はもっと楽なものを求める。しかし、罪の体の真の磔殺だけが、クリスチャン生活における不正行為の治療法である。神に感謝すべきことに、本物を得ることは可能である。聖霊と火のバプテスマは肉的性質を滅ぼし、われわれを安定させ、他のどこにも見いだされない堅実さをわれわれに与える。

これはわれわれを重みのある者にし、つまらない、軽薄な、馬鹿げたものをすべて除き去る。いわゆる聖潔派の人々の間に見られる軽薄さのゆえに、深い心の痛みを覚えることがよくある。全く聖められた魂は堅実になって、ある種の霊的落ち着きと確固たる目的をもって進むので、いかなる困難や試練に遭うよう召されたとしても、自分の道を進み続ける。

「罪をかなぐり捨てて」。これは行うのが困難な働きである。これは葬りを意味する。十字架につけられることを意味する。自分の心にとって最も親密で慕わしい物と別れることを意味する。大事に世話をして養い、抱きしめてきた物と別れることを意味する。神が今朝われわれを助けて、この競争を走るには生来の罪をかなぐり捨てなければならないことを見せて下さいますように。

私はこれまで多くの祭壇の奉仕を見てきた。それらの奉仕では、人々は叫んだり歌ったりしながら一連の偽りの過程を通らされる。そして、人々が通り終わると、この働きを再び繰り返さなければならないのである。聖霊の大能の力によって通り抜けるとき、あなたは生来の罪から解放される。喜ばしいことに、聖霊は私を聖めて下さり、私はいっさいの重荷と、いとも容易に私に絡みつく罪とをかなぐり捨てたのである。

何か特定の罪を取り除くために祭壇に進み出るのは大きな間違いである。なすべきは生来の罪を取り除くことである。もしあなたが自分自身を打ち破って征服できるなら、あなたは自分に立ち向かうものをすべて打ち破って征服できる。野外で征服できるようになるには、まず自分自身の魂の中で勝利を得なければならない。

また、罪をかなぐり捨てなければならないだけでなく、重荷があることもわかる。それ自身は罪深くなくても、前進を遅らせる重荷がたくさんある。そうであることがわかったなら、それらをかなぐり捨てなければならない。聖霊は生活や行動の仕方をわれわれに教えて下さる。しかしわれわれは、本質的ではないことでわれわれの実行に他人を従わせようと決してするべきではない。

担ってよく走るには、あまりにも重すぎるものがある。優雅な部屋着や朝着は応接室や揺り椅子には向いているかもしれないが、競争で走るには不便である。かなぐり捨てなければならないものがあるのである。それが何か、聖霊はわれわれに教えて下さる。この競争を走るつもりなら、最善の状態でいなければならない。さて、私が印象づけたい思想は次のことである。すなわち、われわれは救いと聖めという事実を始終喧伝して思い切り飛び跳ねながら、この地点にとどまってはならないのである。むしろ、私は立ち上がって出て行き、他の場所に到達したいのである。われわれは前進しなければならない。これは競争であって、われわれは勝たなければならない。今朝私はあなたたちに言いたいのだが、もしこの競争で最高の速度を出すのを妨げるものが私の心や生活の中に何か見いだすなら、私はそれをかなぐり捨てる。

この競争を立派に走るには、ある速度が必要である。神の御旨はわれわれを聖霊で大いに満たして、われわれがこの競争を容易に、敏捷かつ素早く走れるようになることである。

かつて、私はアイルランド人の二人の族長の話を読んだ。彼らはある美しい山の湖の領有権を主張した。この所有権の問題に決着をつけるために、湖を横断する競争をして、反対岸に最初に着いた者が所有者として認められることになった。彼らは懸命に漕いだ。湖を半分以上横断するまで競争は五分五分だったが、その地点で一方の船が遅れ始め、他方の船が急速に岸辺に近づいた。すると突然、遅れていた方が手斧を取り出して自分の手を切り離した。そして、その手をもう一方の手で持って、岸辺に投げたのである。その勇気に敬意を表して、彼が所有者と宣言された。私が読んだのは物語にすぎないが、私の要点をよく示している。たとえ右手を切り離し、右目を引き抜いたとしても、われわれは賞を得なければならない。岸辺に着かなければならない。冠を勝ち取らなければならない。「あなたの右目があなたをつまづかせるなら、それを引き抜け。あなたの右手があなたをつまづかせるなら、それを切り離せ」と聖書は告げている。あなたの前進を遅らせるものは何であれ、いかなる代価を払っても、それをかなぐり捨てなければならない。

