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「聖戦」

The Holy War

第五章 カナン征服

Chapter 5 The Conquest of Canaan

セス・C・リース
Seth C. Rees



「取るべき地は、なお多く残っている。」(ヨシュア十三・一)

ヨシュア指導下のカナン征服は、われわれの救いの将であるキリストの指導下における、キリスト教の勝利の極めて印象的な型である。

ヨルダン川を渡って歌を歌うことと、中に入ることとは別の問題である。叫んでエリコの壁を崩し、アイでアカンを石打ちで殺し、「全地を所有した」と言えるようになるまで進み続けることは、さらにまったくの別問題である。この言葉が発せられた当時、「カナンの地は制圧された」と誠実に言うことができた。南方の王たちとその力はホレブで打ち破られ、北方諸国はメロンのほとりで征服された。しかし、個人的な嗣業を個人的に取ることに関しては、人々はあまりにもぐずぐずしていた。そのため、ヨシュアは檄を飛ばして、「いつまであなたたちはぐずぐずしていて、あなたたちの神である主があなたたちの父祖たちに賜った土地を取りに行かないのか」と叫んだ。彼らのためらいは、第一にクリスチャン時代に関する、第二に個々のクリスチャン経験に関する印象的な絵図である。過去を一瞥すると、良き地を取りに出かけること、また、栄光を受けたかしらの大いなる命令を遂行することを、キリスト教がいかにさぼっていたのか、いかに乗り気でなかったのかを、見落とすことはありえない。アメリカのプロテスタント主義は昔も今も、失われた世界に向けて全聖書を印刷することをいかにさぼってきたことか。十九世紀たったのに、地上の人口の三分の二はキリストを知らず、十分の九は救いを受けていない。罪深い過去の諸世紀の間に、異教主義は恐ろしく増加した。いわゆるキリスト教国には、なおざりにされている群衆がいる。また、あらゆる所に暗闇が感じられる。こういうわけで、信仰を告白するキリスト教の教会が、出て行って神の御旨を成就することに関して、いかにのろのろとしていたのかをわれわれは見なければならない。神の御旨は最も尊い。神はこの古い世界のためにさえ、壮大な数々の計画を持っておられる。ただしそれは、それらの計画を遂行する人を神が見つけられる場合に限る。しかし、過去の時代全般にわたって、次のようなことが何度も起きた。すなわち、本来なら全教会がなすべきことを成し遂げるために、神は聖められた個人を大いに用いざるをえなかったし、時にはたった一人の人を用いざるをえなかったのである。多くの時、神は大衆の中からさえ、人を起こされた。その人は勃興する霊的死の潮流に立ち向かい、暗闇の軍勢を押し返し、罪から救う福音を広め、他の世代に好機を与えることのできる人だった。どの時代も、御民のやる気のなさは一目瞭然だった。今日のわれわれも同じである。この野外集会が必要になった原因、今朝このようにわれわれがここにいる事実は、われわれの全般的無気力さとやる気のなさによる。諸々の状況に強いられて、われわれはここにいる。