この競争からわかるもう一つの点は、走者には自分の周りで何が起きているのか見る時間は無かったということである。常に目標を目指しながら生きなければならなかったのである。観客は人々でごったがえしていたが、走者には観客を一瞥する時間はなかった。もし最高の速度を出したいなら、あなたは自分の目を人々や周囲から離さなければならない。あるとても重要な意味で、もしこの競争で成功を収めたいなら、われわれは他の人々を放っておかなければならない。

また、これは忍耐を要する競争であることがわかる。「走ること」「どこかに辿り着くこと」「何かをすること」について私が話し始めると、「もっと高く飛び跳ねて大騒ぎをしなければならない」と感じる人もいるだろう。しかし、そうではない。われわれの競争は男らしさの競争というよりは、むしろ忍耐の競争である。何をなすかの競争というよりは、むしろ何を絶え忍べるかの競争である。われわれが最高の速度になるのは、神を待ち望んでいる時であることがよくある。そのような時、おそらく他の人々の目には、われわれが少しも前進していないように映るかもしれない。かなりの騒音や示威行為に囲まれて、「自分も同じようにしなければならない」と考える誘惑にかられる人も時にはいるかもしれない。この競争は忍耐の競争である。そして多くの時、じっとしていて主の救いを見ることにより、私はさらなる進歩を遂げてきた。走っているように感じられない時でも、あなたは走っているのである。そのような時は、あなたが成長して自分の着物よりも大きくなった時である。極めて厳しい試練、極めて深い試み、極めて痛ましい戦い、ひどく長引く悲しみ、いつまでも終わらないように思われる物事のさなかにあるとき、こうしたものはまさにあなたを霊的に成長させてくれるものかもしれないのである。私は真心からあなたたちに話している。この競争を忍耐強く走るなら、たとえ人々があなたのことを後退していると思っていても、あなたは速く進んでいるのである。主と共に速く進んでいるなら、それで十分である。ああ、主がわれわれを御覧になって、「よくやった」と言って下さるなら。主に「彼女は自分にできることをしたのだ」と言ってもらえるなら。主が棺桶の中にいるあなたに微笑んで、「良い忠実な僕よ」と言って下さるなら、それは素晴らしいことである。今いる所でわれわれが成し遂げることは、あまり多くない。あなたの競争の大部分は苦難の競争である。しかし、忍耐深くすべてを耐えて、文句を言わずに苦しむなら、あなたは必ず反対岸に辿り着いて冠を勝ち取るのである。

ヘブル書十一章が次々に示す人物たちを見よ。彼らはのこぎりでひかれ、鉤に吊され、磔にされ、頭を落とされた者もいた。油の中で釜ゆでにされ、その後も具合がよければ、前にもまして釜ゆでにされたのである。鞭打ち、投獄、懲罰――パウロよ、あなたは自分の命を救うために都の城壁を籠で下ろされたが、これはあまり勝利のようには見えない。しかし、パウロは「常にわれわれが勝利するようにして下さる神に感謝する」と叫ぶ。籠で下に降りるほど、気球で上に上がるのである。下に降りれば降りるほど、さらに高く上るのである。どれだけ高く飛べるのか、どれだけ大声で叫べるのかは問題ではない。見せかけのものはすべて、あなたが自分の魂の内に持っているものの所産にすぎない。そして、それがこれ以上のものと見なされる時、それは罠となり、妨げとなる。感情は一時的なものだが、私が述べているのは永遠に持ち続けられるものである。

かつて私は年老いることを恐れていたが、祝福された二、三人の老人たちに会って、もはや恐れを感じなくなった。私は自分の行程を終えようとしている。どう感じようと気にしない。自分の感覚を気にしていたら、「自分は宗教を信じていない」と何度も結論していただろう。しかし、感覚に優るものを私は持っている。われわれは信仰によって生きる。「信仰は望んでいるものの実体である」。私が持ちたいのは、常に影ではなく実体である。信仰があるなら、月曜日を駆け抜け、水曜日を渡り、金曜日と土曜日を駆け下りて、道中のすべての段階で勝利を得ることができる。