それは主のなさることを見るためであり、信仰を告白する友人たちがなおざりにしてきたこの偉大な命令を遂行するために何をなすべきかを見るためである。今日の空虚な信仰告白を神が憐れんで下さいますように!偽りを暴き、力をわれわれの上に送って、偽善がその呪われた頭を覆って永遠の恥に入りますように。これらの事実をどれほど嘆いたとしても、それを変えうる力は地上にはない。神が御腕を現して、その福音の力をわれわれの上に臨ませなければならない。神は御許に来る者をすべて極みまで救うことができる。これは教会の絵図であるだけでなく、個々のクリスチャンの経験でもある。ここで、決着を着けるべき諸々の問題がわれわれの多くに立ちはだかる。それらの問題に雄々しく立ち向かって適切に決着をつけるよう、神はわれわれを助けて下さる。「取るべき地は、なお多く残っている」。キリスト教会の弱さは、その原因を辿って行くと、聖霊を一度も受けたことがない事実に起因する。いわゆる聖潔運動の弱さは、その原因を辿って行くと、聖霊を認め損なった事実に起因する。それなのに、進んで行って良き地を取ろうとしているのである。多くの人は間違いなく聖霊を受けたが、その賜物と恵みをなおざりにしたせいで、聖霊を悲しませて消してしまい、とうとう聖霊は退いてしまわれたのである。聖潔運動の弱さと、多くの場所で喫した不名誉な敗北は、その原因を辿って行くと、次の事実に起因する。すなわち、人々が御霊の賜物を受け損なってきたためであり、主の軍勢の将である御方を認めずに、この御方を前線にとどめておくことに失敗してきたためなのである。われわれの多くは自分が指導者になることを望んできた。働きは主のものであって、われわれは助手にすぎないことを理解すべきだったのに、われわれは自分たちを助けて下さるよう主を呼び求めた。われわれに関わるすべてのものの唯一の所有者は主であることを理解すべきだったのに、われわれは緊急事態に際して主を呼び求めた。「主がわれわれを問題から守って下さる」と主に信頼するべきだったのに、われわれは困難に際して主の御許に行った。全き聖めはクリスチャン経験の極致であると思い込む過ちを犯している人もいる。実は、全き聖めは、勝利の、輝かしい、征服の歩みの始まりにすぎず、日が沈むまで良き地を取らなければならないのである。多くの人は神と共に歩むことに失敗した。最悪なことに、彼らは後に取り残されたのである。彼らの多くは依然として聖めを告白し、それを誠実に証しするが、確かに荒廃していて空虚であり、力もなく、無様な失敗を犯している。全き聖めは瞬間的なものであるだけでなく、漸進的なものでもあることを、多くの人は忘れている。悲しいことに今日、この経験の漸進的な面がなおざりにされている。全き聖めを受けるのは瞬間的であり、生来の罪は瞬時に滅ぼされ、聖霊がその宮に来臨されるのは突然である。しかし、聖化の外面的な働きと、日々の生活で聖霊を着ることとは漸進的である。われわれの心は一瞬で清くされるが、われわれの生活は年がたつにつれて御姿に同形化されてゆく。神の最高の御旨がわれわれの内に、またわれわれを通して成就されるには、そして、われわれが良き地を取れるようになるには、時間、忍耐、労苦が必要であり、神を待ち望むことが必要である。

速記術の諸々の原則は比較的短時間で修得できるかもしれないが、その技術を楽々と素早く身に付けて実践するには時間が必要である。クリスチャン経験においても、瞬間的に得られるものがとてもたくさんあるが、楽々と使いこなす術を学ぶには年月が必要である。パウロは「私はいかなる境遇でも満ち足りることを学んだ」と述べている。私もこれを学んだ。啓示によるものもあれば、学びによるものもある。パウロは「私は貧に処する道を知っており、富におる道も知っている」と述べている。貧しいがそれに処する道を知らない人が大勢いる。パウロは「私は貧に処する道を知っている」と述べている。彼は尊大にならずに安楽さに処する道、順境に処する道を知っていた。他方、彼は貧に処する道を知っていた。暗く薄汚い床の上で文句を言わずに眠る道を知っていた。そうする道を知っていた。そうせざるをえないことと、そうする道を知っていることとは別問題である。クリスチャン経験のこの漸進的な面は、悲しむべきことになおざりにされてきた。そのため、多くの人が力を奪われ、神と共に歩むことにまったく失敗している。主はヨシュアに「取るべき地は、なお多く残っている」と言われた。主がこの御言葉を語られた時、ヨシュアの足下には首を刎ねられた三十一王が横たわっており、ヨシュアは三十一の堅固な要塞を掌握していたが、取るべき地はなおかなり残っていたのである。彼らは取った地の首長たちを打ち倒し、いくつもの要塞を取ったが、神は「終局に達したと早合点してはならない」と言われた。縦走すべき距離は長大であり、上るべき山頂はさらに高い。日が沈むまで進み行け。われわれの多くに関して言うと、以前受けた教育がわれわれの邪魔をしている。われわれは間違った教育を受けてきた。それらがあまりにも積もり重なっているため、聖霊はそれを一層ずつ取り除かなければならない。一層また一層と取り除かなければならない。ペテロはそのようなユダヤ人だったので、心を清められた後、頭の体操をする経験をしなければならなかった。神と共に歩むとき、われわれは進んで行って途方もないこと、夢にも思わなかったことを経験する。主がわれわれの体についてわれわれに話されるのを経験し、自分の体調、境遇、自分の生活に臨む奇妙な摂理、決して説明のつかないものについて、主に信頼するよう導かれる。そうするとき、主は恐ろしい圧迫の下にあるわれわれを導き、守って下さる。酷く困惑する試練の境遇の中で、聖霊がわれわれの叫びを静め、優しい歌を歌ってわれわれを眠らせて下さるのを、われわれは経験する。主に従って行くこと、主を知ることは、極めて奇妙な酷い境遇でも主に信頼することである。困難、試練、暗い状況に囲まれていても、ナイチンゲールのように歌い、絶えず喜び、尽きるおそれのない深い泉から飲むのをわれわれは経験する。いわゆる聖潔運動の中にある純福音への反対は、その原因を辿ると、人々が聖霊と共に歩んでいない事実に行き着く。彼らはみな同じように正真正銘のペンテコステを経験したかもしれないが、かりに彼らが聖書に書かれていることに反対しているなら、それは彼らが聖書の著者である御方と親しくないせいである。そして、反対を続けるなら、その魂は痩せこけるであろう。今朝このメッセージを聞いている人の中に聖霊と共に歩んでいる人がいたなら、聖霊はその人に天で行われる遠足について囁いて下さっただろう。もしあなたが神の臨在と共に一人で隠遁して歩んで来たなら、あなたは主の地上への再来という奥義を知っていただろう。真に前進している聖徒には、友人たちから間違っていると断言される時、すべてが不利に思われて落胆する時、説明しようのない悲しみに満たされる時、状況全体ががらっと変わる時がある。しかしその時、聖霊はあなたに主の再来についてささやいて下さる。主はあなたを携え上げて、来たるべき艱難から連れ出し、新エルサレムの中に住まわせて下さる。そこでは、この地上に住む者たちの上に必ず臨む恐ろしい出来事を見ることはない。聖霊を受けている人々は救いの価値を知るのに、あまり神学を知る必要はない。無味乾燥な説教で人々に忍耐を強いるのに神学が必要かもしれないが、神から昔ながらの根本的真理を受けるのに、諸々の学派の神学は決して必要ない。正統的になるために、自分の仕事を辞めて図書館を渉猟する必要はない。諸々の学派から詰め込まれた大量のものを、主は叩き出さなければならないかもしれないが、主にはそれができる。神は心を磨いて頭脳を大きくすることができるだけでなく、頭脳のちっぽけな人々を用いて、神学にたけた人々以上のことを成し遂げてこられた。まったく聖められた人は目に見えない都を見、理解できないことを理解し、奥義を理解し、地上の多くの人々が知らないことを知る。主は、君主たち、参事官たち、地上の王たちを驚かせるような奥義をあなたにささやいて下さる。主と共に歩むとき、あなたは主とその御業に親しむようになる。試練、悲しみ、死別の中でも、大いなる慰めを見いだすようになる。これは全く説明がつかない。これを理解できる人は誰もいない。しかし、いと高き方の隠れ場に閉じこもって慰め主と語り合う人の魂を、主は命の水の中に浸し、油――純粋な油――を注いで下さる。そして、彼らは主の御前に座す。時として主が沈黙しておられるように思われても、不安にならない。愛している方の無言の臨在の中に座すことは、極めて大きな満足を与えてくれる。主の慰めに満ちた臨在は慰めを与えて、堅固な者にしてくれる。われわれが進んで行って良き地を取っている間、主は絶えずしっかりとわれわれを支えて下さる。兄弟姉妹よ、あなたたちは進んでいるだろうか?ヨルダン川の岸辺に到着しただろうか?