さて、愛する人よ、ここで叫ぶのはたやすいことである。しかし、私には重荷があることをあなたはご存じだろうか?私が魂の内で呻いているのをあなたはご存じだろうか?あなたたちの中には農場で育った人もおり、積み荷を積んだ荷馬車と空の荷馬車の立てる音の違いを知っている。寒い冬の日に、重い積み荷を積んだ荷馬車がどのように市場に向かって出発するのか、どのように音をたてるのか、あなたたちは知っている。愛する人よ、私には気遣っていることがある。それは、われわれの民が積み荷を積んだ荷馬車となることである。そして、この魂の重荷を担い運んで、遂には主から「あなたはイエスを仰ぎ見つつ、忍耐をもってこの競争を走っている」と言ってもらえるようになることである。イエスの生涯には、「自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍」んだ時が何度かあった。彼は殴られ、拒絶された。唾を吐きかけられ、打たれた。嘲笑の的である紫の衣を着たが、恥をものともせず十字架へと急いだ。彼は自分の道を貫き通して、自分の働きの目的を達成した。何度も人々は彼を殺そうとしたが、「私の父の御業を私は行わなければならない」と彼は言われた。そして荒野での四十日間を突き抜け、園でのあの恐ろしい夜の暗闇を突き抜けられた。彼は急いで裁きの間を通り抜け、十字架に急行した。自分の道を押し通して、「終了した」と言える地点に到達された。彼にすべてを忘れさせたのは、自分の前に置かれた喜びであった。群衆が御自分の周りに群がって泣いた時、彼はその人々の方を向いて、「私のために泣いてはならない。自分や自分の子供たちのために泣きなさい」と言われた。彼は自分を否み、自分自身の利益をまったく忘れていたので、他の人々のことしか考えていなかった。あなたや私を救うために、恥をものともせず、すべてを忘れ、すべてを耐え忍ばれたのである。愛する人よ、われわれも同じように進み、同じようにしようではないか。

証人たちがわれわれのことを恥に思わないように進み通したいものである。今、彼らは天の回廊にいる。ヘブル書著者によると、彼らは証人である。この聖書学校で起きていることをクナップ兄弟が知っているかどうかはわからない。もしこの御言葉に何らかの意味があるとするなら、それが意味するのは、われわれに先だって行った者たちがわれわれの競争を見ているということである。ヘブル書十一章の内容は、「天の回廊は私がここで述べたような人々で一杯です。最善を尽くしなさい」ということである。これが私の訳である。われわれはこの競争を走って賞を勝ち取った人々に囲まれている。ああ、この事実を悟れさえすれば。数年前まで、彼らはわれわれが今走っているのとまさに同じ競争を走っていた。さらに数年たてば、われわれは彼らが今いる所にいるだろう。それはすぐである。競争は短い。われわれは成功しなければならない。「イエスを仰ぎ見つつ」。

今は恐ろしい試みの日であることを、あなたたちは知っている。今は、聖霊によって歩んでいる人々が夢にも思わなかった試練を忍ばなければならない日である。だから、絶えず「イエスを仰ぎ見」なければならない。われわれは時としてあまりにも多くのことをしようとする。あまりにも懸命に働こうとする。一目見るだけで、われわれはこの祝福を得ることができ、一目見るだけで、この祝福を保てるのである。イエスを思いみよ。自分自身、自分の試み、自分の境遇を思いみてはならない。イエスを思いみよ。そうするなら、この天の競争であなたは速度を上げるだろう。

今朝、私はあなたたちのためのメッセージを負っている。あなたたちのためだけでなく、あなたたちが宣べ伝える人々のためでもある。人々に告げてほしい、「これはあなたたちが走るべき競争である」と。この若者はイエスのもとに行った時、自分の衣を投げ捨てた。群衆を掻き分けて進む邪魔になりかねないと感じたからである。われわれも同じようにしなければならない。

結論として私は証ししたい。私は神に、私が進むのを遅らせるものをすべて私から除いて下さるよう求めている。全き聖めを受けるのは瞬時だが、捨て去るべきことがたくさんあり、学ぶべきことは膨大である。聖められた後も、大いに成長しなければならない。この意味で、聖めは漸進的な働きである。もし神がわれわれに対して御自分の道を行けるようになるなら、神はたくましさを伸ばし、われわれを強い男女にして、良い競争を走れるようにして下さる。