カナンは右にも左にも境界があると述べられているが、われわれの前に境界線はない。日が沈むまで進むのである。この輝かしい朝、われわれの中には大いなる祝福の頂に座している人もいるが、その目的はさらなる領域をわれわれに見せるためにほかならない。他の山頂に達しても、依然として他の領域、霊的祝福の他の山頂がある。あなたは飛び跳ねながら進んで行き、近い将来、飛び跳ねるパウロのように、飛び跳ねながら神の都の中に入るのである。

この前進、聖霊と腕を組んで歩む歩みは、宇宙の他の何物にもない特徴を帯びている。われわれはどこまでも進んで行く。都を陥落させても立ち止まらず、王の首を刎ねても立ち止まらない。進んで行って個人的嗣業を獲得する。今朝目を上げて、主がわれわれのために獲得して下さったものの素晴らしさを見つめようではないか。近い将来、アクサの祝福の宿る地にわれわれは渡るであろう。彼女は結婚した時、父であるカレブに、自分の嗣業である南の地だけでなく、「上なる泉と下なる泉」をも要求した。南の地は焼け付く日ざしの下にあり、焼け付くような熱で干上がることもしばしばあったが、彼女は下なる泉だけでなく上なる泉をも得ることに成功した。そして山々の泉から、雪どけ水の供給を常に受けて、冷たい爽やかな水だけでなく、南の地を肥沃にする水をも得たのである。焼け付く日ざしの下で、彼女の貯水池、小川、細流、渓流が乾き切った時、谷の細流がなくなった時、そこに上なる泉からの流れが注ぎ込んだ。その流れは決して尽きることはなかった。他の人々なら灼熱の下で干からびていただろうが、彼女は何があっても決して干からびない泉を要求した。アクサはこの素晴らしい聖化の祝福の極めて顕著な麗しい型であった。ああ、神に感謝すべきことに、このような地があるのである。そこには下なる泉がある。その泉は地的喜び、友人たちや愛する者たちとの交友、主がわれわれに授けて下さる束の間の祝福の泉である。しかし、そうしたものがみな過ぎ去って、地的喜びがことごとく干上がり、人の最後の支えが崩れ落ちる時、神の愛と恵みの豊かな大海という上なる泉から、爽やかな流れがわれわれの魂の上に臨み、われわれは「言いようのない喜びをもって喜び、栄光に満ちる」のである。

地的泉が干からびる時を、われわれ全員が経験する。この地上の喜びは消えて行く。かつて宮殿のような家に暮らし、駿馬を駆り、豪華な馬車に乗っていた人々を私は知っている。しかし、彼らの地的富は消え失せ、今では粗末な小屋で暮らしている。しかし、その目は燦めいており、その顔は輝いているのがわかる。彼らは決して尽きない泉、上なる泉から飲んでいるのがわかる。神に感謝すべきことに、決して尽きない泉の地があるのである!それは山の水であり、天の丘々の頂から、神の都を喜ばせる流れから発する。そこで聖徒たちは神の家の豊かさに満ち足り、神の喜びの川々から飲む。最後まで耐え切った聖徒たち、神のために最大のことを成し遂げた聖徒たちは、常にこれらの泉を持っていた。アブラハムはそれらをモリヤ山で見いだした。モーセはこれらの泉をミディアの丘々の間に見いだした。ダビデは敵の前から命からがら逃げて、洞穴や荒野に隠れた時、それらを見いだした。彼は大いに飲んで、「神の都を喜ばせる流れ」の川々について歌った。

イザヤは、自分の生活を取り巻く暗闇や試練のさなかで、これらの上なる泉を見いだして、輝かしい流れと泉について歌った。そして時として、「あなたたちは喜びつつ救いの井戸から水を汲む」と述べた。ハバククは、牧場が干からびて焼け付いている時に、これらの泉を見いだした。群れはいなくなり、畜舎には何もなく、穀物は干からびて、葡萄園には何もなかった時、彼は自分の葡萄の木やイチジクの木の下に座って、「それでも私は主にあって喜ぶ。わが救いの神にあって喜ぶ」と歌った。パウロとシラスはこれらの泉をピリピの古びた牢獄の中で見いだした。彼らが歌うと扉が開き、さらに歌うと囚人たちは解放された。彼らには、決して尽きない喜びのこれらの泉があったからである。ジョン・バンヤンはこれらの泉をベッドフォードの牢獄で見いだして、ある日、「人々は私を牢獄に閉じ込めたので、私は書くために座った。私はひたすら書いた。喜びに促されたからである」と言った。メアリー・ダイアーはボストン下院の処刑台でこれらの泉を見いだし、ひたすら飲み続けて、遂に彼女の魂は神の都に向かって飛翔した。棺の中に入れられた後の彼女の輝きに満ちた顔は、星々の彼方の上なる泉の聖なる水に夢中だったことを示していた。愛する人よ、思い違いをしてはいけない。これらの泉は依然として流れているのである。「これらの泉はみな干上がってしまった」と信じ込んではいないだろうか?「大らかなクリスチャン経験は過去のものである」と信じ込んではいないだろうか?キリスト教は変わっていない。人々はあなたに、「われわれは昔の人々と比べて感情的ではなく、教育がわれわれの感性を変えたのである」と言うかもしれないが、諸君、信じてはならない。この世の霊は変わっておらず、福音の霊は永遠に同じである。教育者があなたに「われわれは感情的宗教を卒業したのである」と言うなら、あなたは上なる泉からさらに飲むがよい。神が自分のためになして下さったことのゆえに、神にどう十分に感謝すればいいのか分からないなら、詩篇作者と共に「私は救いの杯を取ります」と言うがよい。自分の周りの池や貯水池が空っぽで、小川は干上がっているなら、思い出せ。あなたは上なる泉から飲むことができ、もはや乾くことはないのである。

目を見張るような仕方で人々が神の御旨を成し遂げたどの時代でも、彼らは新しい水路を切り開かなければならなかった。古い道しるべを後にして、一人で進まなければならなかった。さらに豊かな潮流のために、新しい水路を切り開かなければならなかった。諸君、あなたがこの運動の中にいる目的が単なるありきたりのものを得るためなら、私はあなたと同行できない。しかし、この会衆がわれわれに加わって並外れたものを求めるなら、たとえ新たな水路を切り開き、踏み固められた古い道を離れて昔ながらのわだちから抜け出さなければならなくても、人々や悪魔どもを気にせずに、神と共に最後まで進み通すなら、私は永遠にあなたと共にいる。神のために最大のことを成し遂げた人々や運動は、世的宗教の踏み固められた道を全く無視して、極端、無駄、非合理的と見なされていたことを行ったのである。キリスト教を人の理屈や人の賢さと調和させようとは決してしなかった。アブラハムは先駆者だった。ヨナはニネベへの最初の宣教士だった。モーセは四十年間受けてきた教育に完全に背を向けて、ごつごつした杖以外何も持たずに出て行かなければならなかった。モーセには薬学の知識があり、学識があった。文字通り諸々の栄誉をたくさん受けていた。それにもかかわらず、それに背を向けて、一片の真鍮を棒に取り付けて、人々がそれを見るようにしなければならなかったのである。マルチン・ルター、ジョージ・フォックス、ジョン・ウェスレー、神のために何らかの偉業を成し遂げた人はみな、誤解されつつ着手しなければならなかったし、神の御旨を成し遂げるために異様で極めて極端に思われることをしなければならなかったのである。だから前進しようとするなら、われわれは新たな水路を切り開かなければならない。新たな試練がわれわれに臨むだろうし、とても困難なことがわれわれの前に現れるだろう。敵は訴え、計画を練り、策略を講じて、様々な方面からやって来るだろう。しかし、聖霊と共に歩むなら、神に感謝すべきことに、われわれは良き地を得るのである。一人でも、愛する人よ、私は良き地を取るつもりである。私は来たるべきペンテコステについて、とても長い間祈り求め、涙を流し、記事を書いてきたので、それが到来した時に引き下がることなどできない。来たるべきペンテコステについて書き記し、話してきたのに、その栄光の大波が自分たちの上ではじけるのを目にして驚くとするなら、それは愚かなことである。神が私の証人である。私の魂には微塵の妥協もない。私がこの地上にいて神が私に息を与えて下さるかぎり、私は力を尽くして罪と戦い、出来る限り領地を取るつもりである。愛する人よ、われわれはペンテコステ的力やペンテコステ的顕現に戻るべきではないが、われわれの中にはその方面に向かっている人もいる。われわれは日没の後を追っている。「取るべき地は、なお多く残っている」のが見える。無断居住者がわれわれの平原を取るのではないかと人々は心配しているが、われわれは自分自身の問題を顧みなければならない。人々が撤退しても、われわれは良き地を取らなければならない。われわれのなすべきことは、その領域を徒渉することだけである。「あなたたちは歩んだ分だけ土地を得る」と主は言われる。私は死ぬまで歩くつもりである。私は良き地を得なければならない。

自分の部屋にいた時、この講壇に来る前、私は天からの声を聞いた。この野外集会では「取るべき地は、なお多く残っている」ことが分かった。誰かが取るべき地を取らなければならない。誰かがそのようにテントを張らなければならない。主の来臨が遅れているのは、良き地がまだ占領されていないからである。いくつもの世代が次々と地上を席巻してきた。立ち上がって良き地を取る世代を見いだせるまで、神は待っておられる。その世代がわれわれだとしたらどうだろう。素晴らしすぎてありえないように思われるが、これに優るものはない。私は信じる。もしこのことで神がご自分の道を進むことができるなら、まさにこの運動はこの今の時代を遂には完結させるだろう。小羊の婚宴の席をすべて埋めなければならない。まもなく最後の席が埋まるだろう。その時、われわれの主は立ち上がって腰に帯をし、われわれは空中で主と会って、小羊の婚宴の間に入るだろう。私はそこにいなければならない。

良き地の中にいなければ、立ち上がってそれを取ることはできないし、完全に救われていなければ、その中に入ることはできない。最初から始めなければならない人が大勢いる。私の前には大勢の人々がいる。その人々は、聖化の漸進的な面に注意を払っていれば、今いる所からもう何年も進んでいただろう人々である。彼らは野外集会のたびに問題解決のために駆け込む代わりに、神のために宣べ伝え、歌い、叫んでいただろう。おそらく、この世界の反対側で。今朝私が願っているのは、あなたたちが下って行って何かを獲得し、あなたたちがもはや再び祭壇に行く必要がなくなることである。私は願う。あなたたちが何かを獲得して、たとえガブリエルが下って来てあなたたちに宣べ伝えたとしても、戻って行って「私はこの人々を祭壇にもたらせませんでした」と言うようになることを。われわれは進んで行って良き地を占領し、聖霊と共に歩み続けるだろうか?とても特異な状況や奇妙な環境の下で、あなたは泉から飲まなければならなくなるかもしれないが、神に感謝すべきことに、神はあなたと共にいて下さる。主は私の魂の中に鉄柱を据えて下さったかのように私は感じる。これは素晴らしいことである!あなたが神と歩調を合わせているとき、そして、あなたが辛い目や厳しい目に遭うのを神が御覧になるとき、神は鉄の肋材を入れて下さる。神に栄光あれ!私は飛び跳ねたい。聖徒が前進するとき、神の民が聖霊の導きの下で力を合わせて努力するとき、この地球は地震の衝動を感じるようになる。大きな試練や難局の下にあってもあなたが神にあって喜んでいるのを罪人が見る時、そのような時にあなたが目に見えない泉で飲んでいるのを罪人が見る時、その時、罪人は「自分も一口飲みたい」と求めるだろう。「これこそ自分が求める宗教だ」と言うだろう。そのような時にわれわれが飲まないなら、神は注視しておられ、罪人も注視している。難局にあって歌い、輝き、叫ばないなら、それはわれわれの王とその王国――われわれはその代表者であると言っている――の権益に反することである。ああ、良き地を取ることができるよう、今朝どうか神がわれわれを助けて下さいますように!私は次の山頂を目指している。新たな領域を見ることを期待している。私はあまり目立つ存在には思われていないが、宙返りをしなければならないならそうするだろう。聖霊によるものは何事も、常に秩序立っている。あなたは新しい光を得ただろうか?今朝、あなたは自分の体のために神に依り頼むことができただろうか?私は信じているが、ここにいる人々の中には、下にあるものを手放して上方に達し、決して失せることのないものをさらにしっかりと捉える人々がいるだろう。この世は過ぎ去る。それはなくなる。決して燃え尽きないものをわれわれは得なければならない。立ち上がって前進しようではないか。高みや深みを見ようではないか。われわれはどのみちこの世の屑である。教会はわれわれにとても耐えられない。われわれは救いに何が含まれているのかを見るほうがよい。あなたは自分が良き地の中にいないことを分かっていながら、立ち上がって徒渉するつもりがないのか?失敗は許されない。批判してはならない。質問してはならない。立ち上がって前進せよ。自分のことを話すな。自分が諦めきっていることや自分のしていることを主に告げるのではなく、主はいかに愛すべき方であり自分はいかに愚かだったかを主に告げよ。自分がいかにのろまで愚かだったかを主に告げよ。祭壇に行って、自分がどれほど主に明け渡してきたかを主に告げてはならない。手がそれで一杯なことを主はいずれにせよご存じだし、私もあなたが明け渡したものについてさんざん聞いている。そういう話はうんざりである。あなたが神、その豊富、その積極性、その忠実さについてもっと話すのを私は聞きたい。「神はそれを行うことを私以上に望んでおられる」とあなたが言うのを私は聞きたいのである。